平成30年(2018)は、板垣退助伯薨去百回忌
平成30年(2018)9月29日挙行された板垣伯薨去百回忌墓前法要
東京品川:高源院墓地の板垣退助墓前にて挙行されました。新聞発表では30人とありますが、警備の関係上、御来賓ならびに事前予約者に限定しての法要で参列者数は35名。早朝から法要開始前の関係者以外立ち入り禁止となる直前までに一般の方の参列は30名ずつの団体が3組みあり、法要開始前に参列された方の人数は90名はおられました。
板垣伯薨去百年祭(於 高源院墓地・板垣墓前)
台風24号が近づいているとのことで、小雨の中となりましたが、板垣退助先生ゆかりの諸氏が参集し、先生百回忌墓前法要がしめやかに行われました。 宮内庁書陵部主任研究官、国会議員、戊辰史研究家・小美濃清明さまをはじめとする諸先生、土佐藩士・郷士たちの御子孫、明治維新元勲の御子孫、大楠公御末裔・楠正至さま、旧幕側御子孫、土佐居合道・無雙直伝英信流有縁の諸氏、
板垣伯薨去百年祭(於 高源院墓地・板垣墓前)
遠くは岩手県から後藤新平先生顕彰会副会長・髙橋力さま、板垣ゆかりの方々および御支援者様各位にご臨席を賜わり【板垣退助伯爵薨去 百回忌墓前法要】並びに【特別位牌奉納式】を滞り無く斎行することが出来ました。皆様ありがとうございました。ご来賓各位。「涙雨」と言うのでしょうか。傘を差しての参列となりました。
平成30年9月30日附『高知新聞』朝刊
板垣退助しのび100回忌。東京・子孫ら30人墓前祭。【東京支社】明治時代に自由民権運動を指導した板垣退助(1837-1919)の100回忌墓前法要に合わせ東京都品川区の墓所で29日、特別位牌奉納式が行われた。板垣の子孫ら約30人が参列し、議会政治の確立に尽力した功績をしのんだ。土佐藩士の乾家に生まれた板垣は、明治維新で討幕に奔走。1874(明治7)年には愛国公党と立志社を結成し、民権運動の先頭に立った。品川神社裏の板垣の墓(高源院墓所)は、近くの鮫洲に山内容堂の墓があり、見晴らしが良いことから板垣の意向で建てられたともいわれる。墓前法要は、一般社団法人 板垣
板垣伯薨去百年祭(於 高源院墓地・板垣墓前)
退助先生顕彰会(高岡功太郎理事長)が施主となり、関東大震災で焼失し、現存しない位牌の変わりに今回新たに浄財を募って作成し、その裏面には、板垣の創設した自由党の政治的後継者にあたる自由民主党の安倍晋三総裁が「板垣死すとも自由は死せず」と揮毫した。当日は、菩提寺である高源院(東京都世田谷区)の住職が読経し、子孫らが順に焼香した。太平洋セメント販売株式会社の社長で、板垣の曾孫・浅野一さん(69)は「板垣退助は国会議事堂に銅像
板垣伯薨去百年祭(於 高源院墓地・板垣墓前)
があり、現在の政治の中枢を担う自由民主党の源流を作り、議会制度の原点となる国会を作った人物。波瀾に満ちた激動の時代を生き抜いた生涯で、その生き方を心のよりどころにして仕事に励みたい」と話した。玄孫の高岡理事長は「記念図書の発刊などを通し、板垣精神を継承していきたい」と意気込みを語った。(以上平成30年9月30日附『高知新聞』朝刊より。文脈補足済)
板垣伯薨去百年祭(於 高源院墓地・板垣墓前)
東京菩提寺・高源院は、関東大震災でお寺は焼失。しばらく無住の状態を経て、世田谷に移転し再興されました。板垣先生のお墓は、この場所が当人が気に入って建てられたとあって、移転されずこの場所に残されたため、今は世田谷のお寺の飛び地のようになっていますが、こちらが元々の場所にあたります。関東大震災でお寺が焼失した時に「お位牌」も焼けたのか、元々高源院さまには「寺位牌」が奉納されていなかったのか、無住の時代をはさんでいるので分かりませんが、今年、百回忌法要を高知の菩提寺で行うにあたり、高知菩提寺へ「塗り位牌」を奉納。東京菩提寺にも「お位牌」が無かったため、【明治維新150年・板垣退助先生百回忌】に併せて、高知・東京両菩提寺に【特別塗り位牌】を奉納しようと、浄財を広く一般に募って完成したのがこの位牌です。
板垣伯薨去百年祭(於 高源院墓地・板垣墓前)
板垣退助先生の薨去百年を経ても、その精神は受け継がれてゆかねばならないということを改めて誓う意味で、50年前の五十回忌の際に自由民主党の総裁であった佐藤榮作先生に揮毫して頂いた例に倣い、自由民権運動の正統後継者である自由民主党・安倍晋三総裁に「板垣死すとも自由は死せず」の文言を揮毫をして頂き、字形をそっくりそのまま縮小してお位牌の裏面に刻みました。
板垣伯薨去百年祭(於 高源院墓地・板垣墓前)
こちらは、我々の先輩にあたる50年前の「板垣退助先生顕彰会」が建立した石碑で、時の総裁であった佐藤榮作先生の揮毫による「板垣死すとも自由は死せず」の碑。当時の「板垣退助先生顕彰会」の資料によると、正式名称は【板垣退助先生顕彰碑】です。板垣家当主・退太郎さまのお姉さまのお話しによると、高知県産の石をはるばる運んで建碑されたもの。碑陰には「昭和43年7月16日」と先生の50回忌の日が刻まれていますが、実際に除幕がされた
板垣伯薨去百回忌墓前法要 特別位牌奉納式・直会
のは、その年の12月8日になります。HPに百回忌の当日の詳細人物の写真・名簿は当然upできませんが、記念書籍には収録いたします。まさに幕末・明治維新の元勲の子孫、重鎮、旧幕臣側ご子孫などご歴々が参集。先人の偉勲を讃えあい歴史的にも意義のある【百回忌法要】ならびに【特別位牌奉納式】となりました。法要後は、板垣先生の旧邸のあった都内港区芝の某所へ場所を移して「直会」。献杯のご発声は、高知板垣会古谷俊夫会長名代・副会長 谷是さま。こちらも、勤皇、忠臣のご子孫をはじめとするご来賓ご歴々によりご講話を賜り、実りある法要となりました。
昭和43年(1968)、(※50年前)に挙行された板垣伯薨去五十年墓前祭(第50回忌)
東海寺塔頭:高源院墓地の板垣退助墓前にて挙行されました。
板垣伯薨去五十年祭(於 高源院墓地・板垣墓前)
(右列奥から、乾一郎、乾富美子、板垣晶子、乾(髙岡)眞理子、秋山範子、秋山有世、板垣直磨、子供奥から秋山ゆり、秋山竹生、左列、寺尾豊、他一名/写真:髙岡家蔵)
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