板垣退助ってどんな人?

板垣退助は德川慶喜と同年の生まれ。德川慶喜は幕末の人、板垣退助は明治・大正の人と思われがちですが、二人は全く同年齢です。そう考えれば時代背景が分かりやすいですね。

絶対にブレない男・板垣退助の特徴

板垣退助という男は「勤皇」という軸において生涯一度もブレたことがない。これが板垣精神の根幹です。…にも拘わらず板垣という人物を語る時「自由」という軸にシフトして語り、「板垣はある時は自由について語っているが、その時、同時に建軍や徴兵制を推進している。板垣は矛盾に満ちた男だ」と評する人がいます。(戦後史観 丸出しの大いなる間違いですね)

板垣にとって「自由」とは手段であって目的ではない。ましてその「自由」とは何でもやって良い自由ではなく「愛国心をもって天下国家を語る自由」のことである。(※すなわち国土防衛が担保された上での自由であり、「自由」を得るためには「義務」を負うのは当然である。「義務」の中には「兵役の義務」も当然に含まれると板垣自身が記しています) また「愛国者にのみ選挙権を付与すべき」だと主張し、「普通選挙には反対の立場」を貫きました。

③板垣退助の自由民権・国家観はフランス流ではなく、日本独自流。教科書などでは誤って「フランス流」と分類された(※理由後述)ことがあり、それを鵜吞みにして評する人がいますが、板垣自身は外国の模倣ではなく日本独自流であり、ましてやフランス流では無いと何度も明言しています。板垣自身は弾丸注雨(だんがんちゅうう)の戊辰戦争の中での体験によって、常在戦場・国民皆兵の思想をはぐくみました。国民皆兵(徴兵制度)導入を阻害する身分制度を解体するため「四民平均(四民平等)」を唱え、全国民が兵役に就くこと、兵役に就く(命を掛けて国を守る)代わりに、その国の将来の舵取りにも意見を言うことの自由を唱えました。直接的には明治元年(1868)3月14日、明治天皇が全国民に対して出された声明『億兆安撫国威宣揚御宸翰』(明治の玉音とも呼ばれる)、ならびにそれを五箇条に直した『戊辰の皇誓(五箇条御誓文)』の意を體して始められたもので、その第1條「広く会議を興し万機公論に決すべし(天下国家のことは、広くから意見を募り、会議場を設けて、総て正々堂々と意見を戦わして決定しなさい)」は特に重視されました。これは、板垣ら征韓派が4回にもわたる閣議決定で「朝鮮征伐」が決定していたにも関わらず、岩倉具視らが暗躍して虚偽の上奏を天皇に対して行い反故にしてしまったことなどから、特に板垣らが重視し、自由民権運動の起きる直接的なきっかけとなりました。

④板垣退助の名は良く知られていますが、これらの事績を語れる人が今や尠(すくな)くなりました。笑い話ではなく昨今では「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は、白い髭の老人が刺されて死んだ時に発した最期の言葉だと思う人まで出る始末です。なぜ、このような事態となったのでしょうか? 板垣自身は「後世の日本人への私の遺書である」として遺著となる『立國の大本(りっこくのたいほん)』の中にこれらのことを克明に書き残しましたが、その著書に収録された板垣の「日本は侵略国家にあらず」の論文や「欧米は権謀術数(※卑怯は手口)を用いて、日本は侵略国家だと世界に吹聴している。これらの心術(プロパガンダ)の巧みさにはあきれるが、日本人自身はこれらの言説に惑わされないようにせねばならない」などと記した箇所があることから、GHQによって焚書指定され、所謂東京裁判史観に基づく内容に、教科書が変更され、当時の日本放送協会がそれらに遵った、放送コードのまま現在に至り、偏向した内容の評論が蔓延し由々しき事態となっています。

板垣退助と大楠公

●『板垣退助の大楠公精神』に関しては、詳細は湊川神社社報第16号『あゝ楠公さん』に所収の『板垣退助の大楠公精神』をご覧ください。
●退助の父の名は「正成」。武田信玄の傅役(もりやく)を務めた板垣駿河守信方を祖とする家柄。
●退助は幼少の頃より兵学に興味を持ち、軍記物語、太平記を通じて大楠公の雄姿に魅了された。
●文久3年3月28日(1863年5月15日)、京都から土佐へ山内容堂に従って帰国する途中、乾(板垣)退助は大楠公墓所(湊川神社創建前)にお参りしている。この時、容堂は楠公を讃える漢詩「淤河一帯水無流、慷慨空過五百秋、欲問延元当日跡、楠公心事不平不」を詠んで小笠原唯八(牧野群馬)に下賜した。(宇田友猪著『板垣退助君傳記(第1巻)』107頁による。伝記では日付の記載が曖昧だが、『寺村左膳日記』と照合すると、3月28日の箇所に「(容堂公)御忍ニ而楠公ノ墓へ御参り被遊」とありこれに退助も同行している。「お忍び」とあるのは、本来参勤交代で決められたルート以外を通るのは不可のためで、この日、一行は朝五時半頃に出発し、楠公墓をお参りし日没頃に明石に到着し一泊している)
慶應2年(1866)12月(慶應3年(1867)3月頃とも)、勤皇派水戸浪士(筑波挙兵した天狗党の残党)中村勇吉、里見某、相良総三らを土佐藩邸(築地)に匿い、彼らより直接水戸学を学ぶ。(※この浪士らが慶應3年(1867)10月、薩摩藩邸に移り庄内藩を挑発し、戊辰戦争の端緒となる)
●板垣は、日本は世界に勝る精神性を備えた文化であるとし、日本の國體と武士道精神を説き「惡を爲せる者は、其惡の報(むくい)を受け、善を爲せる者は、其善の酬(むくい)を受けざる可(べか)らず、則(すなわ)ち支那に於て秦檜(しんかい)の墓碣が百代の後ち猶(な)ほ土民によりて溺せらるゝに反し、岳飛(がくひ)の廟は神位として祭られ、我邦(わがくに)に在ても足利尊氏は其木像を梟せられ、極端なる侮辱を受くるに反し、楠木正成の碑(いしぶみ)はその忠魂義膽を景仰する所の幾多凴弔(ひょうちょう)の客の涙痕を留むる」と述べ、「生を捨てゝ義を取り、身を殺して仁を爲せる所の志士、仁人は永遠無窮に社會、民心の渇仰てふ實在の天堂に生きる」とし「社會に功勞ある(中略)實在の英雄偉人を追遠紀念して其恩を謝し、之に(己の生き方を)肖らんことを求め」ることや「民族の優者、人類の冠冕(かんべん)(※最も優れている者)として之を崇拝」することは重要で意義があると奨励している。
●板垣退助の腹心の部下、山地元治(陸軍中将・子爵)と、山田喜久馬(土佐藩第一別撰隊長、土佐藩伏見参戦者)は共に、大楠公末裔との伝承のある家系で、退助自身はこの山田家と親族であり、先祖の中には楠木正成も含まれる。

板垣退助の功績

1.薩土討幕の密約を結び戊辰戦争を起こさせた。また近代日本陸軍を創った。

薩土討幕の密約を結び維新回天を惹起した。→土佐藩の軍制刷新・近代式練兵を行う。→討幕軍となり戊辰戦争で勝利。→御親兵となり近衛師団となる。→近代日本陸軍となる。→明治38年に【日本陸軍創設功労者】として陸軍省より正式に表彰され、薨去後大正天皇より誄詞(るいし)を賜う。

2.東アジア初となる国会と自民党の前身を創った。

『億兆安撫国威宣揚御宸翰(おくちょうあんぶこくいせんようのごしんかん)』ならびに『五箇条御誓文』の意を拝し、国会開設活動(自由民権運動)を行い【国会を開設】この時に創った日本初の政治政党「愛国公党」ならびに「自由党」が現在の「自由民主党」の前身となる。

3.北海道の領土売却を阻止し日本の領土を保全した。

●板垣は母成峠で進軍を阻む賊を猛戦して討破り、十六橋を突破し、馳突して会津城下に攻め下った…」敵は十六橋を壊して官軍の進路を阻もうとしたが、板垣らの進軍は予想以上に速く、8月22日にはこの橋に辿り着き、日橋川を渡る。板垣は「会津城下を己の奥都城と思え、立ち止まる者は味方とて斬り捨てる。大小便も走りながらせよ」と命令を発して急ぐ。板垣が会津攻略を急いだ訳は?
●江戸で大村益次郎が発した指令では「枝を刈って幹を枯らせ」というもの。しかし、『奈破翁戦記』を読んでいた板垣はこの作戦に懸念を示した。「仏国(フランス)は強国なれども、しばしば雪山に敗けを知ると聞く。吾等、薩土の兵もまた南国の育ちなれば、今は優勢たりといえど、奥羽の冬を越すに如何…」と私見を述べ「幹を根本から斬らば自(おのづ)と枝も枯れる」と返書し、本命の会津城攻略に的を絞った。薩摩、土佐の兵を御する板垣は、長期戦となることを徹底して避けた。
●この時、軍資金に欠乏した会津藩主・松平容保と庄内藩主・酒井忠篤は、ヘンリー・シュネル(日本名:平松武兵衞)という代理人を通してプロイセンに対し、蝦夷地を「99年間の租借」すなわち、北海道の広大な土地を事実上、売却する提案をしていた(註1)。戊辰戦争ではフランスが幕府に助力し、イギリスが薩摩に協力的であったものの欧州諸国はつとめて「局外中立」の立場を採りこの内戦を静観した。
●実質は欧州が全面的に加勢することで日本列島が欧州の代理戦争の舞台となることを避け、また勝った方と与(くみ)する打算、即ち「勝ち馬に乗る」思惑(おもわく)が欧州にあった。プロイセンの宰相・ビスマルクは日本の内戦に関し「局外中立」の立場から提案を一度は断ったが、三週間後に考えを改め「承諾書」を日本へ送った。プロイセンからの返書が届いたのは会津が落城して一週間後のことで、そのため、この契約は有耶無耶となった(註2)。
●同時期に榎本武揚がポルトガルと結んだ「ガルトネル開墾条約」では五稜郭落城の一週間前に発効されてしまった為に、蝦夷地の一部が治外法権の領土となってしまい、明治政府がその後苦心して違約金を払い買い戻している(註3)。幕末には鎖国をやめるべきかの「開港問題」で「勅許の有無」が大問題となったが、この広大な領土の割譲は、もとより勅許の有無など完全に無視した両藩の独断。いかに切迫した理由があったにせよ、勤皇の立場からは許し難い大罪であった。しかしながら、板垣はその罪を糾弾せず寧(むし)ろ藩主らの助命を嘆願した。それは来(きた)るべき日本を列強の侵略から守るにあたって日本国民の思想的分断を招いてはならないと判断したからである。北海道の広大な土地が海外の領土とならずに今あるのは、土佐藩兵が急ぎに急いで会津を落城させた尽力によるものであることは言を俟(ま)たない。
●戊辰の話になるとよく「官軍が遺体埋葬を禁止した」という怨み節を述べる人がいる。しかし、土佐藩の名誉のために申し上げると、これは、フィクションであって史実ではない。平成28年(2016)12月、会津若松市で発見された『戦死屍取仕末(せんしかばねとりしまつ)金銭(きんせん)入用帳(いりようちょう)』によれば、明治新政府は会津藩降伏の十日後にあたる旧暦十月二日に埋葬を命令しており、翌日の10月3日から同17日にかけ、会津藩士4人が指揮し、会津城(鶴ケ城)郭内外などにあった567体の遺体を発見場所周辺の寺や墓など市内64カ所に集めて埋葬したこと、埋葬経費は74両(現在の約450万円)、のべ384人が動員され、一人当たり1日2朱(同7500円)が支給されたこと、発見当時の服装や遺体の状態などが克明に記されており、「戊辰戦争で戦死した会津藩士の遺体が半年間、野ざらしにされた」という禁止令は史実ではない。
(註1)
【プロイセン蝦夷地租借未遂事件】戊辰戦争の当時、江戸から指示を出していた大村益次郎は「枝を刈って幹を枯らせ」これは「会津に与みする周辺の藩を先に攻略し会津を孤立させてから攻略せよ」との意味であった。会津攻めの総大将であった板垣退助は『ナポレオン戦記』を読んでいたので「フランスは強国なれど、しばしば雪山に負けを知ると聞く。我等南国(土佐・薩摩)の兵たれば、雪国の冬の来たれる迄にこれを討たむ」と早期決戦を立案。薩藩の伊地知正治と合議して大村に「幹を断てば枝も自と枯れる」と伝令を返して激流の阿武隈川を渡り、母成峠を越え、十六橋を渡り、急ぎに急ぎ馳突して会津城下に入った。慶応4年(1868)7月、会津、庄内の両藩は戦費調達の為、北海道をプロイセン(現・ドイツ)に売却した。契約文書では『99年間貸借条約』となっているが、当時の契約文書の語法として事実上の売却を意味していたとされる。プロイセン宰相ビスマルクは、初めは局外中立を保って一度は拒否したが、3週間後に考えを改め「承諾書」を送った。横浜にいた駐日プロイセン公使マックス・フォン・ブラントが書いた外交書簡によれば、貸与期間は具体的に「ヘンリー・シュネル(当時東北にいたプロイセン人の仲介役で日本名・平松武兵衛)が、借り入れに対して蝦夷地の領地を99年間、担保として与えるとする会津藩主松平容保・庄内藩主酒井忠篤の全権委任状を持ってきた。百平方ドイツマイル(5,625平方キロメートル)の土地を得るのに30万メキシコ・ドルで充分であろう」と記されている。(『駐日公使発本国向け外交書簡』ベルリン連邦文書館蔵)プロイセンからの返書が日本に届いたのは、会津が落城して一週間後のことであったため、有耶無耶となったが、板垣が早期決戦を挑まず会津戦争が長期戦となっていたならば、北海道の広範囲はドイツ領となっていたであろう。
(註2)
【会津藩集団海外逃亡未遂事件】「若松コロニー(入植地)」の所在地アメリカ合衆国カリフォルニア州エルドラド郡ゴールド・ヒル。1868年、戊辰戦争に敗戦の色濃厚となった会津藩士らは、商人ジョン・ヘンリー・シュネルを介し米国の土地を購入し海外逃亡を計画したが、官軍に阻止され出航できず。翌1869年5月20日、移民船でサンフランシスコに到着した会津藩士とその家族、シュネルの妻らの一行は、ゴールドラッシュで栄えるゴールド・ヒルへ向かい農地を買い取り、会津藩士が入植した。しかし、1871年4月、若松コロニーが行き詰まったスネルは見切りをつけ「コロニーの資金調達の為」と言い残し、日本人入植者達を残して逃亡。
(註3)
【ガルトネル開墾条約事件】榎本武揚が率いる蝦夷共和国が10月末に箱館を占領し、ポルトガルに対し明治2年2月19日(1869年3月31日)に「蝦夷地七重村開墾条約書」を無断で締結した。その内容は、七重村およびその近傍の約300万坪を99年間租借するというものであった。条約発効の1週間後に、榎本軍の降伏により蝦夷共和国は倒れたが、条約が1週間履行されてしまったため、この土地を足掛かりに蝦夷地が植民地化されるおそれもあることから、明治政府の外務省は11月、ガルトネル開墾条約の契約を破棄するよう伝えたが難航した。明治3年(1870)11月、明治政府が6万2500両の違約金を支払うことでようやく契約を解消した。

4.国技館の創設、居合・競馬の奨励

相撲(国技館の創設)、居合(無双直傳英信流)、競馬(軍馬育成のため)を奨励。

5.文化面での功績

傷痍軍人、女性受刑者の獄中出産した児童の育成、視覚障害者の自立支援など文化面での貢献。→明治憲法発布50年の記念に憲政功労者として国会に銅像が建立された。

6.その他の功績

その他、後藤象二郎の銅像建立(戦時供出)、坂本龍馬を顕彰する石碑建立(桂浜に現存、坂本龍馬の銅像の存在しなかった時代)、明治天皇崩御の時、神社ならびに銅像の建立を発議→明治神宮、銅像は岐阜東照宮などに存在。戊辰戦争の敵側・会津藩の名誉回復に尽力。台湾議会の創設支援など。

板垣退助を標的とした暗殺未遂事件は何回あったか?

記録に残るものとしては計6回の暗殺未遂事件(※戊辰戦争中の狙撃事件を除く)が知られています。著名なものは3回目の岐阜遭難事件でこの時は、板垣がまだ髭を生やす前でした。

文久3年乾退助暗殺未遂事件 – 退助27歳

●文久3年(1863)、京都で土佐勤王党が乾退助(板垣)の暗殺を企てた事件。前年に起きた広田章次暗殺事件と、坂本瀬平刃傷事件に憂慮し、山内容堂が土佐勤王党を遠ざけ乾退助に命じて「上士勤王隊」を組織させたことに対する危機感が原因。同年1月、池内大学が暗殺されたのち乾退助が標的とされた。しかし、4月に乾が失脚し、八月十八日の政変の後、中岡慎太郎が乾退助に会見して交誼を結ぶ。薩土討幕の密約をへて両者は合併し士格別撰隊が組織され、のち土佐藩迅衝隊として戊辰戦争をともに戦う同志となった。

明治元年板垣退助暗殺未遂事件 – 退助32歳

●明治元年閏4月1日(1868年5月22日)、戊辰戦争時日光東照宮での談判に際し、光栄坊に潜伏した旧幕側残置諜者10名が東山道総督府参謀(土佐藩迅衝隊総督)である板垣退助の暗殺を企てた事件。(犯人:6名死亡、3名逃亡、1名捕縛)

明治元年板垣退助暗殺未遂事件 – 退助46歳

●板垣退助岐阜遭難事件 – 明治15年(1882)4月6日に岐阜の神道中教院門前で、相原尚褧が板垣退助の暗殺を謀った事件。「板垣死すとも自由は死せず」の言葉で知られる。
※この岐阜遭難事件の後、欧米視察を行いパリでルイ・ヴィトンの鞄を購入
この頃、髭を伸ばしはじめた

明治17年板垣退助暗殺未遂事件 – 退助48歳

●明治17年(1884)、東京府芝区金杉川口町24番地(現・東京都港区芝1丁目2番地)の東京板垣邸内で刺客が板垣退助の暗殺を謀った事件。

明治24年板垣退助暗殺未遂事件 – 退助54歳

●明治24年(1891)10月20日、東京府神田区神田錦町(現・東京都千代田区神田錦町3丁目3番地 神田税務署)の錦輝館で行われた自由党演説会において板垣退助が『政治の要領』と題する演説を行っている最中、ナイフを所持していた富山県平民・金山米次郎(吏党系の青年義勇団所属)が檀上に飛び上がり板垣退助の暗殺を謀った事件。犯人はその場で逮捕され小川署に連行されている。

明治25年板垣退助暗殺未遂事件 – 退助56歳

●明治25年(1892)2月12日、兵庫県神戸市三ノ宮の路上(現・「神戸元町」)踏切前において鷲田卯蔵が拳銃を用いて板垣退助の暗殺を謀った事件。

板垣退助の住所の変遷

江戸時代

①高知城下中嶋町で生れる。(天保8年4月17日~)
  ※現在地・高知県高知市本町2-3-10(高野寺)

②土佐国土佐郡神田村に謫居(安政3年8月8日~)

③恩赦により高知城下中嶋町の自宅に復帰。

④江戸留学

⑤高知城下中嶋町の自宅に帰郷。

⑥江戸に兵学留学
土佐藩中屋敷(築地藩邸)※天狗党を匿った頃
  ※現在地・京橋図書館

⑦高知城下中嶋町の自宅に帰郷。
  ※帰郷の途中、京都で薩土討幕の密約を結ぶ
  ※土佐で藩兵を率いて軍事演習

⑧戊辰戦争従軍

 東京家族引外輪住居勝手次第被仰付(明治2年10月6日~)

明治4年廃藩置県以降

①高知市中嶋町44番屋敷(明治4年~)※板垣自身は東京府木挽町(銀座邸・築地邸とも称す)に寄留。
  ※現在地・高知県高知市本町2-3-10(高野寺)

②東京府(第1大区10小区)木挽町1丁目24番地(明治4年頃~征韓論争の頃)
  これは東京寓居で本邸は高知のまま)
  ※現在地・東京都中央区銀座1-24(銀座タワー、万安楼)
  明治5年9月16日、三女猿が誕生。

③高知市中島町69番屋敷(※44番屋敷と同じ場所だが区画整理による屋敷番。下野して立志社を作った頃)
  明治7年9月21日、側室・清女が東京木挽町邸で死去。(東京・高源院に埋葬)

④明治8年、参議に復帰し自身は東京へ。

  明治9年6月13日、井上覚之進三男栄三郎が板垣退助の養子となった後、分家し板垣栄三郎と名乗る。
  明治9年6月15日、長女兵が板垣栄三郎と婚姻。

⑤高知県土佐郡(第九大区一小区)潮江村新田1番地(明治10年10月31日、参議を辞めて高知に戻った頃)
  ※以後しばらく板垣自身は高知本邸に住す。

  明治12年12月2日、長女兵が板垣栄三郎と離別復籍
  明治13年8月1日、長女兵が谷重中と婚姻
  明治14年3月5日、長女兵が谷重中と離別復籍
  明治15年4月6日、岐阜遭難事件(板垣暗殺未遂事件)起きる。
  明治15年     板垣洋行。パリでルイ・ヴィトンの鞄購入。髭を伸ばし始める。
  明治16年1月29日、次女軍が宮地茂春と婚姻
  明治16年7月31日、長女兵が片岡光房(熊之助)と婚姻

⑥東京府芝区芝金杉町(明治17年4月~  )※絹と同居開始

  明治17年5月頃、「明治17年板垣暗殺未遂事件」起きる。
  明治18年1月12日、高知県土佐郡(潮江村)第九大区一小区潮江村新田1番地へ戻る。

  ※明治18年1月12日より絹を同伴して高知へ帰郷。当時の戸籍には「妾」欄があるため、
  同日側室・絹を「妾」として入籍
  ※長崎県西彼杵郡下長崎村小島郷(長崎恵美須町13番屋敷)荒木伊三次の長女・絹。
   板垣は二階寝室、一階は鉾太郎寝室で就寝。
   明治18年6月28日、寄留地(高知・唐人町の別宅)にて正室・鈴子病死(板垣山に埋葬)
   明治18年10月、絹が孫三郎を生む
   明治19年7月2日、孫三郎が病死(板垣山に埋葬)
   明治20年1月11日、側室・政野と離別

⑦東京府麻布区麻布今井町35番地(明治20年5月頃)
  ※現在地・東京都港区六本木4-2-20(パークサイド六本木)附近
  板垣授爵の沙汰を拝辞し、授爵論争が起きる。

⑧明治20年8月20日、東京府芝区高輪南町18番地華族後藤象二郎方へ同居寄留
  (別籍(※法務局の副本)では明治20年12月14日より寄留と記され役所の正本と差異がある)
  ※高輪3丁目(品川プリンスホテル、グランドプリンスホテル高輪、京急EXイン品川駅前)

⑨東京市麻布区麻布材木町63番地(明治25年3月20日~明治29年10月10日)
  ※東京都港区六本木6-4-1附近(長府藩毛利家上屋敷跡、ハリウッド美容専門学校、六本木ヒルズノースタワーの向い附近)

⑩東京市芝区愛宕町2丁目1番地(明治29年10月10日~明治44年10月13日)
  ※現在地・東京都港区西新橋3-1-10附近

⑪東京市芝区芝公園第7号地8番(明治44年10月13日~薨去)
  ※現在地・東京都港区芝大門1-10-11附近(芝大門センタービル)

※現在地特定協力・伊藤璃佳
参考文献『地図と愉しむ東京歴史散歩』竹内正浩著、中公新書、2015

1.板垣家のはじまり

先祖

板垣家の祖は、人皇第56代 清和天皇の第六皇子 貞純親王の御子 経基王が源朝臣の姓を賜り臣籍降下したことに始まる。源満仲(873?-916)は、摂津国川辺郡多田庄(現 兵庫県川西市 多田神社附近)を所領として武士団を形成。多田満仲と名乗り、やがて武家棟梁として活躍することとなる清和源氏の祖となった。

 

源義光の曾孫が武田太郎信義(1128-1186)と名乗った信義には五人の子がいたと言われ、長男・逸見太郎有義、次男・一條次郎忠頼、三男・板垣三郎兼信、四男・四郎(早世)、五男・武田五郎信光とそれぞれ分与された所領を名字にした。この武田信光の15代目が、武田信玄晴信(1521-1573)である。

 

板垣家は、三男・板垣三郎兼信に発する家で、甲斐国山梨郡板垣庄を所領としたため、「板垣」を名字とした。始祖・板垣兼信は、治承4年の頼朝挙兵からつき従うが、のちにはその強勢を恐れた源頼朝に疎んぜられ、建久元年(1190)6月晦日、ついに「違勅(命令違反)」という罪科を得て、歿収領知遠江国雙侶荘の地頭職を歿収せられ、隠岐に配流された。兼信の嫡男・板垣四郎頼時も、これに連座して常陸に配流され彼の地で歿した。幸い、兼信の次男・板垣六郎頼重が、甲斐国に残ることが出来たため、代々武田家の親族衆として遇されて武田家に仕えた。


板垣信方(松本楓湖画(1871)模写・個人蔵)


板垣兼信から十五代目にあたる板垣駿河守信方が、武田信虎(1494-1574)の家臣で、武田信玄晴信(1521-1573)の傅役(もりやく)となる。信方は武田四天王の一人で、また武田二十四将の一に数えられる名将である。板垣家の家紋は「花菱(裏花菱)」、信方の馬標は「三日月」であった。

信方は、武田晴信が父信虎を追放して家督を継ぐと家臣団の筆頭格となる。晴信が諏訪氏を滅ぼすと諏訪郡代(上原城城代)となり、諏訪衆を率いて信濃経略戦で戦功をあげた。村上義清と戦った上田原の合戦の時、信方は先陣を務め、諸戦で村上勢を破るが、逆襲を受けて、天文17年2月14日(1548年3月23日)討死した。首実検の最中で、煙草を吸って休憩している際に不意をつかれたという逸話がある。

 

この戦歿地(長野県上田市下之条 若宮八幡宮附近)には五輪塔が立ち、のち鳥居が建てられ板垣神社と呼ばれるようになった。

 

信方が討死した後、嫡男・板垣信憲(弥次郎)が亡父の遺領を相続したが、信憲は有能な家臣を持ちながら出陣命令に従わなかったり、被官をぞんざいに扱った等、幾多の不業績があり、信玄公の勘気を被ることとなって長禅寺に謹慎中のところを同輩であった本郷八郎左衛門に私怨によって殺害されてしまったといわれる。

 

板垣家は、もと甲州武田家の親族衆。武田信玄の傅役・板垣駿河守信方の嫡男・板垣弥次郎信憲が懈怠あって長禅寺に謹慎したが、許されず改易された。また同輩衆・本郷八郎左衛門の私怨によって誅せられたとも言う。この時、信憲の嫡子・正信は、家臣・都築久太夫、北原羽左衛門らに養せられて、のち山内一豊の臣となったと伝えられている。退助は板垣信方より数えて十二世孫にあたる。北原羽左衛門は、土佐入領にも付き従い北原羽左衛門家の歴代墓は、高知に現存する。

1.幼少期

天保8年(1837) 1歳

誕生

天保8年(1837) 4月17日(異説16日)、土佐藩士・馬廻役300石・乾栄六正成の嫡男として高知城下中島町に生れる。母は林氏。諱は初め「正躬(まさみ)」と称し、のち「正形(まさかた)」と改めた。号は「無形(むけい)」。幼名猪之助。初諱正躬、のち正形。通称退助。号無形。先祖の本姓は板垣氏で、退助の代は乾氏を称していたが、のち戊辰戦争の際、本姓に復した。

 

命名の由来

退助の幼名・猪之助(いのすけ)は、乾和三(山内備後)の前名「猪助(いのすけ)」からあやかって命名されたもので、乾和三の「猪助」の「猪」の字は、山内猪右衛門と名乗っていた当時の山内一豊公から、和三が「猪」の字を賜ったことによるもの。「猪」は、「猪突猛進」、「猪武者」などと言われ、武士に好まれた動物であった。
しかし退助は「猪之助」の名の通り、腕っぷし強そうな相手でも怖いもの知らずで、猪突猛進に喧嘩をしたりと腕白に育ち過ぎたせいで、謹慎処分を受けることしばしば。ついに藩主公から「猪突猛進に突き進む「猪之助」ではなく、一歩、退いたぐらいを心掛けよ」と「退助(たいすけ)」と言う名を賜ったとか。
後藤象二郎(幼名は「保弥太(やすやた)」)とは竹馬の友で、お互い「いのす」、「やす」と呼びあっていた。

 

天保14年(1843) 7歳

9月9日、惣領御目見。

 

貧婦救済

白小僧の餓鬼大将であった、板垣退助(乾猪之助)の少年時代の話。


龍乗院山門(高知市比島・本会撮影)


ある冬の寒い日、乳飲み子を抱えた貧婦が乾家の門に物乞いに来ました。
家僕が追い払おうとしましたが、貧婦は帰ろうとしません。
猪之助(退助)は、家の中から黙って姉の着物を持ち出し、貧婦に与えました。貧婦は感謝して帰って行きました。姉が着物の無いことに気付いてそのことが露見しましたが、猪之助の母は、経緯を聞いてこれを咎めず、

 

「慈愛の心を以て、民庶を救わんは政道に照覧して尤もなり。他日、必ずやこの子は家名を上げさしめんであろう」
(慈悲の精神を以て郷民に向き合うのは、政治の基本である。子供ながらにその事が分かっているならば、退助は将来、必ず大物になるだろう)

 

と、かえってこれを褒めたと。この乾家の門は、移設され高知市比島の龍乗院の山門として現存しています。

 

嘉永4年(1851) 15歳

腕白盛りで「盛組(さかんぐみ)」の首領として名を売ったが、同輩藩士と喧嘩となり罪を得て「屹度遠慮(きっとえんりょ/「謹真」のこと)」の処分を受ける。

2.青年期

安政元年(1854) 18歳

12月28日、江戸勤番を仰せ付けられる。

 

安政3年(1856) 20歳

謫居生活

8月8日、喧嘩によって「惣領職褫奪(ちだつ、乾家の当主を相続する権利を取上げられる)、城下四ケ村禁足」の重罰を受け、土佐郡神田村に4年間謫居した。吉田東洋の慰撫を受け、態度を改めて文武の修行に励む。

 

吉田東洋に見いだされる

腕白小僧で、勉強嫌いだった退助を見出だしたのが吉田東洋という人物だった。退助が、神田村に謫居していた同じ時に、神田村に謫居していた人物が、吉田東洋と岩崎弥太郎である。特に、岩崎弥太郎の謫居地は、板垣の謫居していた場所と極めて近い。

 


吉田東洋(江戸時代撮影)


吉田東洋は旧長曾我部家の家臣の家柄。学に秀で藩政の重席に抜擢されたが、ある時、酒の席で理不尽な目に遭い藩の上士との喧嘩となった。結果、一方的に東洋が譴責を受け、藩政を干されて謫居し、神田村に家塾を開いていた。そこに通っていたのが、退助の竹馬の友、後藤象二郎である。象二郎から話を聞いたのか、東洋は謫居中の退助に勉学に励むよう諭した。しかし退助は「武士たるもの主君の為に馬上(戦争)で死ぬ覚悟があれば充分だ。勉学など必要ない」と広言した。

 

東洋は退助をたしなめて、「武士たるもの馬上(戦争)で死ぬ覚悟は元より言うに及ばず、当たり前である。その覚悟があった上で、天下国家を支えるの勉学の道である」と語る。

それ以来、退助は勉学に励むようになったという。ただし、吉田東洋の塾には通わず、門下にもならず、独学にて修行研鑽を行ったとされる。

 

長曾我部家旧臣・吉田東洋

吉田東洋の先祖は、旧長曾我部家の家臣で、山内家の土佐入国以降、土佐藩主に仕えた家柄。失脚ののち少林塾(鶴田塾)を構えた。塾名の「少林」は、長曾我部氏の菩提寺から採られたもの。吉田東洋は公武合体を旨としていたが、退助は勤皇・武力討幕を唱え、政治理念には大きく隔たりがあった。にも関わらず、東洋は退助を抜擢する度量の大きさがあった。

 

万延元年(1860) 24歳 

9月30日、土佐藩の免奉行加役(年貢の調査役)に登用される。

3.討幕活動期

文久元年(1861) 25歳

10月25日、御納戸方江戸へ差立て(転勤)られ、軍備庶務掌理(土佐藩江戸藩邸の会計・軍事係)となる。この年、江戸留守並びに御内用役となる。

 

文久2年(1862) 26歳

山内容堂侯の側用人となる


山内容堂(江戸時代撮影)


品川の鮫洲に幽居していた前藩主・山内容堂侯の側用人となり、土佐藩江戸藩邸の総裁をつとめる。

 

吉田東洋が暗殺される

4月8日(1862年5月6日)、退助が江戸滞在中、国元の土佐では吉田東洋が土佐勤王党員に暗殺される事件が起きた。

 

土佐勤王党・間崎哲馬と交わる

9月、この頃退助は、江戸で土佐勤王党の知謀として活躍していた間崎哲馬(滄浪, 1834-1863)と連絡を取りあっていた。

 

間崎は、土佐藩の田野学館で教鞭をとり、のち高知城下の江の口村に私塾を構えた。教え子には中岡慎太郎、吉村虎太郎などがいた。

 

愈御勇健御座成され恐賀の至に奉存候。然者別封、封のまま御内密にて御前へ御差上げ仰付けられたく偏に奉願候。参上にて願ひ奉る筈に御座候處、憚りながら両三日又脚病、更に歩行相調(あいととの)ひ申さず、然るに右別封の儀は一刻も早く差上げ奉り度き心願に御座候ゆへ、至極恐れ多くは存じ奉り候へども、書中を以て願ひ奉り候間、左様御容赦仰付けられ度く、且此義に限り御同志の御方へも御他言御断り申上げ度く、其外種々貴意を得奉り度き事も御座候へども、紙面且つ人傳てにては申上げ難く、いづれ全快の上は即日参上、萬々申上ぐべくと奉存候。不宣。
九月十七日 間崎哲馬
乾退助様

 

別封の書面で、勤皇に関する重要人物からの機密事項が退助のもとへ送られたと考えられる。
翌年、間崎哲馬は、勤皇派が中心となって土佐藩の藩政改革を行うために、青蓮院宮尊融親王(中川宮朝彦親王)の令旨を奉拝せんとし、文久2年(1862)12月、青蓮院宮から令旨を得たが、これが「逆に不遜である」と山内容堂の逆鱗にふれ、文久3(1863)年6月8日、平井収二郎、弘瀬健太と共に間崎哲馬は切腹して果てることになる。間崎哲馬の門人が、中岡慎太郎、吉村虎太郎たちである。

 

尊皇攘夷派の人物と交わる

10月、この頃退助は「時勢之議論に打傾き、頻(すこぶる)に外藩人(他藩の藩士)と出会致し、攘夷論を唱へ候者を信用し、御上(藩主)へも時々言上致候」(『寺村左膳道成日記(1)』文久2年10月14日條、63頁)とあるように他藩の人々と時勢を論じ、思想的には「尊皇攘夷」を唱えていた。この日記を書いた寺村道成は、門閥派(佐幕派)の中心人物で、退助とは対極の考え方にあった。

 

文久3年(1863) 27歳

1月15日、藩主に従って上洛。

 

退助、罷免される

容堂公が土佐に帰国するにあたって、退助は容堂公に土佐に帰っても改革派(旧吉田派)は用いないで欲しいと願い出た。東洋の暗殺後、土佐は尊王攘夷派と門閥派(佐幕派)の牛耳ることなり、旧吉田派は蚊帳の外に置かれていた。その為、旧吉田派を再び引き立てると、必ず東洋の仇を討とうして勤王派と軋轢が生じ藩は支離滅裂な状態になってしまうからであるからという意見であった。ところが、4月12日(1863年5月29日)、容堂公が土佐に帰ると、改革派(旧吉田派)の人々を登用し始め、退助はかえって罷免されてしまった。

 

中岡慎太郎と武力討幕を誓う

8月18日、京都政変の後、中岡慎太郎が退助邸を訪問した。その時の様子は「維新史料編纂会講演速記録1」127頁に所収の『維新前夜経歴談』などに載せられている。

 


中岡慎太郎(京都・堀與兵衛撮影)


以下大意を抄録すると、中岡慎太郎が退助に「…貴所は役を罷められた様子であるが、私など何分、君敵(藩から敵対視され)のやうに言はれて用ゐられぬ。

 

甚だ困つて居るが、一つ此処で御意見を伺ひたいが、どうでございませう」と問えば「中岡君、今日は私の言が行はれやうかと思ふ。といふのは、私が役を罷めたからといふて、貴所が訪ねて来られたといふことは、始めて私に信用を置かれた様に思ふ。一つ貴所にお尋ねせにやならぬが、貴所は私を京都で殺す積りであつたらう」と退助が云ふ。

 

中岡は慌てて「イエさう云ふことはござりませぬ」と返したが、

退助は「それはどうも怪しからぬ。中岡君に似合わぬ女々しい話であつて、大丈夫の事を談ずる。時として殺さうと思ひ、又、共にしやうと思ふ、何の遠慮が要る訳はない。どうも中岡君に似合はぬ。僕は余程失望した」と語つた。中岡は観念して「これはどうも心外のことで、如何にも其の通、殺す積りでございました」と語つた。すると退助は喜んで「さう言つて呉れてこそ後の話が出来る。さうであつたらう。しかしながらどうも貴所などの遣り方といふものは実に甚だしい(極端である)。大坂では誰々を殺し、又、容堂公の酒の伽(とぎ)に出た者を斬るの、腐つたやうな首を持つて来て脅かすのといふことは、何といふことだ」、「それは実に悪うございました。どうぞ是から共にやつて下さい」、「宜しい。私も国に尽す上に於て、役を罷められたからからどう、役に就いたからどう、と云ふやうなことはない。素より共に遣らう」と意気投合し、互いに将来の討幕を約した。その後、9月5日、中岡慎太郎は脱藩し言動を実行に移した。

 

退助、復職す

10月14日、退助は、藩の仕置役となる。

 

文久4年/元治元年(1864) 28歳

7月、町奉行となる。8月、藩の大監察(大目付)に任ぜられ、後藤象二郎とともに容堂侯を補佐し、藩政運営の中核となるが藩の方針と対立して意見が容れられず。

 

元治2年/慶應元年(1665) 29歳

元治2年1月14日(1865年2月9日)、すべての役職を免ぜられ、大監察を辞す。

元治2年3月27日(1865年4月22日)、先の在職中、上士加増取調の件で「不念の儀」があったとして謹慎を命ぜられる。

 

兵学修行のため江戸へ

元治2年4月1日、謹慎が解かれ、江戸へ兵学修行へ出る。幕臣および他藩の士と交わって世の動静を察す。

 

退助、江戸で瑞山の訃報に接する

元治2年閏5月、武市瑞山が切腹を命ぜられる。退助、江戸で瑞山の悲報に接する。

 

慶應2年(1666) 30歳

慶應2年1月21日(1866年3月7日)、薩長同盟が成立。
慶應2年5月13日(1866年6月25日)、藩庁より、学問および騎兵修行の為、引続き江戸に滞留することの許可が下りる。
慶應2年6月7日(1866年7月18日)、第二次長州征伐が始まる。
慶應2年9月28日(1866年11月5日)、騎兵修行の命が解かれる。

 

慶応3年(1867) 31歳

水戸浪士隠匿事件

2月、江戸築地の土佐藩邸へ勤皇の水戸浪士・中村勇吉、相良総三らを匿う。当時、土佐藩内は、佐幕派のものが多かったにも関わらず、危険を顧みず藩主に報告せず退助の独断で、彼らをかくまい討幕の機の熟するを待った。これが世に言う「水戸浪士隠匿事件」である。

 

薩土討幕の密約

5月、退助は、薩長が同盟を組んだことを知り、後事を江戸の同志・山田喜久馬(山田平左衛門)、小笠原謙吉等に託して決死の覚悟で京都に上り、折りから入洛中の山内容堂侯に「薩長と連合して武力討幕に藩の命運を賭けるべきである」と言上したが聞き入れられなかった。


中岡慎太郎の手紙


退助は一旦、容堂侯を説得するの保留。土佐藩の勤皇の志を持つ者たちと糾合し、「脱藩してでも薩長土が連合して討幕を成就する事」を決し、中岡慎太郎の斡旋により中岡と共に5月21日(1867年6月23日)夕、薩摩藩士・小松帯刀邸を訪れ、乾退助、中岡慎太郎、谷干城、西郷隆盛、小松帯刀、吉井幸輔等と会合。討幕の合戦の火蓋が切られれば、藩論の如何に関わらず土佐藩が討幕挙兵に参戦をする事を約束した。

この会合こそ実に明治維新の土台となったものであって、後世の歴史家が「薩土討幕の密約(薩土武力倒幕密盟)」と呼ぶものである。

(これとは別に、一ヶ月後、6月22日(1867年7月23日)、坂本龍馬が仲介して大政奉還の為の同盟「薩土同盟」が結ばれた)

     


5月22日(1867年6月24日)、退助は「薩土討幕の密約」を結んだことを容堂侯に報告。

 

さらに江戸藩邸に勤皇浪士をかくまっていることを報告し、最早、土佐藩の命運は勤皇に就くしか道はないと言上する。容堂侯は態度を保留したが、いづれにせよ武力にて決する時が来ることを悟り、退助に軍令刷新を命じた。

 

退助は直ちに大坂にいで「アルミニー」銃300挺を購入して土佐に帰藩。小笠原唯八と共に同志を募ると、たちまちにして勤皇同志ら300人が盟に加わり腕を扼して武力討幕の火蓋が切られるのを待った。

 

脱藩を決意

藩内には依然として佐幕派もおり、特に藩の上士と呼ばれる人々に多かったため、退助は、表沙汰となった時に藩に迷惑のかからぬよう「脱藩上書」を作ってその準備を整えた。

 

土佐藩の軍令改革を行う

しかし、土佐藩は逆に正式に退助を藩の軍令改革の主導者として抜擢し、大監察(大目付)として、土佐藩軍備総裁に任じた。よって退助は、大いに兵制を改革し、北條流弓隊を廃止して、新たに銃隊を作って武力討幕の時に備えた。

 

大政奉還についての意見

7月8日、後藤象二郎が山内容堂公へ「大政奉還」の策を進言した時、退助はこの策を聞いて喜ばず、

 

今更、将軍の政権奉還などは因循姑息の策(旧来の方針を改めないまやかし)である。『大政返上』は名は美なるも、畢竟空名(有名虚実)にすぎぬ。今、朝廷が之によって天下に号令せんとするも、実権が伴はなければ、真実、『大政を奉還した』とは云へぬ。徳川家はもと、家康公の時に馬上(合戦)で天下を取った者である。されば馬上(合戦)で之を返して朝廷に奉る上でなければ、とても200有余年の覇政は覆へされぬ。無名の師はもとより、王者の与(く)みせぬところであるが、今日、幕府の罪悪は天地に満ちている。さるに敢然と討幕のことをしないで、空名を存するに務むるは誤見である。(乾退助)

 

と容堂公に意見を述べたが、退助の議は入れられず、7月13日、容堂公は大政奉還の建議を認可した。

退助は、徳川家が実権をにぎったままになってしまうことを最も警戒した。「実際に、天皇陛下に実権が委ねられていなければ、「大政奉還」とは名ばかりで、王政復古の大号令とはならないのである。徳川家が今まで200年余りも権勢を欲しいままにしてきたのは、合戦で勝ち得た権利であるから、この秩序を変えるには合戦をもってしなければならない。名ばかりのことをして喜ぶのは全くの間違いである」と。

しかし結局、慶応3年10月3日(1867年10月29日)、後藤象二郎らの主導により山内容堂公を経て、「大政奉還建白書」が幕閣に提出されることとなる。

 

アメリカ留学を命ぜられる

慶応3年8月20日(1867年9月17日)、アメリカ留学を命ぜられる(実現せず)。アメリカ留学を命ぜられた意図は、「南北戦争(1861-1865)での近代戦を学ばせるため」であるとも、「大政奉還」に邪魔となる退助を藩政から遠ざけてしまうためとも言われる。

 

土佐藩歩兵大隊司令を兼任

慶応3年9月29日(1867年10月26日)、新たに土佐藩歩兵大隊司令を兼任を命ぜらる。

 

歩兵大隊司令を解任される

慶応3年10月8日(1867年11月3日)、武力討幕に関する言動を警戒され、土佐藩歩兵大隊司令を解任される。

 

薩長両藩に「討幕の密勅」が下る

慶応3年10月13日(1867年11月8日)、薩長両藩に「討幕の密勅」が下る。

 

「大政奉還」が勅許せらる

慶応3年10月14日(1867年11月9日)、第15代将軍・徳川慶喜が「大政奉還」を明治天皇に奏上し、翌15日に天皇が奏上が勅許された。

 

退助失脚する

慶応3年10月19日(1867年11月14日)、「大政奉還」が勅許されたことにより、武力討幕を一貫して主張した退助は総ての役職を免ぜられ失脚する。

 

また一方、藩外では佐幕派側にとっても「大政奉還」のその後の措置に不満を持ち憤懣甚しく、不穏な空気が世間を取り巻いていた。

 

中岡慎太郎、坂本龍馬が逝く

慶応3年11月15日(1867年12月10日)、勤皇の同志である中岡慎太郎、坂本龍馬らが大政奉還のその後の措置に不満を持つ佐幕派の刺客に暗殺される。
坂本龍馬が亡くなったのは11月15日で、翌日に藤吉が逝き、中岡慎太郎はその2日後の11月17日だった。慎太郎は、将来のことを、何呉となく遺言し、特にこの時、土佐にいた退助に対しては「御承知の如く、癸丑以来、天下の有志輩に婦女子同様なりと嘲弄されし関東武士の中にも、現に此度の刺客の如き非常の決断をなす者、出で来る程の時勢に候へば、本藩に於てもゆめゆめ御油断あるべからず」と申し送らせた。この時、両雄を暗殺したのは新撰組の浪士であろうと噂された。

 

王政復古の大号令

慶応3年12月9日(1868年1月3日)、王政復古の大号令が発せられる。

1.相撲

板垣退助は、子供の頃から相撲が非常に好きで、現在の「国技館」(相撲常設場)の建議に加わり、名付け選定委員長でもある。土俵の真ん中に最初に立って命名を宣言したのが板垣である。

2.武田流軍学

板垣退助は、『孫子』は、丸暗記できるほど覚えていたと言われる。また武田流軍学や、山鹿流軍学の素養があり、のちにはオランダ式騎兵術を学んでいる。

 

板垣退助の先祖・板垣駿河守信方は、甲斐武田家の親族衆で、武田信玄の傅役を務め、また武勇の誉れ高く、武田二十四将の一人に数えられる名将であったと云われている。特に曾祖父の乾正聡は、武田流軍学の稀覯書を多数蒐集していた。そのため板垣退助も幼少の頃から武田流軍学に慣れ親しみ、家には歴代相伝した武田七将を描いた掛軸があった。それら名将の活躍を聞いて育ったものだから、少壮気鋭といえば聞こえが良いが要は腕白盛りに育った少年であった。

 

『森復吉郎回想録』によれば、退助は、幼少時代、土佐城下京町の小笠原家の塾に通ったが『経書』には興味を示さなかった。しかし兵法学は非常に好きで、朋友の家で軍学書を見つけると直に借りて熱心に読んでいたという。

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