3.討幕活動期
文久元年(1861) 25歳
8月武市瑞山が土佐勤王党を結成すると、退助は勤王派の上士として「土佐勤王党同志姓名附」に名を連らねた。退助の叔母(父の妹)が、土佐勤王党の結成に理解のあった平井善之丞であり、武市瑞山と退助は思想的には近いところからスタートしている。
土佐勤王党・間崎哲馬と交わる
退助は土佐勤王党の間崎哲馬と交誼を結び、9月 間崎から退助へ内密の書簡が届く。間崎哲馬(滄浪, 1834-1863)は、土佐藩の田野学館で教鞭をとり、のち高知城下の江の口村に私塾を構えた。教え子には中岡慎太郎、吉村虎太郎などがいたが、この頃、間崎は土佐勤王党の知謀(ブレイン)として活躍していた。
愈御勇健御座成され恐賀の至に奉存候。然者別封、封のまま御内密にて御前へ御差上げ仰付けられたく偏に奉願候。参上にて願ひ奉る筈に御座候處、憚りながら両三日又脚病、更に歩行相調(あいととの)ひ申さず、然るに右別封の儀は一刻も早く差上げ奉り度き心願に御座候ゆへ、至極恐れ多くは存じ奉り候へども、書中を以て願ひ奉り候間、左様御容赦仰付けられ度く、且此義に限り御同志の御方へも御他言御断り申上げ度く、其外種々貴意を得奉り度き事も御座候へども、紙面且つ人傳てにては申上げ難く、いづれ全快の上は即日参上、萬々申上ぐべくと奉存候。不宣。
九月十七日 間崎哲馬
乾退助様
別封の書面で、勤皇に関する重要人物(青蓮院宮に近い人物)からの機密事項が退助のもとへ届けられたと考えられる。「未開封のまま藩主へ差出して欲しい」とあるため、間崎も退助も書簡の内容は未読であったようだ。
10月25日、退助は軍備庶務の掌理(土佐藩江戸藩邸の軍事係・会計係)、御納戸方を命ぜられ江戸へ赴くことになる。
文久3年(1863)、間崎哲馬は、勤皇派が中心となって土佐藩の藩政改革を行うために、青蓮院宮尊融親王(中川宮朝彦親王)の令旨を奉拝せんとした。これに先立つ文久2年(1862)12月、青蓮院宮から令旨を得たが、これが「逆に不遜である」と山内容堂の逆鱗にふれ、文久3年(1863)6月8日、平井収二郎、弘瀬健太と共に間崎哲馬は切腹して果てることになる。間崎哲馬の門人が、中岡慎太郎、吉村虎太郎たちである。
文久2年(1862) 26歳
山内容堂侯の側用人となる

山内容堂(江戸時代撮影)
文久2年(1862)2月、退助は、藩の実権を持ちながらも、表向きは隠居し品川の鮫洲の下屋敷にいた前藩主・山内容堂の側用人となり、江戸藩邸の総裁を命じられた。
吉田東洋が暗殺される
文久2年(1862)4月8日、退助が山内容堂の側用人として江戸に在勤中、国元の土佐で吉田東洋が暗殺される事件が起きた。犯人は土佐勤王党員であった。
尊皇攘夷派の人物と交わる
文久2年(1862)10月17日、退助は前藩主山内容堂の御前にて門閥派の寺村左膳と対論。退助は尊皇攘夷を唱え「幕府がもし勅命遵奉なき時は追討して違勅の罪を問うべき」と武力討幕を一貫して主張する。
この頃退助は「時勢之議論に打傾き、頻(すこぶる)に外藩人(他藩の藩士)と出会致し、攘夷論を唱へ候者を信用し、御上(藩主)へも時々言上致候」(『寺村左膳道成日記(1)』文久2年10月14日條、63頁)とあるように他藩の人々と時勢を論じ、思想的には「尊皇攘夷」を唱えていた。この日記を書いた寺村左膳は、門閥派の中心人物で、退助とは対極の考え方にあった。
文久2年(1862)10月28日三条実美が勅使として江戸に下向し、幕府に攘夷を迫る。これを受けて将軍家茂が上洛することになり、容堂も将軍に付随して上洛を求められた。
文久3年(1863) 27歳
1月9日山内容堂は高輪の薩摩藩邸で大久保一蔵(利通)と会見。容堂が勤王の志(京都に己の屍を晒す覚悟)を語り、側近の乾(板垣)退助と小笠原唯八(牧野群馬)は涙を流して喜ぶ。1月10日退助は容堂を警護して江戸を出港し筑前黒田藩の大鵬丸(蒸気船)を借りて京都へ向かう。1月15日海路蒸気船が不調となり下田へ漂着。この時、勝海舟が容堂の宿所を訪ね、坂本龍馬の脱藩を許す事を請う。再出港し大坂に到着。京に上る途次の1月22日、容堂は池内大学を召して時事談義をするが、同晩、土佐勤王党の4人によって池内大学が暗殺される。池内の遺体は難波橋に梟首され、また両耳をそがれ公家の屋敷に投擲される。この行為に激怒した退助は今後、土佐勤王党が暗殺事件を起こした場合、その首領たる武市瑞山を真っ先に討伐すると宣言。2月12日武市が釈明のため退助に会うが、退助はその管理責任を問うて譲らず物別れとなる。土佐勤王党員が退助の暗殺を試みるが果せず(文久三年乾退助暗殺未遂事件)。
大楠公墓所へお参り
京都を出立して土佐への帰路の3月28日山内容堂、乾退助、小笠原唯八らは大楠公墓所(現・湊川神社)へお参りし勤皇を誓う。
退助、罷免される
土佐への帰路、退助は容堂に吉田東洋一派を藩の重職につかせないよう言上した。東洋の暗殺後、土佐は尊王攘夷派と寺村左膳らの門閥派の牛耳ることなり、旧吉田派は蚊帳の外に置かれていた。その為、旧吉田派を再び引き立てると、必ず東洋の仇を討とうして勤王派と軋轢が生じ藩の政局は混乱してしまうからという意見であった。ところが、4月12日、容堂公が土佐に帰ると、改革派(旧吉田派)の人々を登用して重職につかせ、4月26日、退助も勤王派として全役を解かれ失脚してしまう。
さらに6月、間崎哲馬が切腹(土勤王党の獄)7月 薩英戦争勃発と、次々と事が起こり、8月18日京都政変。土佐で勤王派が軒並み失脚した。
中岡慎太郎と武力討幕を誓う
8月18日、京都政変の後、8月下旬、中岡慎太郎が失脚中の退助を訪ね、未遂に終わった乾退助暗殺計画を吐露。肝胆相照らして互いに勤皇討幕に尽力することを誓う。その後、中岡慎太郎脱藩。退助は、10月4日、藩政に復帰し仕置役となる。この時の経緯は『維新史料編纂会講演速記録1』127頁に所収の『維新前夜経歴談』などに載せられている。以下その大意を抄録すると、

中岡慎太郎(京都・堀與兵衛撮影)
中岡慎太郎は退助に「…貴方(退助)は藩の重職を退かれた(罷免された)ご様子ですね。…もっとも私(中岡)などは何分、藩庁から蛇蠍のように敵視されていて、そもそも小役にも就けない有様で困っておりますが。そこでお伺いしたい。今の藩庁の実権は、何派の誰が握っているのでしょうか」と問うと退助は「その前に先ずは言いたいことがある。中岡君が今日、私の意見を聞きにきた。この意味は何か。私が失脚して、貴方(中岡)が訪ねて来たと云うことは、それによって、始めて土佐勤王党は私を信用する気になったからではないか。そこで一つ貴方にお尋ねせねばならぬが、貴方たちは京都で私(退助)を殺そうと狙っていた事(暗殺計画)があっただろう」と聞いた。中岡は慌てて「イエさう云
ふことはござりませぬ」と返したが、退助は「それはどうもけしからぬ。中岡君に似合わぬ婦女子の言であつて、真の志士たる者は、時としてこやつを殺してでも事を成し遂げんと思い、また、事を成し遂げんためには、こやつと共に死んでも良いと思う。それが本物の志士だ。そうであるのならば、何の遠慮も要らぬ。さきほどの言葉はどうも中岡君に似合はぬ。僕は余程失望した」と語つた。中岡は観念して「これはどうも心外のことで、如何にもその通り、あの時は貴殿(退助)を殺す積りでありました」と語つた。すると退助は喜んで「さう言つて呉れてこそ後の話が出来る。さうであつたらう。しかしながらどうも貴方がた(土佐勤王党)の遣り方といふものは実に野蛮だ。大坂では、容堂公と会談した池内大学を斬り、その首を難波橋に梟首にして晒し、また両耳をそいで、油紙に包み公家の屋敷に投擲した。これを見て喜んでいるのは一部の過激派であって、大多数からは勤王の名そのものを評判を害している。そして、それの行きつく先は、天皇陛下の権威を棄損することになるとは思わんのか?」と。すると中岡は急に神妙な顔になり、しばし黙してから「…それは実に悪うございました」とか細い声で震えながら語った。そして「これからは、斯くの如き手段は使わず、勤王の名に恥じぬよう国事に励みます。どうか是から共にやつて下さい」と心境を述べた。そこで退助は「宜しい。私も国に尽す上に於て、役を罷められたからからどう、役に就いたからどう、と云ふやうなことはない。素より共にやろう」と意気投合し、互いに将来の討幕を約した。その後、9月5日、中岡慎太郎は脱藩し言動を実行に移した。10月14日、退助は、藩の仕置役となり、藩政に復帰した。
文久4年/元治元年(1864) 28歳
7月、町奉行となる。8月、藩の大監察(大目付)に任ぜられ、後藤象二郎とともに容堂侯を補佐し、藩政運営の中核となる。藩論を武力討幕にまとめようとするが、後藤らの方針と対立して意見が容れられず。
元治2年/慶應元年(1865) 29歳
元治2年1月14日(1865年2月9日)、大監察を解かれ失脚。3月27日(1865年4月22日)、先の在職中、上士加増取調の件で「不念の儀」があったとして謹慎を命ぜられる。4月1日、謹慎が解かれ、江戸へ兵学修行へ出る。幕臣および他藩の士と交わって世の動静を察す。閏5月、土佐で武市瑞山が切腹。退助は江戸で瑞山の悲報に接す。
慶應2年(1866) 30歳
慶應2年1月21日(1866年3月7日)、薩長同盟が成立。5月13日、土佐藩より退助に学問および騎兵修行の許可が下りる。退助は幕臣の倉橋長門守、深尾政五郎より蘭式騎兵術を学ぶ。6月7日、第二次長州征伐が始まる。7月20日、德川家茂薨去。9月28日、騎兵修行の命が解かれる。11月江戸で薩摩藩士の吉井友実ら勤皇討幕を目指す諸士と秘かに交流す。12月5日德川慶喜が征夷大将軍に就任。12月25日孝明天皇崩御。
慶応3年(1867) 31歳
水戸浪士隠匿事件
慶応3年1月9日明治天皇践祚。2月、江戸築地の土佐藩邸へ 退助は水戸勤皇浪士(中村勇吉、相良総三、里見某氏ら)を独断で江戸築地の土佐藩邸に匿う(水戸浪士隠匿事件)。2月15日、島津久光の使者として西郷隆盛が土佐に来て山内容堂に謁す。5月1日、山内容堂が上洛して四賢侯会議に臨むが事態が紛糾する。
薩土討幕の密約
慶応3年5月13三日、京都の中岡慎太郎より退助に「至急上洛して事態を打開すべし」との急報を受け、水戸浪士の身柄を江戸の同志・山田喜久馬(平左衛門)、小笠原謙吉らに任せ江戸を出発。5月18日、京都に到着。東山の近安楼で中岡慎太郎らと討幕を議する。翌日、山内容堂に謁して武力討幕を言上せんとするが、病床を理由に目通り叶わず。5月21日、中岡慎太郎の仲介により薩摩藩 小松帯刀の寓居(薩長同盟が結ばれたのと同じ場所)で、小松帯刀、西郷隆盛、吉井幸輔らと、土佐藩乾(板垣)退助、谷守部(干城)らが武力討幕を議し、薩土討幕の密約を結ぶ。翌5月22日、容堂に築地藩邸の水戸勤王浪士隠匿も含めて、薩土討幕の密約の追認を得る。(同25日、薩摩藩側も重臣会議を開き、武力討幕で藩論を統一した)

中岡慎太郎の手紙
薩土討幕の密約の内容は、①薩摩、土佐の両藩は藩論を武力討幕に統一する。②薩摩が討幕挙兵を行った場合、土佐藩は参戦して薩摩藩と行動を共にする。③薩摩藩が討幕の挙兵を行った時に、まだ土佐藩が藩論を討幕に統一できていなかったとしても、乾退助が盟主となり一箇大隊を率いて、土佐藩を集団で脱藩し、30日以内に薩摩藩兵に加わる。④現在、土佐藩邸に退助が隠匿している水戸藩士は、いずれ有用の者(時がくれば役立つ者)であるため、時期を見計らって、薩摩藩に安全に身柄を引き渡し、討幕の兵に用いる。⑤この密約の内容を保証するために、退助自身は割腹する覚悟で臨み、中岡慎太郎が薩摩藩邸に人質として入り、履行できなければ慎太郎は自決する。というものであった。西郷は「愉快、愉快」と同意し、中岡慎太郎が薩摩藩邸に人質として入るには及ばない。退助の言葉を信頼するということになった。
この会合こそ実に明治維新の土台となったもので、後世の歴史家が「薩土討幕の密約(薩土武力討幕密盟)」と呼ぶものとなる。(これとは別に、一ヶ月後、6月22日(1867年7月23日)、坂本龍馬が仲介して大政奉還の為の同盟「薩土同盟」が結ばれている)
翌5月22日、容堂に築地藩邸の水戸勤王浪士隠匿も含めて、薩土討幕の密約の追認を得る。(同25日、薩摩藩側も重臣会議を開き、武力討幕で藩論を統一した)容堂侯は、いづれにせよ武力にて決する時が来ることを悟り、退助に軍令刷新を命じた。
退助は大坂で武器の調達を指示し、谷守部、中岡慎太郎らが米国製アルミニー銃300挺を、藩費で購入。退助は、武器を同船し容堂に伴って6月2日土佐に帰藩。6月13日、退助は藩の軍備御用兼帯大監察(大目付)に復職したが、6月22日、後藤象二郎、坂本龍馬らが、京都で薩摩藩と薩土盟約を結び一ヶ月遅れて帰国。大条理を唱え大政 奉還論を説く。(この時点で、土佐藩と薩摩藩は、性格の異なる軍事同盟を二重に結んでいる)
大政奉還は因循姑息の策
慶応3年7月8日、後藤象二郎が山内容堂へ「大政奉還」の策を進言し藩論を統一しようとしたが、退助はこの策を聞いて喜ばず、
今更、将軍の政権奉還などは因循姑息の策(旧来の方針を改めないまやかし)である。『大政返上』とは名は美なるも、結局のところ有名虚実にすぎない。今、朝廷が之によって天下に号令せんとするも、その実権が伴はなければ、真実、『大政を奉還した』とは云へぬ。徳川家はもと、家康公の時に馬上(合戦)で天下を取った者である。されば馬上(合戦)で之を斃して朝廷に奉るのでなければ、とても200有余年の覇政は覆へされぬ。無名の師はもとより、王者の与(く)みせぬところであるが、今日、幕府の罪悪は天地に満ちている。さるに敢然と討幕のことをしないで、空名を存するに務むるは甚だ誤りである。(乾退助)
と語り、「戦争で一旦作られた秩序は、再び戦争で打ち負かすことでしか覆すことが出来ない。これは古今東西の歴史が証明している」と容堂公に意見を述べたが、容堂公は「退助また過激の説(暴論)を吐くか」と相手にしなかった。結局、退助の意見は容れられず、7月13日、容堂公は大政奉還の建議を認可してしまうのである。
退助は、徳川家が実権をに掌握したままになってしまうことを最も警戒した。実際に、天皇陛下に実権が委ねられていなければ「大政奉還」とは名ばかりで、王政復古の大号令とはならないのである。徳川家が今まで200年余りも権勢を欲しいままにしてきたのは、合戦で勝ち得た権利であるから、この秩序を変えるには合戦をもってしなければならない。実態の無い、名ばかりのことをして喜ぶのは全くの間違いである」と。
(しかし、慶応3年10月3日(1867年10月29日)、寺村左膳、後藤象二郎らの主導により山内容堂を経て幕閣・板倉勝静に「大政奉還建白書」が幕閣に提出されることとなる)
土佐藩の軍制刷新
慶応3年7月13日、容堂は大政奉還の策を認可しながらも、7月17日銃隊設置を許可。退助は土佐で軍務のトップに立ち、軍制改革を断行。格別撰隊、徒士隊、足軽隊を組織。北條流弓隊を廃し銃砲隊を組織して近代式練兵を行う。さらに退助は7月24日、軍備御用その他兼帯の参政(仕置役)となるが、容堂は武力討幕を否定する考えに転じ、8月20日藩政を寺村左膳と後藤象二郎に任せた。
大政奉還派と武力討幕派のせめぎ合い
慶応3年8月20日(1867年9月17日)、退助はアメリカ視察を命ぜられる(実現せず)。この意図は、表向きは「南北戦争(1861-1865)での近代戦を学ばせるため」との名分であるが、実態は「大政奉還」に反対する退助を藩政から遠ざけるため、寺村や後藤によって仕組まれたものであった。
結局のところ、アメリカ視察は即日撤回されたが、退助は寺村左膳らにより、翌8月21日、全役職を剥奪され失脚させられる。しかし、9月3日京都で赤松小三郎が暗殺されると、薩摩側は思惑の違いから大政奉還論を遠避けて薩土盟約は破綻。9月6日この破綻を受けて退助が復職すると、獄中にいる土佐勤王党の安岡正美、島村雅事らを釈放させた。これにより退助は旧土佐勤王党300余名の支持を得る。
左行秀の裏切り
ところが、9月9日、江戸で退助と昵懇であった刀工豊永久左衛門(左行秀)が裏切り、「退助らが水戸浪士を藩邸内に隠匿している」と藩庁に密告。土佐勤王党の清岡公張(半四郎)らが退助の身を案じ、島村寿太郎(武市瑞山の妻・富子の弟)を通じて脱藩を勧めるが退助は「容堂公は(水戸浪士隠匿を)了承されている」と返答し脱藩を固辞。薩土討幕の密約の存在を知らない寺村左膳らは退助を切腹させようと目論み、これを容堂に報告するが、容堂は「余は(水戸浪士隠匿を)承知しておった」と語り、さらに「退助は過激な言動が多いものの、その心は純粋で少しの邪心もなく私利私欲の為に動いている男ではない」として不問に付された。
坂本龍馬の本心
慶応3年9月14日、退助の盟友・小笠原謙吉(牧野群馬の実弟)、別府彦九郎らが、江戸から上洛し京都藩邸内の寺村左膳、後藤象二郎らへ武力討幕を説得するが叶わず。9月24日坂本龍馬は、薩土討幕の密約に呼応してライフル銃1000丁を独断で購入し土佐に帰藩。藩の参政・渡辺弥久馬(斎藤利行)に対して「乾氏(板垣退助)はいかゞに候や。早々拜顔の上、万情申述度、一刻を争て奉急報候。謹言」と書簡を送り、「大政奉還の策は芝居であり、幕府の実権を解体し武力討幕を断行すべきが本策」である旨を告げようとするが果せず。(※これより4日前の9月20日には長州の木戸孝允に対して、大政奉還を「大芝居の一件」と自ら評し「小弟(坂本龍馬)思ふに是より(土佐に)かへり乾(板垣)退助に引合(ひきあい)置き、夫(それ)より上國(京都)に出候て後藤庄(象)次郎を國にかへすか、又は長崎へ出すかに可仕(つかまつる)べきと存申候」とその目的を伝える書簡を送っている)
土佐藩歩兵大隊司令を兼任
この頃になっても、大政奉還派と武力討幕派はせめぎ合いを続けていた。もっともこれは土佐藩のことばかりではなく、全国各藩も佐幕か勤王かで揺れ動き、朝令暮改が多くあった。慶応3年9月29日(1867年10月26日)、退助は、土佐藩歩兵大隊司令を兼任を命ぜらる。しかし、大政奉還論に舵を切った藩庁は、過激な論を吐く武力討幕派の退助を警戒し、慶応3年10月8日、退助は土佐藩歩兵大隊司令を解任される。
水戸浪士を薩摩藩邸移管
大政奉還論に舵を切った土佐藩にとって、退助が築地の邸内に隠匿していた水戸浪士が不要の存在となった。大政奉還派は土佐藩邸から追放しようとし、武力討幕派は安全に薩摩藩に引き渡したいと考え、奇しくも両者の利害が一致し、水戸浪士・中村勇吉、相楽総三、里見某氏らが率いる諸士は幕吏の目を盗んで、薩摩藩邸に移管された。(この浪士らがのちに幕府を挑発し、戊辰戦争の発端となる)
討幕の密勅と大政奉還
慶応3年10月13日、薩長両藩に「討幕の密勅」が下る。しかし、慶応3年10月14日(1867年11月9日)、第15代将軍・徳川慶喜が「大政奉還」を明治天皇に奏上し、翌15日、勅許されると「討幕の密勅」は決行を保留された。
脱藩を決意
「討幕密勅」の保留により、薩摩藩に移管された水戸浪士らが西郷の指揮のもと幕府を挑発を開始。この頃、幕府側・他藩の佐幕派にとっても「大政奉還」を反対し、その措置に憤懣甚しい思いを持つ者が現れ、日本国内は不穏な空気に包まれていた。
慶応3年10月19日(1867年11月14日)、「大政奉還」が勅許されたことにより、武力討幕を一貫して主張した退助は総ての役職を免ぜられ失脚。退助は失職したが、西郷との「薩兵が討幕の挙兵をした場合、一箇大隊を率いて加勢する」との約束を守るべく、「脱藩上書」を作り、その時に備えた。
此度、私共御下知に先だち、皇京の急難に趨き、御國の爲、死力を盡し候儀、聊も軽擧に相當らず可きと申すやに候得ども、根元 両殿様、宇内の形勢、御洞察あそばされ、先年ならび已來、尊攘の大義、時々御告諭おおせつけられ候を以て、義勇の御誠意、私供の心魂に相徹し、自然一箇敵愾の気と相成り候上は、今日に当り未だ出陣おおせつけられず候得ども、從來の御本意(※勤皇討幕)に相基づき、眼前の変動は今更とどまり難たく、やむをえず、暫時の御暇を願いたてまつり候。
抑も今日に至り、幕府の大罪は枚挙にいとまあらず候儀に相したため候。就いては、それの年 勅命、初めて幕府に下り候みぎり、奉違の二途に拠り、御去就をお定め思召しあそばされあらせられ候以來、追々世運に従ひ御動静も種々あらせられ候得ども、勤王の御誠意は前後とも御一貫にあらせられ候を以て、御國の御令聞、御美名赫々として親父母の如く仰望たてまつり、隨て御臣下の者共感喜踊躍相競ひ罷りあり候ところ、今日に至り候ても(※討幕)御実行の相顕われ申さず候を以て、漸く有名無実の御虚飾と相唱え候者もこれあり哉に承知致し候。
然に當今、幕府の逆炎、益々相募り、外夷に諂ひ、微弱の 朝廷を凌侮し、元悪大憝、苟くも 皇國の恩を知る者、扼腕切歯に不堪場合、薩州侯と仰せ合せられ御上京の上、 皇國の御基本に御立返り(※勤王)あそばされ候に付、必死の分を相盡し候様、以下まで拝承おおせつけられ、実を以て一同踊躍まかりあり候ところ、不計も御病症の御発動あらせられ、やむを得ず御帰國あそばされ候に付、彼藩に於ても一同落膽仕り候趣。剰へ御側の姦吏の所爲にも候哉。薩侯、御内談の事ども、会藩(※会津藩)へ漏れ候事件もこれあり候趣を以て、彼藩(※薩摩藩)の者ども御國(※土佐藩)を指し、反覆(※裏切り者)と相唱へ候趣、内々相聞へ候。然るに後藤象二郎、大政奉還の儀を相唱へ、彼藩と盟約の趣を以て、尚又、思召し伺いたてまつり候処、御別慮なされず、再び御懸合に相成り候趣に候得ども、「有文事者必有武備」の定理をも相辨へず、口舌を主張し、一兵をも率ゐず、且、前議と齟齬の筋もこれありを以て、彼藩疑念相蓄へ、差迫り候密事も相謀り申さず、進退、維に至り候趣、勿論、象二郎に於ては頓着これなきに候得ども、堂々たる大國、互ひに大事を謀り、有始無終の謗りを受け候様に相成り候ては、祖宗千載の御瑕瑾に相成り、両殿様の御意外の御恥辱と存入、私供、死生を顧みず、乍恐是迄の御志を継ぎ、違 勅の幕臣(※德川慶喜)を払ひ、一度 今上之御宸襟を奉安候功業を以て、両殿様、御恩澤の萬に一を報じたてまつりたく、又、志を貫き申さざる節は、一切の悪名、私供が甘受つかまつり、御國(※土佐藩)将來の御迷惑は決して相懸け申さず、赤心存じ入り候処、神明に誓ひ聊か虚辞これ無き候に付、千萬格別の御仁恕を以て、右、件之通り暫時之御暇、一同願いたてまつり候。
— 乾退助
坂本龍馬、中岡慎太郎が逝く
慶応3年11月15日(1867年12月10日)、勤皇の同志である坂本龍馬、中岡慎太郎らが京都で暗殺される。大政奉還のその後の措置に不満を持つ者たちの犯行であった。
坂本龍馬が亡くなったのは11月15日で、翌日に藤吉が逝き、その2日後の11月17日に中岡慎太郎は歿した。慎太郎は、将来のことを、いろいろ言い遺し、特にこの時、土佐の国許にいた退助に対しては「御承知の如く、癸丑以来、天下の有志輩に婦女子同様なりと嘲弄されし関東武士の中にも、現に此度の刺客の如き非常の決断をなす者、出で来る程の時勢に候へば、本藩に於てもゆめゆめ御油断あるべからず」と申し送らせた。この時、両雄を暗殺したのは新撰組の浪士であろうと噂された。
王政復古の大号令
慶応3年12月5日、山内容堂は失脚した退助を土佐に残し、藩兵を率いて発駕。7日海路大坂に到着。
8日京都に到着し警固につく。
12月9日(1868年1月3日)、王政復古の大号令が発せられる。