失われつつある清貧の心

失われつつある清貧の心
     曾孫・尾崎正


甲斐・武田信玄の重臣筆頭・板垣信方(別に駿河守と称す)より数えて十一代目にあたる乾正成(土佐藩・馬廻役、三百石)の嫡男が板垣退助である。退助はもと乾姓を名乗り戊辰戦争の時に旧名に復した。この時、土佐迅衝隊を率いて勲功があり一躍名を挙げる。その東征の途上、日光東照宮を尊重して、因州鳥取藩兵が焼討ちも持さずとの強攻論を抑止。兵火による焼失から守った。その功績を讃え、日光神橋脇に銅像が建立された。その姿は国会議事堂、高知城、岐阜公園に建つ憲政期のものと異なり、若き戊辰戦争当時の雄姿となっている。

明治維新後は、土佐立志社を中心とする「自由民権運動」のリーダーとして本邦初の政党「自由党」を結成し、総理に就任した。明治十五年、全国遊説の途次、岐阜で刺客の兇刃がため暗殺されんとした際「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだ言葉が有名。このとき駆けつけ手当をした医師は、後に東京市長となる若き日の後藤新平であった。

大東亜戦争終戦の後、暫時廃止された華族制度は、伊藤博文が英国の貴族制度を見習って我が国に導入せられたものであるが、退助は、その世襲が特権階級の再構築となるならば、維新の理念に反するものとして、綬爵を二度までも辞退した。しかして勅許あらせ賜わず、三顧の礼を諭す人があって伯爵の位を綬爵するに至ったが、もとより一君万民・四民平等の理念を主張して止まず『一代華族論』を著し、世に問うたのである。大正八年七月十六日薨去。享年八十有三歳。遺言によってわが父守正は爵位を返上しその遺志を貫いた。

近代化による新たな価値観と引き替えに、古き良き武士道精神は急激に廃れ、栄華を享受し新たな特権階級となることを憚らなかった維新の元勲たちがいた中で、清貧に甘んじ、自らの信念を貫き生きた清廉潔白の人であった。

先の大戦による敗戦の結果、我々は国土の荒廃を復興すべく、経済成長を最優先課題として努力をした結果、日本は稀にみる大躍進を遂げたが、一方、失ったものも多く、「清貧」という無私の心は我々が全く省みなくなってしまったものではないだろうか。物・金 中心の価値観が横行するようになって久しい。その挙句、日本社会の美風である、倫理・礼節・人情などの精神が失われつつある現今の社会風潮は、何とも嘆かわしく、見るに忍びないものがある。板垣退助のように、今日、社会各層の要職に在る者たちには、所謂「ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)」を果たすべく、無私に徹した身の処し方を心掛けて欲しいものである。

今にして品性・人格を尊重する価値観を取り戻し、人倫・社会・国家それぞれ襟を正さなければ、此の国の将来に明るい展望は得られないと思う。同時に晩年に至った我々には後に続く若い人たち居ることを忘れてはならない。かく次世代の人たちの未来を案ずるとき、私たちは日本人と日本社会に、良心と聡明さを伴った自浄能力があることを確信し、必ずや我が国が国際社会で、より高い信頼と尊敬を得られ日が訪れることを期待し切望して已まない次第である。


(尾崎正『東京府立一中(旧制中学校五年制・現 都立日比谷高校)昭和十四年入学同期会・傘壽記念号』掲載前原稿より抄録)
※尾崎正は、今幡西衛の媒酌によって板垣家より尾崎家へ養子

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