1.板垣家のはじまり

先祖

板垣家の祖は、人皇第56代 清和天皇の第六皇子 貞純親王の御子 経基王が源朝臣の姓を賜り臣籍降下したことに始まる。源満仲(873?-916)は、摂津国川辺郡多田庄(現 兵庫県川西市 多田神社附近)を所領として武士団を形成。多田満仲と名乗り、やがて武家棟梁として活躍することとなる清和源氏の祖となった。

 

源義光の曾孫が武田太郎信義(1128-1186)と名乗った信義には五人の子がいたと言われ、長男・逸見太郎有義、次男・一條次郎忠頼、三男・板垣三郎兼信、四男・四郎(早世)、五男・武田五郎信光とそれぞれ分与された所領を名字にした。この武田信光の15代目が、武田信玄晴信(1521-1573)である。

 

板垣家は、三男・板垣三郎兼信に発する家で、甲斐国山梨郡板垣庄を所領としたため、「板垣」を名字とした。始祖・板垣兼信は、治承4年の頼朝挙兵からつき従うが、のちにはその強勢を恐れた源頼朝に疎んぜられ、建久元年(1190)6月晦日、ついに「違勅(命令違反)」という罪科を得て、歿収領知遠江国雙侶荘の地頭職を歿収せられ、隠岐に配流された。兼信の嫡男・板垣四郎頼時も、これに連座して常陸に配流され彼の地で歿した。幸い、兼信の次男・板垣六郎頼重が、甲斐国に残ることが出来たため、代々武田家の親族衆として遇されて武田家に仕えた。


板垣信方(松本楓湖画(1871)模写・個人蔵)


板垣兼信から十五代目にあたる板垣駿河守信方が、武田信虎(1494-1574)の家臣で、武田信玄晴信(1521-1573)の傅役(もりやく)となる。信方は武田四天王の一人で、また武田二十四将の一に数えられる名将である。板垣家の家紋は「花菱(裏花菱)」、信方の馬標は「三日月」であった。

信方は、武田晴信が父信虎を追放して家督を継ぐと家臣団の筆頭格となる。晴信が諏訪氏を滅ぼすと諏訪郡代(上原城城代)となり、諏訪衆を率いて信濃経略戦で戦功をあげた。村上義清と戦った上田原の合戦の時、信方は先陣を務め、諸戦で村上勢を破るが、逆襲を受けて、天文17年2月14日(1548年3月23日)討死した。首実検の最中で、煙草を吸って休憩している際に不意をつかれたという逸話がある。

 

この戦歿地(長野県上田市下之条 若宮八幡宮附近)には五輪塔が立ち、のち鳥居が建てられ板垣神社と呼ばれるようになった。

 

信方が討死した後、嫡男・板垣信憲(弥次郎)が亡父の遺領を相続したが、信憲は有能な家臣を持ちながら出陣命令に従わなかったり、被官をぞんざいに扱った等、幾多の不業績があり、信玄公の勘気を被ることとなって長禅寺に謹慎中のところを同輩であった本郷八郎左衛門に私怨によって殺害されてしまったといわれる。

 

板垣家は、もと甲州武田家の親族衆。武田信玄の傅役・板垣駿河守信方の嫡男・板垣弥次郎信憲が懈怠あって長禅寺に謹慎したが、許されず改易された。また同輩衆・本郷八郎左衛門の私怨によって誅せられたとも言う。この時、信憲の嫡子・正信は、家臣・都築久太夫、北原羽左衛門らに養せられて、のち山内一豊の臣となったと伝えられている。退助は板垣信方より数えて十二世孫にあたる。北原羽左衛門は、土佐入領にも付き従い北原羽左衛門家の歴代墓は、高知に現存する。

1.幼少期

天保8年(1837) 1歳

誕生

天保8年(1837) 4月17日(異説16日)、土佐藩士・馬廻役300石・乾栄六正成の嫡男として高知城下中島町に生れる。母は林氏。諱は初め「正躬(まさみ)」と称し、のち「正形(まさかた)」と改めた。号は「無形(むけい)」。幼名猪之助。初諱正躬、のち正形。通称退助。号無形。先祖の本姓は板垣氏で、退助の代は乾氏を称していたが、のち戊辰戦争の際、本姓に復した。

 

命名の由来

退助の幼名・猪之助(いのすけ)は、乾和三(山内備後)の前名「猪助(いのすけ)」からあやかって命名されたもので、乾和三の「猪助」の「猪」の字は、山内猪右衛門と名乗っていた当時の山内一豊公から、和三が「猪」の字を賜ったことによるもの。「猪」は、「猪突猛進」、「猪武者」などと言われ、武士に好まれた動物であった。
しかし退助は「猪之助」の名の通り、腕っぷし強そうな相手でも怖いもの知らずで、猪突猛進に喧嘩をしたりと腕白に育ち過ぎたせいで、謹慎処分を受けることしばしば。ついに藩主公から「猪突猛進に突き進む「猪之助」ではなく、一歩、退いたぐらいを心掛けよ」と「退助(たいすけ)」と言う名を賜ったとか。
後藤象二郎(幼名は「保弥太(やすやた)」)とは竹馬の友で、お互い「いのす」、「やす」と呼びあっていた。

 

天保14年(1843) 7歳

9月9日、惣領御目見。

 

貧婦救済

白小僧の餓鬼大将であった、板垣退助(乾猪之助)の少年時代の話。


龍乗院山門(高知市比島・本会撮影)


ある冬の寒い日、乳飲み子を抱えた貧婦が乾家の門に物乞いに来ました。
家僕が追い払おうとしましたが、貧婦は帰ろうとしません。
猪之助(退助)は、家の中から黙って姉の着物を持ち出し、貧婦に与えました。貧婦は感謝して帰って行きました。姉が着物の無いことに気付いてそのことが露見しましたが、猪之助の母は、経緯を聞いてこれを咎めず、

 

「慈愛の心を以て、民庶を救わんは政道に照覧して尤もなり。他日、必ずやこの子は家名を上げさしめんであろう」
(慈悲の精神を以て郷民に向き合うのは、政治の基本である。子供ながらにその事が分かっているならば、退助は将来、必ず大物になるだろう)

 

と、かえってこれを褒めたと。この乾家の門は、移設され高知市比島の龍乗院の山門として現存しています。

 

嘉永4年(1851) 15歳

腕白盛りで「盛組(さかんぐみ)」の首領として名を売ったが、同輩藩士と喧嘩となり罪を得て「屹度遠慮(きっとえんりょ/「謹真」のこと)」の処分を受ける。

2.青年期

安政元年(1854) 18歳

12月28日、江戸勤番を仰せ付けられる。

 

安政3年(1856) 20歳

謫居生活

8月8日、喧嘩によって「惣領職褫奪(ちだつ、乾家の当主を相続する権利を取上げられる)、城下四ケ村禁足」の重罰を受け、土佐郡神田村に4年間謫居した。吉田東洋の慰撫を受け、態度を改めて文武の修行に励む。

 

吉田東洋に見いだされる

腕白小僧で、勉強嫌いだった退助を見出だしたのが吉田東洋という人物だった。退助が、神田村に謫居していた同じ時に、神田村に謫居していた人物が、吉田東洋と岩崎弥太郎である。特に、岩崎弥太郎の謫居地は、板垣の謫居していた場所と極めて近い。

 


吉田東洋(江戸時代撮影)


吉田東洋は旧長曾我部家の家臣の家柄。学に秀で藩政の重席に抜擢されたが、ある時、酒の席で理不尽な目に遭い藩の上士との喧嘩となった。結果、一方的に東洋が譴責を受け、藩政を干されて謫居し、神田村に家塾を開いていた。そこに通っていたのが、退助の竹馬の友、後藤象二郎である。象二郎から話を聞いたのか、東洋は謫居中の退助に勉学に励むよう諭した。しかし退助は「武士たるもの主君の為に馬上(戦争)で死ぬ覚悟があれば充分だ。勉学など必要ない」と広言した。

 

東洋は退助をたしなめて、「武士たるもの馬上(戦争)で死ぬ覚悟は元より言うに及ばず、当たり前である。その覚悟があった上で、天下国家を支えるの勉学の道である」と語る。

それ以来、退助は勉学に励むようになったという。ただし、吉田東洋の塾には通わず、門下にもならず、独学にて修行研鑽を行ったとされる。

 

長曾我部家旧臣・吉田東洋

吉田東洋の先祖は、旧長曾我部家の家臣で、山内家の土佐入国以降、土佐藩主に仕えた家柄。失脚ののち少林塾(鶴田塾)を構えた。塾名の「少林」は、長曾我部氏の菩提寺から採られたもの。吉田東洋は公武合体を旨としていたが、退助は勤皇・武力討幕を唱え、政治理念には大きく隔たりがあった。にも関わらず、東洋は退助を抜擢する度量の大きさがあった。

 

万延元年(1860) 24歳 

9月30日、土佐藩の免奉行加役(年貢の調査役)に登用される。

3.討幕活動期

文久元年(1861) 25歳

10月25日、御納戸方江戸へ差立て(転勤)られ、軍備庶務掌理(土佐藩江戸藩邸の会計・軍事係)となる。この年、江戸留守並びに御内用役となる。

 

文久2年(1862) 26歳

山内容堂侯の側用人となる


山内容堂(江戸時代撮影)


品川の鮫洲に幽居していた前藩主・山内容堂侯の側用人となり、土佐藩江戸藩邸の総裁をつとめる。

 

吉田東洋が暗殺される

4月8日(1862年5月6日)、退助が江戸滞在中、国元の土佐では吉田東洋が土佐勤王党員に暗殺される事件が起きた。

 

土佐勤王党・間崎哲馬と交わる

9月、この頃退助は、江戸で土佐勤王党の知謀として活躍していた間崎哲馬(滄浪, 1834-1863)と連絡を取りあっていた。

 

間崎は、土佐藩の田野学館で教鞭をとり、のち高知城下の江の口村に私塾を構えた。教え子には中岡慎太郎、吉村虎太郎などがいた。

 

愈御勇健御座成され恐賀の至に奉存候。然者別封、封のまま御内密にて御前へ御差上げ仰付けられたく偏に奉願候。参上にて願ひ奉る筈に御座候處、憚りながら両三日又脚病、更に歩行相調(あいととの)ひ申さず、然るに右別封の儀は一刻も早く差上げ奉り度き心願に御座候ゆへ、至極恐れ多くは存じ奉り候へども、書中を以て願ひ奉り候間、左様御容赦仰付けられ度く、且此義に限り御同志の御方へも御他言御断り申上げ度く、其外種々貴意を得奉り度き事も御座候へども、紙面且つ人傳てにては申上げ難く、いづれ全快の上は即日参上、萬々申上ぐべくと奉存候。不宣。
九月十七日 間崎哲馬
乾退助様

 

別封の書面で、勤皇に関する重要人物からの機密事項が退助のもとへ送られたと考えられる。
翌年、間崎哲馬は、勤皇派が中心となって土佐藩の藩政改革を行うために、青蓮院宮尊融親王(中川宮朝彦親王)の令旨を奉拝せんとし、文久2年(1862)12月、青蓮院宮から令旨を得たが、これが「逆に不遜である」と山内容堂の逆鱗にふれ、文久3(1863)年6月8日、平井収二郎、弘瀬健太と共に間崎哲馬は切腹して果てることになる。間崎哲馬の門人が、中岡慎太郎、吉村虎太郎たちである。

 

尊皇攘夷派の人物と交わる

10月、この頃退助は「時勢之議論に打傾き、頻(すこぶる)に外藩人(他藩の藩士)と出会致し、攘夷論を唱へ候者を信用し、御上(藩主)へも時々言上致候」(『寺村左膳道成日記(1)』文久2年10月14日條、63頁)とあるように他藩の人々と時勢を論じ、思想的には「尊皇攘夷」を唱えていた。この日記を書いた寺村道成は、門閥派(佐幕派)の中心人物で、退助とは対極の考え方にあった。

 

文久3年(1863) 27歳

1月15日、藩主に従って上洛。

 

退助、罷免される

容堂公が土佐に帰国するにあたって、退助は容堂公に土佐に帰っても改革派(旧吉田派)は用いないで欲しいと願い出た。東洋の暗殺後、土佐は尊王攘夷派と門閥派(佐幕派)の牛耳ることなり、旧吉田派は蚊帳の外に置かれていた。その為、旧吉田派を再び引き立てると、必ず東洋の仇を討とうして勤王派と軋轢が生じ藩は支離滅裂な状態になってしまうからであるからという意見であった。ところが、4月12日(1863年5月29日)、容堂公が土佐に帰ると、改革派(旧吉田派)の人々を登用し始め、退助はかえって罷免されてしまった。

 

中岡慎太郎と武力討幕を誓う

8月18日、京都政変の後、中岡慎太郎が退助邸を訪問した。その時の様子は「維新史料編纂会講演速記録1」127頁に所収の『維新前夜経歴談』などに載せられている。

 


中岡慎太郎(京都・堀與兵衛撮影)


以下大意を抄録すると、中岡慎太郎が退助に「…貴所は役を罷められた様子であるが、私など何分、君敵(藩から敵対視され)のやうに言はれて用ゐられぬ。

 

甚だ困つて居るが、一つ此処で御意見を伺ひたいが、どうでございませう」と問えば「中岡君、今日は私の言が行はれやうかと思ふ。といふのは、私が役を罷めたからといふて、貴所が訪ねて来られたといふことは、始めて私に信用を置かれた様に思ふ。一つ貴所にお尋ねせにやならぬが、貴所は私を京都で殺す積りであつたらう」と退助が云ふ。

 

中岡は慌てて「イエさう云ふことはござりませぬ」と返したが、

退助は「それはどうも怪しからぬ。中岡君に似合わぬ女々しい話であつて、大丈夫の事を談ずる。時として殺さうと思ひ、又、共にしやうと思ふ、何の遠慮が要る訳はない。どうも中岡君に似合はぬ。僕は余程失望した」と語つた。中岡は観念して「これはどうも心外のことで、如何にも其の通、殺す積りでございました」と語つた。すると退助は喜んで「さう言つて呉れてこそ後の話が出来る。さうであつたらう。しかしながらどうも貴所などの遣り方といふものは実に甚だしい(極端である)。大坂では誰々を殺し、又、容堂公の酒の伽(とぎ)に出た者を斬るの、腐つたやうな首を持つて来て脅かすのといふことは、何といふことだ」、「それは実に悪うございました。どうぞ是から共にやつて下さい」、「宜しい。私も国に尽す上に於て、役を罷められたからからどう、役に就いたからどう、と云ふやうなことはない。素より共に遣らう」と意気投合し、互いに将来の討幕を約した。その後、9月5日、中岡慎太郎は脱藩し言動を実行に移した。

 

退助、復職す

10月14日、退助は、藩の仕置役となる。

 

文久4年/元治元年(1864) 28歳

7月、町奉行となる。8月、藩の大監察(大目付)に任ぜられ、後藤象二郎とともに容堂侯を補佐し、藩政運営の中核となるが藩の方針と対立して意見が容れられず。

 

元治2年/慶應元年(1665) 29歳

元治2年1月14日(1865年2月9日)、すべての役職を免ぜられ、大監察を辞す。

元治2年3月27日(1865年4月22日)、先の在職中、上士加増取調の件で「不念の儀」があったとして謹慎を命ぜられる。

 

兵学修行のため江戸へ

元治2年4月1日、謹慎が解かれ、江戸へ兵学修行へ出る。幕臣および他藩の士と交わって世の動静を察す。

 

退助、江戸で瑞山の訃報に接する

元治2年閏5月、武市瑞山が切腹を命ぜられる。退助、江戸で瑞山の悲報に接する。

 

慶應2年(1666) 30歳

慶應2年1月21日(1866年3月7日)、薩長同盟が成立。
慶應2年5月13日(1866年6月25日)、藩庁より、学問および騎兵修行の為、引続き江戸に滞留することの許可が下りる。
慶應2年6月7日(1866年7月18日)、第二次長州征伐が始まる。
慶應2年9月28日(1866年11月5日)、騎兵修行の命が解かれる。

 

慶応3年(1867) 31歳

水戸浪士隠匿事件

2月、江戸築地の土佐藩邸へ勤皇の水戸浪士・中村勇吉、相良総三らを匿う。当時、土佐藩内は、佐幕派のものが多かったにも関わらず、危険を顧みず藩主に報告せず退助の独断で、彼らをかくまい討幕の機の熟するを待った。これが世に言う「水戸浪士隠匿事件」である。

 

薩土討幕の密約

5月、退助は、薩長が同盟を組んだことを知り、後事を江戸の同志・山田喜久馬(山田平左衛門)、小笠原謙吉等に託して決死の覚悟で京都に上り、折りから入洛中の山内容堂侯に「薩長と連合して武力討幕に藩の命運を賭けるべきである」と言上したが聞き入れられなかった。


中岡慎太郎の手紙


退助は一旦、容堂侯を説得するの保留。土佐藩の勤皇の志を持つ者たちと糾合し、「脱藩してでも薩長土が連合して討幕を成就する事」を決し、中岡慎太郎の斡旋により中岡と共に5月21日(1867年6月23日)夕、薩摩藩士・小松帯刀邸を訪れ、乾退助、中岡慎太郎、谷干城、西郷隆盛、小松帯刀、吉井幸輔等と会合。討幕の合戦の火蓋が切られれば、藩論の如何に関わらず土佐藩が討幕挙兵に参戦をする事を約束した。

この会合こそ実に明治維新の土台となったものであって、後世の歴史家が「薩土討幕の密約(薩土武力倒幕密盟)」と呼ぶものである。

(これとは別に、一ヶ月後、6月22日(1867年7月23日)、坂本龍馬が仲介して大政奉還の為の同盟「薩土同盟」が結ばれた)

     


5月22日(1867年6月24日)、退助は「薩土討幕の密約」を結んだことを容堂侯に報告。

 

さらに江戸藩邸に勤皇浪士をかくまっていることを報告し、最早、土佐藩の命運は勤皇に就くしか道はないと言上する。容堂侯は態度を保留したが、いづれにせよ武力にて決する時が来ることを悟り、退助に軍令刷新を命じた。

 

退助は直ちに大坂にいで「アルミニー」銃300挺を購入して土佐に帰藩。小笠原唯八と共に同志を募ると、たちまちにして勤皇同志ら300人が盟に加わり腕を扼して武力討幕の火蓋が切られるのを待った。

 

脱藩を決意

藩内には依然として佐幕派もおり、特に藩の上士と呼ばれる人々に多かったため、退助は、表沙汰となった時に藩に迷惑のかからぬよう「脱藩上書」を作ってその準備を整えた。

 

土佐藩の軍令改革を行う

しかし、土佐藩は逆に正式に退助を藩の軍令改革の主導者として抜擢し、大監察(大目付)として、土佐藩軍備総裁に任じた。よって退助は、大いに兵制を改革し、北條流弓隊を廃止して、新たに銃隊を作って武力討幕の時に備えた。

 

大政奉還についての意見

7月8日、後藤象二郎が山内容堂公へ「大政奉還」の策を進言した時、退助はこの策を聞いて喜ばず、

 

今更、将軍の政権奉還などは因循姑息の策(旧来の方針を改めないまやかし)である。『大政返上』は名は美なるも、畢竟空名(有名虚実)にすぎぬ。今、朝廷が之によって天下に号令せんとするも、実権が伴はなければ、真実、『大政を奉還した』とは云へぬ。徳川家はもと、家康公の時に馬上(合戦)で天下を取った者である。されば馬上(合戦)で之を返して朝廷に奉る上でなければ、とても200有余年の覇政は覆へされぬ。無名の師はもとより、王者の与(く)みせぬところであるが、今日、幕府の罪悪は天地に満ちている。さるに敢然と討幕のことをしないで、空名を存するに務むるは誤見である。(乾退助)

 

と容堂公に意見を述べたが、退助の議は入れられず、7月13日、容堂公は大政奉還の建議を認可した。

退助は、徳川家が実権をにぎったままになってしまうことを最も警戒した。「実際に、天皇陛下に実権が委ねられていなければ、「大政奉還」とは名ばかりで、王政復古の大号令とはならないのである。徳川家が今まで200年余りも権勢を欲しいままにしてきたのは、合戦で勝ち得た権利であるから、この秩序を変えるには合戦をもってしなければならない。名ばかりのことをして喜ぶのは全くの間違いである」と。

しかし結局、慶応3年10月3日(1867年10月29日)、後藤象二郎らの主導により山内容堂公を経て、「大政奉還建白書」が幕閣に提出されることとなる。

 

アメリカ留学を命ぜられる

慶応3年8月20日(1867年9月17日)、アメリカ留学を命ぜられる(実現せず)。アメリカ留学を命ぜられた意図は、「南北戦争(1861-1865)での近代戦を学ばせるため」であるとも、「大政奉還」に邪魔となる退助を藩政から遠ざけてしまうためとも言われる。

 

土佐藩歩兵大隊司令を兼任

慶応3年9月29日(1867年10月26日)、新たに土佐藩歩兵大隊司令を兼任を命ぜらる。

 

歩兵大隊司令を解任される

慶応3年10月8日(1867年11月3日)、武力討幕に関する言動を警戒され、土佐藩歩兵大隊司令を解任される。

 

薩長両藩に「討幕の密勅」が下る

慶応3年10月13日(1867年11月8日)、薩長両藩に「討幕の密勅」が下る。

 

「大政奉還」が勅許せらる

慶応3年10月14日(1867年11月9日)、第15代将軍・徳川慶喜が「大政奉還」を明治天皇に奏上し、翌15日に天皇が奏上が勅許された。

 

退助失脚する

慶応3年10月19日(1867年11月14日)、「大政奉還」が勅許されたことにより、武力討幕を一貫して主張した退助は総ての役職を免ぜられ失脚する。

 

また一方、藩外では佐幕派側にとっても「大政奉還」のその後の措置に不満を持ち憤懣甚しく、不穏な空気が世間を取り巻いていた。

 

中岡慎太郎、坂本龍馬が逝く

慶応3年11月15日(1867年12月10日)、勤皇の同志である中岡慎太郎、坂本龍馬らが大政奉還のその後の措置に不満を持つ佐幕派の刺客に暗殺される。
坂本龍馬が亡くなったのは11月15日で、翌日に藤吉が逝き、中岡慎太郎はその2日後の11月17日だった。慎太郎は、将来のことを、何呉となく遺言し、特にこの時、土佐にいた退助に対しては「御承知の如く、癸丑以来、天下の有志輩に婦女子同様なりと嘲弄されし関東武士の中にも、現に此度の刺客の如き非常の決断をなす者、出で来る程の時勢に候へば、本藩に於てもゆめゆめ御油断あるべからず」と申し送らせた。この時、両雄を暗殺したのは新撰組の浪士であろうと噂された。

 

王政復古の大号令

慶応3年12月9日(1868年1月3日)、王政復古の大号令が発せられる。

1.相撲

板垣退助は、子供の頃から相撲が非常に好きで、現在の「国技館」(相撲常設場)の建議に加わり、名付け選定委員長でもある。土俵の真ん中に最初に立って命名を宣言したのが板垣である。

2.武田流軍学

板垣退助は、『孫子』は、丸暗記できるほど覚えていたと言われる。また武田流軍学や、山鹿流軍学の素養があり、のちにはオランダ式騎兵術を学んでいる。

 

板垣退助の先祖・板垣駿河守信方は、甲斐武田家の親族衆で、武田信玄の傅役を務め、また武勇の誉れ高く、武田二十四将の一人に数えられる名将であったと云われている。特に曾祖父の乾正聡は、武田流軍学の稀覯書を多数蒐集していた。そのため板垣退助も幼少の頃から武田流軍学に慣れ親しみ、家には歴代相伝した武田七将を描いた掛軸があった。それら名将の活躍を聞いて育ったものだから、少壮気鋭といえば聞こえが良いが要は腕白盛りに育った少年であった。

 

『森復吉郎回想録』によれば、退助は、幼少時代、土佐城下京町の小笠原家の塾に通ったが『経書』には興味を示さなかった。しかし兵法学は非常に好きで、朋友の家で軍学書を見つけると直に借りて熱心に読んでいたという。

3.山鹿流軍学

山鹿流は、山鹿素行(1622-1685)が播磨国赤穂藩へお預け身となった時に赤穂藩に伝えられた。

 

赤穂藩改易の後もこの兵学は伝えられ、幕府が開設した講武所の頭取兼兵学師範役に窪田清音(くぼた すがね, 1791-1867)が、就任したことにより、幕府兵学の主軸となった。

窪田清音から若山勿堂(わかやま ぶつどう, 1802-1867)に伝えられた。窪田清音の兵学門人は三千人と云われ、退助の他に、谷干城、勝海舟らの逸材が学んだ。

 

清音の先祖も退助と同じく、甲斐武田家の旧臣であり、甲州流軍学、越後流軍学にも精通していた。清音は、山鹿流の伝統的な武士道徳に重点を置いた講義に加え、幕末の情勢に対応した練兵の必要性を唱え、『練兵新書』、『練兵布策』、『教戦略記』などを著している。

 

赤穂山鹿流伝系

赤穂山鹿流の伝系は、
∴山鹿素行→大石良重→菅谷政利→太田利貞→岡野禎淑→清水時庸→黒野義方→窪田清音→若山勿堂→板垣退助
となる。

参考文献:『山鹿素行兵法学の史的研究』

4.呑敵流小具足術

板垣退助は、呑敵流小具足術(竹内流小具足組打ち)を土佐藩士・本山団蔵重隆から学んだ。本山団蔵の先祖は、山内家土佐入国以前より土佐北部を領し「土佐七雄の一」に数えられる本山家で、のちに長宗我部家に与した。退助とは遠縁の親戚にあたる。

 

明治15年(1882)4月6日午後6時半頃、板垣は帰途に就こうと岐阜中教院の玄関を出た時、短刀を振りかざした暴漢・相原尚褧に急襲されたが、この「呑敵流小具足術」で身をかわした。これによって本山団蔵から免許皆伝を贈られた。

5.英信流居合術

無双直伝英信流と板垣退助の関係については、広谷喜十郎の書いたものに詳しい。以下再録すると、「英信流については、『高知県歴史事典』の「長谷川流居合術」の条に、「近世流伝した抜刀流の一派、出羽国楯岡の人・林崎甚助を流祖とするもので、その流れを汲む長谷川主税助(英信)が新しい工夫を加え長谷川流と呼ばれたが、現在では「無双直伝英信流」と改称、全国的に知られている」と述べられている。

 

やがて、この流派が土佐藩に導入されて「御留流(おとめりゅう)」として保護され、藩内に広まり、継承されていく。幕末になると、十五代藩主・山内容堂がこの剣術に熱中した話がいくつか、語り継がれている。

 

容堂の側近にいた板垣退助は、「七日七夜の間休みなしの稽古を続けた。数人の家来がこれに参加したものだが、あまりの烈(はげ)しさにみな倒れて、最後まで公のお相手をしたものは、わずか二人か、三人にすぎなかった」(『史談速記録』)と、容堂の稽古ぶりを証言している。板垣もまた、この剣術の修業に励んだことは言うまでもない。

 

雑誌『土佐史談』十五号所収・「英信流居合術と板垣伯」(岡林九敏稿)によると、明治維新以後の風潮の中で、武道が衰微していく。明治二十六年に板垣が帰郷した折、英信流が衰微しているのを惜しみ、その育成を計ったという。岡林氏は「英信居合術の今日あるは、洵(まこと)に伯(板垣)の賜(たまもの)であると言っても決して過言でない」と、英信流の復活に板垣が大きな役割を果たしたことを伝えている。

 

同じころ、京都で活躍していた中山博道という剣士が来高した。大江正路(おおえまさじ)に、英信流の根源について質問する。大江は明治・大正年代にかけて、英信流の奥義を窮めた名剣士として知られ、十七代目を継いだ人物であるが、「板垣が一番よく知っているから、尋ねたらよい」と答えたほどである。中山は、直接板垣に面会し、教えを受ける。また、居合術の名人である細川義昌を紹介されて、その指導をも受けている。

 

これらの人物の努力によって、英信流は土佐の剣士たちの間でもっぱら隆盛を極めた。他の流派をおさえて発展し、全国的にも普及していった」とある。

6.孫子を暗記

安政3年(1856)、四ケ村禁足の処分を受けた退助のもとに、同じように謹慎処分を受けた吉田東洋が来訪し学問を説く。退助は東洋の塾に通うことはなかったが、『孫子』を読んで独学し、暗記できるほどであった。

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