2.青年期
安政元年(1854) 18歳
12月28日、来年より江戸勤番をするよう仰せ付けられる。
安政2年(1855) 19歳
江戸勤番。11月11日 安政江戸地震の時、冷静沈着に対応し御褒詞を賜う。
安政3年(1856) 20歳
江戸勤番より戻る。6月9日自宅に於いて喧嘩。
謫居生活
8月8日、喧嘩によって城下四ケ村(潮江、井口、江ノ口、小高坂)禁足(立ち入り禁止)と「惣領職褫奪(ちだつ)」の重罰(乾家の当主を相続する権利を取上げられる)を受け、土佐郡神田村(現・高知市神田780番地
3)に謫居。庶民と交わる。吉田東洋が自塾で勉学することを誘うが断る。「孫子」を独学する。
しかし、吉田東洋の塾には通わず、門下にもならず、独学で軍学研究を行った。
安政5年年(1858) 22歳
6月19日幕府の大老・井伊直弼が勅許を得ずにアメリカと修好通商条約を結ぶ。いわゆる不平等条約である。これに反発して全国に尊王攘夷論が高まる。
安政6年年(1859) 23歳
2月26日、第十五代藩主山内豊信が隠居し「容堂」と号し謹慎する。5月23日藩主を山内豊範が相続することを幕府が認めたことの恩赦により、退助は高知城下への帰宅を許される。7月18日夜、鏡川の南川原(潮江天満宮北側)で同輩を多数集めて相撲大会を行う。
万延元年(1860) 24歳
3月3日
桜田門外の変が起き、井伊直弼が暗殺される。閏3月3日父・乾正成死去。6月26日、昨年七月鏡川の川原で相撲に興じていたことが露見し叱責を受けるが、第16代藩主山内豊範の慈恵の沙汰により跡目相続を認められる。この時、藩主より「
退助」の名を賜い改名。8月12日免奉行加役、9月30日免奉行(年貢の調査役)となる。この時、退助が「免奉行」に抜擢されたのは吉田東洋の推挙によるものだった。
通常、吉田東洋の塾に通った者が、吉田東洋によって抜擢され「新おこぜ組」と呼ばれる。しかし、板垣退助だけは例外で、吉田東洋によって抜擢されたので「新おこぜ組」と呼ばれるが、板垣退助自身は吉田東洋の塾に通っておらず、門下生ではない。
吉田東洋の先祖は、旧長曾我部家の家臣で、山内家の土佐入国以降、土佐藩主に仕えた家柄。失脚ののち少林塾(鶴田塾)を構えた。塾名の「少林」は、長曾我部氏の菩提寺から採られたもの。吉田東洋は公武合体を旨としていたが、退助は勤皇・武力討幕を唱え、政治理念には大きく隔たりがあった。にも関わらず、東洋は退助を抜擢する度量の大きさがあった。
門下生ではなかったが、吉田東洋に抜擢された退助
腕白小僧で、勉強嫌いだった退助を見出だしたのが吉田東洋という人物だった。退助が、神田村に謫居していた同じ時に、神田村に謫居していた人物が、吉田東洋と岩崎弥太郎である。特に、岩崎弥太郎の謫居地は、板垣の謫居していた場所と極めて近い。

吉田東洋(江戸時代撮影)
吉田東洋は旧長曾我部家の家臣の家柄。学に秀で藩政の重席に抜擢されたが、ある時、酒の席で理不尽な目に遭い藩の上士との喧嘩となった。結果、一方的に東洋が譴責を受け、藩政を干されて謫居し、神田村に家塾を開いていた。そこに通っていたのが、退助の竹馬の友、後藤象二郎である。象二郎から話を聞いたのか、東洋は謫居中の退助に勉学に励むよう諭した。しかし退助は「武士たるもの主君の為に馬上(戦争)で死ぬ覚悟があれば充分だ。勉学など必要ない」と広言した。
東洋は退助をたしなめて、「武士たるもの馬上(戦争)で死ぬ覚悟は元より言うに及ばず、当たり前である。その覚悟があった上で、天下国家を支えるの勉学の道である」と語る。