京都祇園・薩土討幕之密約紀念碑・除幕式

謹啓
蝉声の候、令和の新御代を言祝ぎ、時下益々ご清祥のことと お慶び申し上げます。
本年は折しも明治維新151年、明治の元勲・板垣退助先生薨去 第百周忌大遠忌を迎え、皆様方の広く厚き御協賛・御協力を賜りまして、昨年に引き続きこれらの記念事業を滞り無く執り行うことが出来ましたことを茲に深く御礼申し上げます。

記念事業の一環として、西郷隆盛先生・板垣退助先生・中岡慎太郎先生ら勤皇の維新三傑を顕彰する石碑を、来る9月22日(日)を期し、維新三傑とゆかり深き京都祇園に建立・除幕式を挙行する運びとなりました。皆様におかれましては、ご多忙のこととは存じますが、お誘い合わせご臨席賜りますよう、謹んで茲にご案内を申し上げます。
                  敬白


【除幕式】
●とき:令和元年9月22日(日)
    12:30~ 受付開始(石碑前)
    13:00~ 祝詞奏上、除幕式、式辞奉読、記念撮影
    14:00~ 京都霊山護國神社(坂本龍馬・中岡慎太郎両先生奥津城、土佐藩招魂社参拝)
    14:30~ 直会(※事前申込要、記念品あり)

●石碑建立場所:京都府京都市東山区清本町368-3 祇園K.Sメトロビル前
        (阪急電車「四条川原町」、京阪電車「祇園四条」下車すぐ)


●直  会:金五千円也(※事前申込要、特別記念品・飲食費込)
●直会会場:京都府京都市東山区清閑寺霊山町1番地 京都霊山護國神社(参集殿)


●主催:一般社団法人板垣退助先生顕彰会 / 一般社団法人杦田衆星会

京都祇園「幕末三傑の顕彰碑除幕式」ご案内フライヤー.PDF

(裏面)板垣百回忌ご案内フライヤー.PDF


「薩土討幕の密約」の意義を顕彰

「薩土同盟」の影に圧されがちですが、我々は「薩土密約(薩土討幕の密約)」の果たした歴史的役割を見逃しません。ガッチリと顕彰して参ります。

土佐藩は合戦前から「薩土討幕の密約」に基づき着々と準備

慶応3年12月28日「薩土討幕の密約」に基づき、西郷隆盛は、京都の土佐藩邸に居る谷干城を通して乾退助にいよいよ、京都で合戦が始まることを告げます。


『祗園新地細見圖』天保11年(1840)

谷はそのことを、京都の土佐藩邸に告げ、年を越して慶応4年正月1日、大急ぎで早馬に乗って土佐に居る乾退助に知らせに行きます。その間、慶応4年正月3日、鳥羽伏見で砲声轟き合戦が始まります。
翌正月4日に、伏見で吉松速之助、山田喜久馬(土居平左衛門)らが参戦。


巽橋附近(京都祇園)

●これを時系列でみると、土佐藩の乾(板垣)退助、福岡孝弟、中岡慎太郎、広島藩の船越洋之助らは京都の料亭近安楼で武力討幕の密議を交わしたのが、慶応3年(1867)5月18日。慶応3年(1867)5月21日、中岡慎太郎の仲介によって西郷隆盛と板垣退助の間で『薩土討幕の密約』が締結されます。(これは坂本龍馬の仲介で結ばれた『薩土同盟』より一ヶ月も前にあたる) 5月22日、板垣は山内容堂にこれを稟申して承認を得、大坂でアルミニー銃三百挺の


祇園の辰巳大明神(弊会撮影)

購入を命じ、土佐に帰国して軍制改革・近代式練兵を行いました。

ところが、一ヶ月後、坂本龍馬の仲介で『武力討幕論』ではなく『大政奉還論』を主体とした『薩土同盟』が、後藤象二郎たちによって結ばれてしまいます。板垣は『大政奉還論』に大反対ですが、容堂はこの意見を容れず、大政奉還が御嘉納あらせられることとなりました。退助は全役職を解任され失脚してしまいます。


石碑はこの道のまっすぐ(南)先の場所に建立されます

●慶応3年(1867)12月28日土佐藩は、山田喜久馬(土居平左衛門)清廉の第一別撰小隊と、吉松速之助秀枝の第二別撰小隊が伏見方面の警備の任につきましたが、このとき、西郷隆盛から『薩土討幕の密約』を履行し、乾退助が土佐藩兵を率いて上京せよと告げられます。要するに『薩土討幕の密約』の密約の後に結ばれた『薩土同盟』により『薩土討幕の密約』が解消したのではなく、『薩土討幕の密約』を主軸におき、幕府からまず大政を奉還させる為に

『薩土同盟』を結び、大政奉還が実ったので粛々と将軍職の権威を下げ、討幕の義挙を行うという認識に基づいたものでありました。この認識は、西郷と板垣らに共有されていたため、第一別撰小隊の山田喜久馬や第二別撰小隊吉松速之助、山地忠七、北村長兵衛らが正月4日の時点で参戦を果たしたのでした。

 

慶応3年(1867)12月28日
第一別撰小隊・山田喜久馬、第二別撰小隊・吉松速之助らが伏見方面の警備につく。『薩土討幕の密約』に基づき西郷から参戦を促され、谷干城が京都の藩邸に報告するも『薩土討幕の密約』に反対する佐幕派上士からは「片岡健吉を大隊司令として上京させよ。乾退助は絶対上京させるな」との命を受ける。

 

慶応4年(1868)正月一日
谷干城が早馬で土佐へ向けて出立。

 

慶応4年(1868)正月3日
渋谷伝之助と松下意興らの各小隊が警備交代のために出張してくるが、最早、一触即発の状況であった為、山田、吉松の両隊は伏見に引続き駐留。

 

半日の睨み合いの後、夕刻に合戦が始まる。

 

山内容堂は在京の土佐藩兵に「このたびの戦争は薩長と会桑の私闘であり、依って何分の沙汰をあるまでは戦闘に参加することを禁止ず」と命じ、総督山内隼人はその内意を受けて伏見に出張し、警備の土佐藩兵に戦闘に参加しないように厳命をつたえる。

 

午後8時討幕の詔勅下る。(同時進行のため、土佐藩士はこの事を知らず?)

 

慶応4年(1868)正月4日
錦の御旗翻る。(同時進行のため、土佐藩士はこの事を知らず?)

 

明方、陣前に敵の迫るので、吉松速之助、山田喜久馬らの隊が敵兵を砲撃して戦端を開き、二川元助の隊と山地忠七の隊が京都より応援に駆け付け参戦、さらに北村長兵衛の砲兵隊も参戦した。
この功に依て土佐藩は、錦の御旗を御下賜あらせられました。

 

正月6日谷干城が早馬で土佐に到着。「乾退助は絶対上京させるな」との京邸の命令を反故にする為、国許土佐で藩主・山内豊範公の許可を得、乾退助を大隊司令として土佐藩到道館より出陣。

 

進軍途中で「錦の御旗」を拝受。

 

京都で、伏見参戦者たちと合流。部隊を再編成し乾退助を総督として2月14日京都より出陣。此日が退助の先祖板垣駿河守信方の命日にあたる為、退助は先祖ゆかりの甲府進撃に備えた美濃大垣で姓を板垣に復し甲府城へ入城。

 

3月6日甲州勝沼で大久保大和(近藤勇)率いる甲陽鎮撫隊を撃破。快進撃を続けて遂に会津を平定したが、板垣は己の名誉徳望を欲せず、むしろ敵方会津藩への罪を減ずる嘆願を行い寛典を唱えました。また斗南藩士の貧状を救済するための、公債発行などを働きかけ、彼らの名誉回復に努めました。

 

明治維新の精神が、王政復古の大号令のもと神武肇国の基礎に立ち返り、国家の枠組みを考え直し、近代国家へ転換していくことであったとするならば、幕末西郷、板垣の両傑に依て締結せられたこの密約はまさに、皇軍を勝利に導き、維新回天の大業を成し遂げる起点となっている事から、我々はこれを紀念(記念)し、明治維新151年・板垣退助百周忌にあたる本年、令和元年の佳歳にこの碑を建てることになりました。
薩土討幕之密約紀念碑・碑文(英訳).PDF


板垣百回忌記念事業(令和元年度)募財要項.PDF』(あなたの御名前が書籍に載ります!)

御協賛ご寄付申込書.PDF


前へ・次へ

投稿日:2019/08/16

お問い合わせはこちら