2.青年期

安政元年(1854) 18歳

12月28日、江戸勤番を仰せ付けられる。

 

安政3年(1856) 20歳

謫居生活

8月8日、喧嘩によって「惣領職褫奪(ちだつ、乾家の当主を相続する権利を取上げられる)、城下四ケ村禁足」の重罰を受け、土佐郡神田村に4年間謫居した。吉田東洋の慰撫を受け、態度を改めて文武の修行に励む。

 

吉田東洋に見いだされる

腕白小僧で、勉強嫌いだった退助を見出だしたのが吉田東洋という人物だった。退助が、神田村に謫居していた同じ時に、神田村に謫居していた人物が、吉田東洋と岩崎弥太郎である。特に、岩崎弥太郎の謫居地は、板垣の謫居していた場所と極めて近い。

 


吉田東洋(江戸時代撮影)

吉田東洋は旧長曾我部家の家臣の家柄。学に秀で藩政の重席に抜擢されたが、ある時、酒の席で理不尽な目に遭い藩の上士との喧嘩となった。結果、一方的に東洋が譴責を受け、藩政を干されて謫居し、神田村に家塾を開いていた。そこに通っていたのが、退助の竹馬の友、後藤象二郎である。象二郎から話を聞いたのか、東洋は謫居中の退助に勉学に励むよう諭した。しかし退助は「武士たるもの主君の為に馬上(戦争)で死ぬ覚悟があれば充分だ。勉学など必要ない」と広言した。

 

東洋は退助をたしなめて、「武士たるもの馬上(戦争)で死ぬ覚悟は元より言うに及ばず、当たり前である。その覚悟があった上で、天下国家を支えるの勉学の道である」と語る。

それ以来、退助は勉学に励むようになったという。ただし、吉田東洋の塾には通わず、門下にもならず、独学にて修行研鑽を行ったとされる。

 

長曾我部家旧臣・吉田東洋

吉田東洋の先祖は、旧長曾我部家の家臣で、山内家の土佐入国以降、土佐藩主に仕えた家柄。失脚ののち少林塾(鶴田塾)を構えた。塾名の「少林」は、長曾我部氏の菩提寺から採られたもの。吉田東洋は公武合体を旨としていたが、退助は勤皇・武力討幕を唱え、政治理念には大きく隔たりがあった。にも関わらず、東洋は退助を抜擢する度量の大きさがあった。

 

万延元年(1860) 24歳 

9月30日、土佐藩の免奉行加役(年貢の調査役)に登用される。

お問い合わせはこちら