緒 言

恰かも明治百年
板垣退助先生五十年祭を迎うるに当り、追慕の情、新たなるものあり。ここに有志相計り、板垣退助先生顕彰会を結成して記念碑建立 及び墓地整備を計画す。幸に、大方の賛同と協力を得てこの工事は順調に進行、略々完了を見るに至る。依って十二月八日を期して右落成式並に五十年祭を挙行せんとす。ここにおいて先生略伝を編輯し偉業の概略を記す。もつて追慕の一助ともならば幸なり。

昭和43年(1968)11月
板垣退助先生顕彰会

 

 


 

板垣退助先生顕彰会発起人名簿(発足時)

名誉総裁 自由民主党総裁 佐藤榮作
名誉副総裁 同党幹事長 福田赳夫
名誉会長 高知県知事 溝淵増巳
顧  問 土佐藩主山内家第18代当主 山内豊秋
  高知県人会会長 浜口雄彦(関東高知県人会
第8代会長)
  三菱地所株式会社社長 渡辺武次郎
  日本相撲協会理事長 時津風定次
  岐阜県知事 平野三郎
  岐阜市長 松尾吾作
  青梅市長 石川要三
  日光市長 佐々木耕郎
  衆議院議員 宇都宮徳馬
  参議院議員 塩見俊二(自治・厚生大臣)
  衆議院議員 仮谷忠男
   同 田村良平
   同 和田耕作
  参議院議員 岡村文四郎
  衆議院議員 浜田幸雄
   同 大西正男(郵政大臣)
  衆議院議員 原淳一郎
  前衆議院議員 山崎 斉
  元参議院議員 入交太蔵
  高知県会議員 泉 清利
  高知県商工会議所会頭 西山利平
  東京都品川区長 杉本重蔵
   同品川区議会議員 千葉小二郎(品川区議会
第19代議長)
  元文部事務次官 有光次郎(日本芸術院院長・
関東高知県人会 第5代会長)
  東武ビル株式会社社長・弁護士 西山茂幹
  四国銀行頭取 前野直定
  高知新聞社長 福田義郎
会  長 参議院議員 寺尾 豊(郵政大臣・財団法人板垣会会長)
 副 会 長    丁野暁春(関東高知県人会 第9代会長)
     坂本 寿(日本発条株式会社 第3代社長)
     島田禾郎(日本相互銀行・関東高知県人会 副会長)
     森田久雄(関東高知県人会 副会長)
     仲山利一(品川区 原小学校教諭)
     野老山幸風(丸の内警察署 署長)
 常任理事    土居音三郎(法政大学第一高等学校 数学科教諭)
     赤堀景堂
     松田源十(関東高知県人会 副会長)
    山本 恕
理  事   山地四郎(関東高知県人会 副会長)
    高橋虎之助(洋画家・太平洋美術会会長
・関東高知県人会 第4代会長)
    林 茂太
    武内貞義(元台湾総督府国語学校助教授
・台北第三尋常高等小学校教諭)
    小笠原喜郎(高知県南国市長)
    吉永多賀誠(弁護士)
    宮崎秀身(高知県吾川郡いの町)
    楠瀬清猪
    森尾 昇
    真鍋初次(東洋病院 理事長)
    北村宗秀
    坂本東海
    松岡正一
    吉川富美子
    小野慶十(品川区立東海中学校後援会 会長)
    近江亀久治(品川区議会 第12代議長)
    美濃部権輔(品川区議会 第17代議長)
    永井辰男(品川区議会 第20代議長)
    新橋朝日(品川区議会 第21代議長)
    小泉和夫(品川神社 宮司)
監  事   小野恒雄(関東高知県人会 副会長)
    横山正意

 


 

板垣退助伯薨去五十年墓前祭

昭和43年の「板垣退助伯薨去五十年墓前祭」に関しては、品川神社の全面的な協力のもと同神主により神式にて挙行された。その経緯や当日の様子については板垣退助の玄孫・髙岡功太郎による手記に詳しい。以下『板垣会』会報3号より引用すると、

「板垣退助は大正八年(一九一九)七月十六日に薨じた。退助は襲爵拝辞の旨を遺言し、嫡男・板垣鉾太郎は、この遺志全うすべく廃嫡して爵位を返上した。板垣家の家督は、鉾太郎の長男・武生が夭逝していたため次男・守正が継いだ。仏式では、退助の薨去の翌年の命日を一周忌、その翌年を三回忌と数えるため、昭和四十三年(一九六八)は、退助の「五十回忌」に相当する年であった。また、この年は「明治百年」でもあったため、明治維新の元勲の偉業を顕彰し、これを永く後世に伝えようとする機運が世間にも高まっていたのである」

 


板垣伯薨去五十年祭

(右側奥から、乾一郎、乾富美子、板垣晶子、乾(髙岡)眞理子、秋山範子、秋山有世、板垣直磨、子供奥から秋山裕子、秋山竹生、左列、寺尾豊、他一名/写真:髙岡家蔵)

 


「現在、東京・品川神社の裏手(旧高源院塋域)にある板垣退助の東京の墓所に、当時の自由民主党総裁・佐藤栄作の揮毫による「板垣死すとも自由は死せず」と刻まれた石碑が建立されたのは、まさにこの年に挙行された「板垣退助伯薨去五十年墓前祭」の時のことである。(中略)板垣退助先生顕彰会の編纂による『板垣退助先生略伝(明治百年・先生五十年祭記念)』と表題のある資料に基づいて同顕彰会の発足の経緯を略述すると、昭和四十三年(一九六八)七月十六日の板垣伯の五十回忌の命日を終えた四日後にあたる、同七月二十日、東京都千代田区霞ヶ関三丁目三番三号に所在する高知県東京事務所において、この会は発足した。同会資料は公刊されたものではないため貴重であると思い本文に記された『板垣退助先生顕彰会設立趣意書』の内容をしばし引用すると「板垣退助先生逝いて五十年、御遺族並びに御親戚一同は、相寄り故人をしのぶ五十年祭を営む趣きとなりました。時あたかも明治百年を迎え、今日の民主国家の成長と日本経済の世界的繁栄の姿をみる時、地下の先生はさぞ会心の笑みをたたえておられることと拝察されます。先生は(中略)王政復古の中核となって活躍され、みごと維新の大業を完遂された明治の元勲であり、また明治新政府の発足に際しては、参議として台閣に列し(中略)立派な功績を残されました。不幸にして征韓論に敗れるや、西郷南洲翁と共に野に下り、間もなく佐賀の乱、西南の役起こるに当り、先生は心中深く期する処あり、これに組せず、独り、眼を欧米先進国の経済の趨勢に注ぎ、日本の今後進むべき途を洞察しつつその間静かに想を練り、明治十三年(一八八○)民撰議院開設の建白書を提出するに至りました。政府もようやくこれに動かされ、伊藤博文公を憲法研究のため欧州に派遣する等のことあり、ついに明治二十二年(一八八九)二月十一日憲法発布を見るに至りました。これより先、先生は同志と共に愛国公党を組織し、民権拡張のため全国を遊説し、さらに続いて広く同志を糾合して自由党を結成し、自らその党首となり、進んで陣頭に立ち、全国津々浦々を遊説して席温まる暇なく、議会政治の確立と民主主義思想の育成に努力され…(以下略)」と書かれている」

 


(左から乾富美子、乾(髙岡)眞理子、乾一郎、板垣直磨/写真:髙岡家蔵)

 


「伯の結成した日本初の政治政党「自由党」が現在の「自由民主党」の起源にあたるという主旨から、時の佐藤栄作首相を名誉総裁、名誉副総裁に福田赳夫議員、名誉会長には溝淵増巳高知県知事を頂き、会長は第二次岸内閣で郵政大臣を務めまた高知板垣会の会長でもあった寺尾豊議員、顧問としては、旧土佐藩・山内家御当主の山内豊秋さまや、伯が好角家であったことから日本相撲協会の時津風定次理事長、更に伯の銅像の建立されし縁から、平野三郎岐阜県知事、松尾吾作岐阜市長、石川要三青梅市長、佐々木耕作日光市長や、杉本重蔵品川区長、前野直定四国銀行頭取、福田義郎高知新聞社長ら多士済々が集ってこの顕彰会は発足したのである。前記資料には、この時、記念碑の建立のみならず、品川神社裏手の板垣家墓所一六四平方米(約四十四坪)の周辺の土地一九九平方米(約六十坪)を買い受け墓域修築と造園を行ったことも記されている。建碑工事ならびに墓所の整備は着々と進み、顕彰会は、同年十一月に伯の事蹟と幕末勤皇の志士・中岡慎太郎や西郷隆盛らとの交友をまとめた書簡資料、今回の顕彰事業の概略を記した冊子を編纂した。かくして、同年十二月八日に、記念碑の落成を期して伯の五十年祭が挙行されたのである(以下略)」
明治百年・板垣退助薨去五十年墓前祭(第50回忌)の際、自由民主党総裁・佐藤榮作先生の揮毫により建碑されたもの。佐藤榮作先生が揮毫された経緯は、「自由民主党」の起源は、板垣退助の創設した「自由党」であり、退助の政治上の直系の後継者にあたるためである。

 



揮 毫: 佐藤榮作(自由民主党総裁)
建 立: 昭和43年12月8日
所在地: 東京都品川区北品川 品川神社境内の裏・板垣退助墓脇
中心団体: 板垣退助先生顕彰会
名誉総裁: 佐藤榮作
名誉副総裁: 福田赳夫
名誉会長: 溝淵増巳(高知県知事)
会  長: 寺尾 豊(参議院議員、財団法人板垣会会長)
協力団体: 財団法人板垣会(現 特定非営利活動法人板垣会)
東京高知県人会(現 関東高知県人会)

 


引用: 髙岡功太郎『板垣退助伯薨去五十年墓前祭のこと』(所収『板垣会』会報3号)
写真: 「板垣死すとも自由は死せずの碑」平成23(2011)8.27撮影:板垣退助先生顕彰会

 

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