1.薩土討幕の密約を結び戊辰戦争を起こさせた。また近代日本陸軍を創った。
薩土討幕の密約を結び維新回天を惹起した。→土佐藩の軍制刷新・近代式練兵を行う。→討幕軍となり戊辰戦争で勝利。→御親兵となり近衛師団となる。→近代日本陸軍となる。→明治38年に【日本陸軍創設功労者】として陸軍省より正式に表彰され、薨去後大正天皇より誄詞(るいし)を賜う。
2.東アジア初となる国会と自民党の前身を創った。
『億兆安撫国威宣揚御宸翰(おくちょうあんぶこくいせんようのごしんかん)』ならびに『五箇条御誓文』の意を拝し、国会開設活動(自由民権運動)を行い【国会を開設】この時に創った日本初の政治政党「愛国公党」ならびに「自由党」が現在の「自由民主党」の前身となる。
3.北海道の領土売却を阻止し日本の領土を保全した。
●板垣は母成峠で進軍を阻む賊を猛戦して討破り、十六橋を突破し、馳突して会津城下に攻め下った…」敵は十六橋を壊して官軍の進路を阻もうとしたが、板垣らの進軍は予想以上に速く、8月22日にはこの橋に辿り着き、日橋川を渡る。板垣は「会津城下を己の奥都城と思え、立ち止まる者は味方とて斬り捨てる。大小便も走りながらせよ」と命令を発して急ぐ。板垣が会津攻略を急いだ訳は?
●江戸で大村益次郎が発した指令では「枝を刈って幹を枯らせ」というもの。しかし、『奈破翁戦記』を読んでいた板垣はこの作戦に懸念を示した。「仏国(フランス)は強国なれども、しばしば雪山に敗けを知ると聞く。吾等、薩土の兵もまた南国の育ちなれば、今は優勢たりといえど、奥羽の冬を越すに如何…」と私見を述べ「幹を根本から斬らば自(おのづ)と枝も枯れる」と返書し、本命の会津城攻略に的を絞った。薩摩、土佐の兵を御する板垣は、長期戦となることを徹底して避けた。
●この時、軍資金に欠乏した会津藩主・松平容保と庄内藩主・酒井忠篤は、ヘンリー・シュネル(日本名:平松武兵衞)という代理人を通してプロイセンに対し、蝦夷地を「99年間の租借」すなわち、北海道の広大な土地を事実上、売却する提案をしていた(註1)。戊辰戦争ではフランスが幕府に助力し、イギリスが薩摩に協力的であったものの欧州諸国はつとめて「局外中立」の立場を採りこの内戦を静観した。
●実質は欧州が全面的に加勢することで日本列島が欧州の代理戦争の舞台となることを避け、また勝った方と与(くみ)する打算、即ち「勝ち馬に乗る」思惑(おもわく)が欧州にあった。プロイセンの宰相・ビスマルクは日本の内戦に関し「局外中立」の立場から提案を一度は断ったが、三週間後に考えを改め「承諾書」を日本へ送った。プロイセンからの返書が届いたのは会津が落城して一週間後のことで、そのため、この契約は有耶無耶となった(註2)。
●同時期に榎本武揚がポルトガルと結んだ「ガルトネル開墾条約」では五稜郭落城の一週間前に発効されてしまった為に、蝦夷地の一部が治外法権の領土となってしまい、明治政府がその後苦心して違約金を払い買い戻している(註3)。幕末には鎖国をやめるべきかの「開港問題」で「勅許の有無」が大問題となったが、この広大な領土の割譲は、もとより勅許の有無など完全に無視した両藩の独断。いかに切迫した理由があったにせよ、勤皇の立場からは許し難い大罪であった。しかしながら、板垣はその罪を糾弾せず寧(むし)ろ藩主らの助命を嘆願した。それは来(きた)るべき日本を列強の侵略から守るにあたって日本国民の思想的分断を招いてはならないと判断したからである。北海道の広大な土地が海外の領土とならずに今あるのは、土佐藩兵が急ぎに急いで会津を落城させた尽力によるものであることは言を俟(ま)たない。
●戊辰の話になるとよく「官軍が遺体埋葬を禁止した」という怨み節を述べる人がいる。しかし、土佐藩の名誉のために申し上げると、これは、フィクションであって史実ではない。平成28年(2016)12月、会津若松市で発見された『戦死屍取仕末(せんしかばねとりしまつ)金銭(きんせん)入用帳(いりようちょう)』によれば、明治新政府は会津藩降伏の十日後にあたる旧暦十月二日に埋葬を命令しており、翌日の10月3日から同17日にかけ、会津藩士4人が指揮し、会津城(鶴ケ城)郭内外などにあった567体の遺体を発見場所周辺の寺や墓など市内64カ所に集めて埋葬したこと、埋葬経費は74両(現在の約450万円)、のべ384人が動員され、一人当たり1日2朱(同7500円)が支給されたこと、発見当時の服装や遺体の状態などが克明に記されており、「戊辰戦争で戦死した会津藩士の遺体が半年間、野ざらしにされた」という禁止令は史実ではない。
(註1)
【プロイセン蝦夷地租借未遂事件】戊辰戦争の当時、江戸から指示を出していた大村益次郎は「枝を刈って幹を枯らせ」これは「会津に与みする周辺の藩を先に攻略し会津を孤立させてから攻略せよ」との意味であった。会津攻めの総大将であった板垣退助は『ナポレオン戦記』を読んでいたので「フランスは強国なれど、しばしば雪山に負けを知ると聞く。我等南国(土佐・薩摩)の兵たれば、雪国の冬の来たれる迄にこれを討たむ」と早期決戦を立案。薩藩の伊地知正治と合議して大村に「幹を断てば枝も自と枯れる」と伝令を返して激流の阿武隈川を渡り、母成峠を越え、十六橋を渡り、急ぎに急ぎ馳突して会津城下に入った。慶応4年(1868)7月、会津、庄内の両藩は戦費調達の為、北海道をプロイセン(現・ドイツ)に売却した。契約文書では『99年間貸借条約』となっているが、当時の契約文書の語法として事実上の売却を意味していたとされる。プロイセン宰相ビスマルクは、初めは局外中立を保って一度は拒否したが、3週間後に考えを改め「承諾書」を送った。横浜にいた駐日プロイセン公使マックス・フォン・ブラントが書いた外交書簡によれば、貸与期間は具体的に「ヘンリー・シュネル(当時東北にいたプロイセン人の仲介役で日本名・平松武兵衛)が、借り入れに対して蝦夷地の領地を99年間、担保として与えるとする会津藩主松平容保・庄内藩主酒井忠篤の全権委任状を持ってきた。百平方ドイツマイル(5,625平方キロメートル)の土地を得るのに30万メキシコ・ドルで充分であろう」と記されている。(『駐日公使発本国向け外交書簡』ベルリン連邦文書館蔵)プロイセンからの返書が日本に届いたのは、会津が落城して一週間後のことであったため、有耶無耶となったが、板垣が早期決戦を挑まず会津戦争が長期戦となっていたならば、北海道の広範囲はドイツ領となっていたであろう。
(註2)
【会津藩集団海外逃亡未遂事件】「若松コロニー(入植地)」の所在地アメリカ合衆国カリフォルニア州エルドラド郡ゴールド・ヒル。1868年、戊辰戦争に敗戦の色濃厚となった会津藩士らは、商人ジョン・ヘンリー・シュネルを介し米国の土地を購入し海外逃亡を計画したが、官軍に阻止され出航できず。翌1869年5月20日、移民船でサンフランシスコに到着した会津藩士とその家族、シュネルの妻らの一行は、ゴールドラッシュで栄えるゴールド・ヒルへ向かい農地を買い取り、会津藩士が入植した。しかし、1871年4月、若松コロニーが行き詰まったスネルは見切りをつけ「コロニーの資金調達の為」と言い残し、日本人入植者達を残して逃亡。
(註3)
【ガルトネル開墾条約事件】榎本武揚が率いる蝦夷共和国が10月末に箱館を占領し、ポルトガルに対し明治2年2月19日(1869年3月31日)に「蝦夷地七重村開墾条約書」を無断で締結した。その内容は、七重村およびその近傍の約300万坪を99年間租借するというものであった。条約発効の1週間後に、榎本軍の降伏により蝦夷共和国は倒れたが、条約が1週間履行されてしまったため、この土地を足掛かりに蝦夷地が植民地化されるおそれもあることから、明治政府の外務省は11月、ガルトネル開墾条約の契約を破棄するよう伝えたが難航した。明治3年(1870)11月、明治政府が6万2500両の違約金を支払うことでようやく契約を解消した。
4.国技館の創設、居合・競馬の奨励
相撲(国技館の創設)、居合(無双直傳英信流)、競馬(軍馬育成のため)を奨励。
5.文化面での功績
傷痍軍人、女性受刑者の獄中出産した児童の育成、視覚障害者の自立支援など文化面での貢献。→明治憲法発布50年の記念に憲政功労者として国会に銅像が建立された。
6.その他の功績
その他、後藤象二郎の銅像建立(戦時供出)、坂本龍馬を顕彰する石碑建立(桂浜に現存、坂本龍馬の銅像の存在しなかった時代)、明治天皇崩御の時、神社ならびに銅像の建立を発議→明治神宮、銅像は岐阜東照宮などに存在。戊辰戦争の敵側・会津藩の名誉回復に尽力。台湾議会の創設支援など。