板垣退助-清廉潔白にして信念の人-
孫・板垣正貫夫人板垣晶子
幕末、戊辰戦争に際し、祖父は官軍・東山道先鋒総督府参謀を拝命。東征の途上、先祖の故地甲府を目指して進軍する中で、武運長久を願い、三百二十年前に討死した先祖・板垣駿河守信方の名にあやかって復姓し板垣退助と名乗りました。
祖父の生き方は、すべて武士道精神に端を発しているように思われます。寝室では真白な羽二重の布団で休み、枕の下には帯刀が置かれ、万一の刺客に備えて警戒を怠りませんでした。長女は兵子、次女は軍子、長男は鉾太郎、さらに次男は正士と命名しております。
その生活は財産物資に拘泥せず、すべてに潔く自己の所信を貫いて来たのは、その血がなせる業ではないでしょうか。ただ維新の傑出した方々のように経済的に辛酸をなめて出世したのとはひと味異なり、武士の家に生れ、生活の苦労を知らずに育った祖父は無類の正直者でお人好しであり、それが長所でもあり欠点でもあったような気がいたします。
そんな祖父が明治十五年、仏国憲法の研究を主目的としてフランスへ外遊した際の洋行費のことで非常に立腹した一件がございます。世上では、今なお洋行費の出所について何かやかましく、清廉潔白に終始した祖父のただ一つに汚点のように誤り伝えられていることが残念でなりません。当時、財界との癒着を嫌悪した祖父は、奈良の山林王・土倉庄三郎からの援助で洋行できたのですが、財界より金品を受領したのではないかという噂に尾鰭が付いて一波万波を呼び、自由党総裁の辞職を党員より突きつけられるという険悪な状態に陥ったのです。これに激怒した祖父は、「もし自分が不正をしていたならば、この場で割腹する。しかし、指摘が誤りであった場合は提議者が切腹せよ」と対決を迫るに至ったのでした。さしもの提議者もその剣幕に驚き、秘かに再調査した結果、自己の非を認めたというのが真相です。現代の価値観と比べることは出来ませんが、政治家として切腹してまで潔白でありたいという姿勢はとても大切ではないかと思います。
祖父のこのような姿勢は、一生涯変わりませんでした。裕福であった先祖の財産はすべて政治に費やし、最後は自分の家も別荘も何一つ残らず、貧乏の代名詞になった政治家でありました。『一代華族論』もそんな祖父の姿勢を象徴するものです。爵位(伯爵)の授与を辞退し続ける頑固な祖父に、畏くもご叡慮あらせられた明治天皇におかせられましては、その爵位拝辞の書状を勅許されませんでした。祖父はご叡慮に感涙、ついに一代限りの爵位として拝受し、祖父身罷りこれを返上その遺志を貫きました。
現在、祖父に縁の深い高知城、岐阜公園、青梅市、日光市、そして国会議事堂の五カ所に銅像がございます(衆議院憲政記念館の胸像を加えると六カ所)。なかでも日光市のものはとても嬉しく思っております。
それは戊辰戦争の折、日光の山に籠る敵将・大鳥圭介に、「徳川家の祖廟を守る心情があるならば速やかに山を降り、野に出て勝敗を決しよう」と呼びかけ、東照宮を戦火から救ったことに対し、地元の人々が感謝の念を表したものだからです。私どもは今なお日光東照宮と親しくおつきあいをいたしております。
祖父身罷りましてより六十有余年、祖父の遺品の多くを収めておりました高知の板垣会館は、南海大空襲で灰燼に帰し、また東京でも度重なる戦災やその他の事情によって、散逸してしまった、貴重な遺品が幾多もございましたが、古来、「人は死して名を残す」といわれます。祖父を思うとき、真にこの言葉がぴったりいたします。物は失われても折にふれ人々の口の端に、また活字として有形無形に語られることを只々有難くもまた驚嘆しております。