5.英信流居合術

無双直伝英信流と板垣退助の関係については、広谷喜十郎の書いたものに詳しい。以下再録すると、「英信流については、『高知県歴史事典』の「長谷川流居合術」の条に、「近世流伝した抜刀流の一派、出羽国楯岡の人・林崎甚助を流祖とするもので、その流れを汲む長谷川主税助(英信)が新しい工夫を加え長谷川流と呼ばれたが、現在では「無双直伝英信流」と改称、全国的に知られている」と述べられている。

 

やがて、この流派が土佐藩に導入されて「御留流(おとめりゅう)」として保護され、藩内に広まり、継承されていく。幕末になると、十五代藩主・山内容堂がこの剣術に熱中した話がいくつか、語り継がれている。

 

容堂の側近にいた板垣退助は、「七日七夜の間休みなしの稽古を続けた。数人の家来がこれに参加したものだが、あまりの烈(はげ)しさにみな倒れて、最後まで公のお相手をしたものは、わずか二人か、三人にすぎなかった」(『史談速記録』)と、容堂の稽古ぶりを証言している。板垣もまた、この剣術の修業に励んだことは言うまでもない。

 

雑誌『土佐史談』十五号所収・「英信流居合術と板垣伯」(岡林九敏稿)によると、明治維新以後の風潮の中で、武道が衰微していく。明治二十六年に板垣が帰郷した折、英信流が衰微しているのを惜しみ、その育成を計ったという。岡林氏は「英信居合術の今日あるは、洵(まこと)に伯(板垣)の賜(たまもの)であると言っても決して過言でない」と、英信流の復活に板垣が大きな役割を果たしたことを伝えている。

 

同じころ、京都で活躍していた中山博道という剣士が来高した。大江正路(おおえまさじ)に、英信流の根源について質問する。大江は明治・大正年代にかけて、英信流の奥義を窮めた名剣士として知られ、十七代目を継いだ人物であるが、「板垣が一番よく知っているから、尋ねたらよい」と答えたほどである。中山は、直接板垣に面会し、教えを受ける。また、居合術の名人である細川義昌を紹介されて、その指導をも受けている。

 

これらの人物の努力によって、英信流は土佐の剣士たちの間でもっぱら隆盛を極めた。他の流派をおさえて発展し、全国的にも普及していった」とある。

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