源義光の曾孫が武田太郎信義(1128-1186)と名乗った信義には五人の子がいたと言われ、長男・逸見太郎有義、次男・一條次郎忠頼、三男・板垣三郎兼信、四男・四郎(早世)、五男・武田五郎信光とそれぞれ分与された所領を名字にした。この武田信光の15代目が、武田信玄晴信(1521-1573)である。
板垣家は、三男・板垣三郎兼信に発する家で、甲斐国山梨郡板垣庄を所領としたため、「板垣」を名字とした。始祖・板垣兼信は、治承4年の頼朝挙兵からつき従うが、のちにはその強勢を恐れた源頼朝に疎んぜられ、建久元年(1190)6月晦日、ついに「違勅(命令違反)」という罪科を得て、歿収領知遠江国雙侶荘の地頭職を歿収せられ、隠岐に配流された。兼信の嫡男・板垣四郎頼時も、これに連座して常陸に配流され彼の地で歿した。幸い、兼信の次男・板垣六郎頼重が、甲斐国に残ることが出来たため、代々武田家の親族衆として遇されて武田家に仕えた。
この戦歿地(長野県上田市下之条 若宮八幡宮附近)には五輪塔が立ち、のち鳥居が建てられ板垣神社と呼ばれるようになった。
信方が討死した後、嫡男・板垣信憲(弥次郎)が亡父の遺領を相続したが、信憲は有能な家臣を持ちながら出陣命令に従わなかったり、被官をぞんざいに扱った等、幾多の不業績があり、信玄公の勘気を被ることとなって長禅寺に謹慎中のところを同輩であった本郷八郎左衛門に私怨によって殺害されてしまったといわれる。
板垣家は、もと甲州武田家の親族衆。武田信玄の傅役・板垣駿河守信方の嫡男・板垣弥次郎信憲が懈怠あって長禅寺に謹慎したが、許されず改易された。また同輩衆・本郷八郎左衛門の私怨によって誅せられたとも言う。この時、信憲の嫡子・正信は、家臣・都築久太夫、北原羽左衛門らに養せられて、のち山内一豊の臣となったと伝えられている。退助は板垣信方より数えて十二世孫にあたる。北原羽左衛門は、土佐入領にも付き従い北原羽左衛門家の歴代墓は、高知に現存する。
「慈愛の心を以て、民庶を救わんは政道に照覧して尤もなり。他日、必ずやこの子は家名を上げさしめんであろう」
(慈悲の精神を以て郷民に向き合うのは、政治の基本である。子供ながらにその事が分かっているならば、退助は将来、必ず大物になるだろう)
東洋は退助をたしなめて、「武士たるもの馬上(戦争)で死ぬ覚悟は元より言うに及ばず、当たり前である。その覚悟があった上で、天下国家を支えるの勉学の道である」と語る。
間崎は、土佐藩の田野学館で教鞭をとり、のち高知城下の江の口村に私塾を構えた。教え子には中岡慎太郎、吉村虎太郎などがいた。
愈御勇健御座成され恐賀の至に奉存候。然者別封、封のまま御内密にて御前へ御差上げ仰付けられたく偏に奉願候。参上にて願ひ奉る筈に御座候處、憚りながら両三日又脚病、更に歩行相調(あいととの)ひ申さず、然るに右別封の儀は一刻も早く差上げ奉り度き心願に御座候ゆへ、至極恐れ多くは存じ奉り候へども、書中を以て願ひ奉り候間、左様御容赦仰付けられ度く、且此義に限り御同志の御方へも御他言御断り申上げ度く、其外種々貴意を得奉り度き事も御座候へども、紙面且つ人傳てにては申上げ難く、いづれ全快の上は即日参上、萬々申上ぐべくと奉存候。不宣。
九月十七日 間崎哲馬
乾退助様
甚だ困つて居るが、一つ此処で御意見を伺ひたいが、どうでございませう」と問えば「中岡君、今日は私の言が行はれやうかと思ふ。といふのは、私が役を罷めたからといふて、貴所が訪ねて来られたといふことは、始めて私に信用を置かれた様に思ふ。一つ貴所にお尋ねせにやならぬが、貴所は私を京都で殺す積りであつたらう」と退助が云ふ。
中岡は慌てて「イエさう云ふことはござりませぬ」と返したが、
元治2年3月27日(1865年4月22日)、先の在職中、上士加増取調の件で「不念の儀」があったとして謹慎を命ぜられる。
さらに江戸藩邸に勤皇浪士をかくまっていることを報告し、最早、土佐藩の命運は勤皇に就くしか道はないと言上する。容堂侯は態度を保留したが、いづれにせよ武力にて決する時が来ることを悟り、退助に軍令刷新を命じた。
退助は直ちに大坂にいで「アルミニー」銃300挺を購入して土佐に帰藩。小笠原唯八と共に同志を募ると、たちまちにして勤皇同志ら300人が盟に加わり腕を扼して武力討幕の火蓋が切られるのを待った。
今更、将軍の政権奉還などは因循姑息の策(旧来の方針を改めないまやかし)である。『大政返上』は名は美なるも、畢竟空名(有名虚実)にすぎぬ。今、朝廷が之によって天下に号令せんとするも、実権が伴はなければ、真実、『大政を奉還した』とは云へぬ。徳川家はもと、家康公の時に馬上(合戦)で天下を取った者である。されば馬上(合戦)で之を返して朝廷に奉る上でなければ、とても200有余年の覇政は覆へされぬ。無名の師はもとより、王者の与(く)みせぬところであるが、今日、幕府の罪悪は天地に満ちている。さるに敢然と討幕のことをしないで、空名を存するに務むるは誤見である。(乾退助)
板垣退助の先祖・板垣駿河守信方は、甲斐武田家の親族衆で、武田信玄の傅役を務め、また武勇の誉れ高く、武田二十四将の一人に数えられる名将であったと云われている。特に曾祖父の乾正聡は、武田流軍学の稀覯書を多数蒐集していた。そのため板垣退助も幼少の頃から武田流軍学に慣れ親しみ、家には歴代相伝した武田七将を描いた掛軸があった。それら名将の活躍を聞いて育ったものだから、少壮気鋭といえば聞こえが良いが要は腕白盛りに育った少年であった。
『森復吉郎回想録』によれば、退助は、幼少時代、土佐城下京町の小笠原家の塾に通ったが『経書』には興味を示さなかった。しかし兵法学は非常に好きで、朋友の家で軍学書を見つけると直に借りて熱心に読んでいたという。
赤穂藩改易の後もこの兵学は伝えられ、幕府が開設した講武所の頭取兼兵学師範役に窪田清音(くぼた すがね, 1791-1867)が、就任したことにより、幕府兵学の主軸となった。 窪田清音から若山勿堂(わかやま ぶつどう, 1802-1867)に伝えられた。窪田清音の兵学門人は三千人と云われ、退助の他に、谷干城、勝海舟らの逸材が学んだ。
清音の先祖も退助と同じく、甲斐武田家の旧臣であり、甲州流軍学、越後流軍学にも精通していた。清音は、山鹿流の伝統的な武士道徳に重点を置いた講義に加え、幕末の情勢に対応した練兵の必要性を唱え、『練兵新書』、『練兵布策』、『教戦略記』などを著している。
∴山鹿素行→大石良重→菅谷政利→太田利貞→岡野禎淑→清水時庸→黒野義方→窪田清音→若山勿堂→板垣退助
明治15年(1882)4月6日午後6時半頃、板垣は帰途に就こうと岐阜中教院の玄関を出た時、短刀を振りかざした暴漢・相原尚褧に急襲されたが、この「呑敵流小具足術」で身をかわした。これによって本山団蔵から免許皆伝を贈られた。
やがて、この流派が土佐藩に導入されて「御留流(おとめりゅう)」として保護され、藩内に広まり、継承されていく。幕末になると、十五代藩主・山内容堂がこの剣術に熱中した話がいくつか、語り継がれている。
容堂の側近にいた板垣退助は、「七日七夜の間休みなしの稽古を続けた。数人の家来がこれに参加したものだが、あまりの烈(はげ)しさにみな倒れて、最後まで公のお相手をしたものは、わずか二人か、三人にすぎなかった」(『史談速記録』)と、容堂の稽古ぶりを証言している。板垣もまた、この剣術の修業に励んだことは言うまでもない。
雑誌『土佐史談』十五号所収・「英信流居合術と板垣伯」(岡林九敏稿)によると、明治維新以後の風潮の中で、武道が衰微していく。明治二十六年に板垣が帰郷した折、英信流が衰微しているのを惜しみ、その育成を計ったという。岡林氏は「英信居合術の今日あるは、洵(まこと)に伯(板垣)の賜(たまもの)であると言っても決して過言でない」と、英信流の復活に板垣が大きな役割を果たしたことを伝えている。
同じころ、京都で活躍していた中山博道という剣士が来高した。大江正路(おおえまさじ)に、英信流の根源について質問する。大江は明治・大正年代にかけて、英信流の奥義を窮めた名剣士として知られ、十七代目を継いだ人物であるが、「板垣が一番よく知っているから、尋ねたらよい」と答えたほどである。中山は、直接板垣に面会し、教えを受ける。また、居合術の名人である細川義昌を紹介されて、その指導をも受けている。
これらの人物の努力によって、英信流は土佐の剣士たちの間でもっぱら隆盛を極めた。他の流派をおさえて発展し、全国的にも普及していった」とある。