1.板垣家のはじまり

先祖

板垣家の祖は、人皇第56代 清和天皇の第六皇子 貞純親王の御子 経基王が源朝臣の姓を賜り臣籍降下したことに始まる。源満仲(873?-916)は、摂津国川辺郡多田庄(現 兵庫県川西市 多田神社附近)を所領として武士団を形成。多田満仲と名乗り、やがて武家棟梁として活躍することとなる清和源氏の祖となった。

 

源義光の曾孫が武田太郎信義(1128-1186)と名乗った信義には五人の子がいたと言われ、長男・逸見太郎有義、次男・一條次郎忠頼、三男・板垣三郎兼信、四男・四郎(早世)、五男・武田五郎信光とそれぞれ分与された所領を名字にした。この武田信光の15代目が、武田信玄晴信(1521-1573)である。

 

板垣家は、三男・板垣三郎兼信に発する家で、甲斐国山梨郡板垣庄を所領としたため、「板垣」を名字とした。始祖・板垣兼信は、治承4年の頼朝挙兵からつき従うが、のちにはその強勢を恐れた源頼朝に疎んぜられ、建久元年(1190)6月晦日、ついに「違勅(命令違反)」という罪科を得て、歿収領知遠江国雙侶荘の地頭職を歿収せられ、隠岐に配流された。兼信の嫡男・板垣四郎頼時も、これに連座して常陸に配流され彼の地で歿した。幸い、兼信の次男・板垣六郎頼重が、甲斐国に残ることが出来たため、代々武田家の親族衆として遇されて武田家に仕えた。


板垣信方(松本楓湖画(1871)模写・個人蔵)

板垣兼信から十五代目にあたる板垣駿河守信方が、武田信虎(1494-1574)の家臣で、武田信玄晴信(1521-1573)の傅役(もりやく)となる。信方は武田四天王の一人で、また武田二十四将の一に数えられる名将である。板垣家の家紋は「花菱(裏花菱)」、信方の馬標は「三日月」であった。

信方は、武田晴信が父信虎を追放して家督を継ぐと家臣団の筆頭格となる。晴信が諏訪氏を滅ぼすと諏訪郡代(上原城城代)となり、諏訪衆を率いて信濃経略戦で戦功をあげた。村上義清と戦った上田原の合戦の時、信方は先陣を務め、諸戦で村上勢を破るが、逆襲を受けて、天文17年2月14日(1548年3月23日)討死した。首実検の最中で、煙草を吸って休憩している際に不意をつかれたという逸話がある。

 

この戦歿地(長野県上田市下之条 若宮八幡宮附近)には五輪塔が立ち、のち鳥居が建てられ板垣神社と呼ばれるようになった。

 

信方が討死した後、嫡男・板垣信憲(弥次郎)が亡父の遺領を相続したが、信憲は有能な家臣を持ちながら出陣命令に従わなかったり、被官をぞんざいに扱った等、幾多の不業績があり、信玄公の勘気を被ることとなって長禅寺に謹慎中のところを同輩であった本郷八郎左衛門に私怨によって殺害されてしまったといわれる。

 

板垣家は、もと甲州武田家の親族衆。武田信玄の傅役・板垣駿河守信方の嫡男・板垣弥次郎信憲が懈怠あって長禅寺に謹慎したが、許されず改易された。また同輩衆・本郷八郎左衛門の私怨によって誅せられたとも言う。この時、信憲の嫡子・正信は、家臣・都築久太夫、北原羽左衛門らに養せられて、のち山内一豊の臣となったと伝えられている。退助は板垣信方より数えて十二世孫にあたる。北原羽左衛門は、土佐入領にも付き従い北原羽左衛門家の歴代墓は、高知に現存する。

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