清貧に甘んじた古武士-板垣退助を語る
曾孫・板垣退太郎
退助は自由民権の祖と言われるが、その発端は、会津落城を目前にして、兵のみ頑強でも農工商を軽薄にあつかったむくいで平民皆四散して城を助けるものなく、わずか一ヶ月で落城したことに、深く政治を改める必要を痛感し、ここに四民平等の思想が萌芽したのである。
しかし、退助の一君万民・四民平等の思想は、士農工商と区別されていた諸階級に、みな等しく愛国心を養い、士分の精神に向上させることを目的としていたもので、今日のような精神不在の自由平等ではなく、まさに「武士道」をその根本に置いたものであった。
その精神は終生変わらず、大正3年(1914)軍艦購入にさいして軍人がコミッションを受けたシーメンス事件に、退助は大いに失望し、農工商を引きあげてことごとく士とする考えであったのに「今日すべてなり下って何事ならん。こんなことならむしろ士のみ残しておくべきであったか」と側近に語ったという。
ところで、退助のもっとも尊敬できる点は、一片の私心なく、無類の正直者であったことである。
男子ひとたび政治を志した以上、一人の夫、一人の父ではなく、国家国民が我が家、我が子であるして、一切の御下賜金・寄付金を私物化せず、皆国民に与え、あまつさえ先祖代々の武家屋敷は寺院に寄付し、その他の土地も公共の用に供したのである。そして自ら居住する屋敷は、竹内代議士の寄贈によったものであるが、その荒廃は目をおおうばかりで、訪れた外国の使臣も見かねて応接間を寄贈したと言うし、二十数部屋ことごとく雨もりし、下盥まで雨受けに使用する有様で、電話などが取りはらわれるのは再々のことで、まったく板垣は貧乏の代名詞と言うにふさわしいものであった。
我が祖先ではあるが、一人の人物としてみた時、終始一貫、名利を追わず、俗権に屈せず、清貧に甘んじ、まこと古武士の風格をもった退助の生涯は高く評価されて然るべきであると思われる。とりわけ昨今、政治を志す人は、退助の政治姿勢に学ぶべきではなかろうか。願わくば第二の板垣退助出でよと切に念ずるものである。