3.討幕活動期
文久元年(1861) 25歳
10月25日、御納戸方江戸へ差立て(転勤)られ、軍備庶務掌理(土佐藩江戸藩邸の会計・軍事係)となる。この年、江戸留守並びに御内用役となる。
文久2年(1862) 26歳
山内容堂侯の側用人となる
山内容堂(江戸時代撮影)
品川の鮫洲に幽居していた前藩主・山内容堂侯の側用人となり、土佐藩江戸藩邸の総裁をつとめる。
吉田東洋が暗殺される
4月8日(1862年5月6日)、退助が江戸滞在中、国元の土佐では吉田東洋が土佐勤王党員に暗殺される事件が起きた。
土佐勤王党・間崎哲馬と交わる
9月、この頃退助は、江戸で土佐勤王党の知謀として活躍していた間崎哲馬(滄浪, 1834-1863)と連絡を取りあっていた。
間崎は、土佐藩の田野学館で教鞭をとり、のち高知城下の江の口村に私塾を構えた。教え子には中岡慎太郎、吉村虎太郎などがいた。
愈御勇健御座成され恐賀の至に奉存候。然者別封、封のまま御内密にて御前へ御差上げ仰付けられたく偏に奉願候。参上にて願ひ奉る筈に御座候處、憚りながら両三日又脚病、更に歩行相調(あいととの)ひ申さず、然るに右別封の儀は一刻も早く差上げ奉り度き心願に御座候ゆへ、至極恐れ多くは存じ奉り候へども、書中を以て願ひ奉り候間、左様御容赦仰付けられ度く、且此義に限り御同志の御方へも御他言御断り申上げ度く、其外種々貴意を得奉り度き事も御座候へども、紙面且つ人傳てにては申上げ難く、いづれ全快の上は即日参上、萬々申上ぐべくと奉存候。不宣。
九月十七日 間崎哲馬
乾退助様
別封の書面で、勤皇に関する重要人物からの機密事項が退助のもとへ送られたと考えられる。
翌年、間崎哲馬は、勤皇派が中心となって土佐藩の藩政改革を行うために、青蓮院宮尊融親王(中川宮朝彦親王)の令旨を奉拝せんとし、文久2年(1862)12月、青蓮院宮から令旨を得たが、これが「逆に不遜である」と山内容堂の逆鱗にふれ、文久3(1863)年6月8日、平井収二郎、弘瀬健太と共に間崎哲馬は切腹して果てることになる。間崎哲馬の門人が、中岡慎太郎、吉村虎太郎たちである。
尊皇攘夷派の人物と交わる
10月、この頃退助は「時勢之議論に打傾き、頻(すこぶる)に外藩人(他藩の藩士)と出会致し、攘夷論を唱へ候者を信用し、御上(藩主)へも時々言上致候」(『寺村左膳道成日記(1)』文久2年10月14日條、63頁)とあるように他藩の人々と時勢を論じ、思想的には「尊皇攘夷」を唱えていた。この日記を書いた寺村道成は、門閥派(佐幕派)の中心人物で、退助とは対極の考え方にあった。
文久3年(1863) 27歳
1月15日、藩主に従って上洛。
退助、罷免される
容堂公が土佐に帰国するにあたって、退助は容堂公に土佐に帰っても改革派(旧吉田派)は用いないで欲しいと願い出た。東洋の暗殺後、土佐は尊王攘夷派と門閥派(佐幕派)の牛耳ることなり、旧吉田派は蚊帳の外に置かれていた。その為、旧吉田派を再び引き立てると、必ず東洋の仇を討とうして勤王派と軋轢が生じ藩は支離滅裂な状態になってしまうからであるからという意見であった。ところが、4月12日(1863年5月29日)、容堂公が土佐に帰ると、改革派(旧吉田派)の人々を登用し始め、退助はかえって罷免されてしまった。
中岡慎太郎と武力討幕を誓う
8月18日、京都政変の後、中岡慎太郎が退助邸を訪問した。その時の様子は「維新史料編纂会講演速記録1」127頁に所収の『維新前夜経歴談』などに載せられている。
中岡慎太郎(京都・堀與兵衛撮影)
以下大意を抄録すると、中岡慎太郎が退助に「…貴所は役を罷められた様子であるが、私など何分、君敵(藩から敵対視され)のやうに言はれて用ゐられぬ。
甚だ困つて居るが、一つ此処で御意見を伺ひたいが、どうでございませう」と問えば「中岡君、今日は私の言が行はれやうかと思ふ。といふのは、私が役を罷めたからといふて、貴所が訪ねて来られたといふことは、始めて私に信用を置かれた様に思ふ。一つ貴所にお尋ねせにやならぬが、貴所は私を京都で殺す積りであつたらう」と退助が云ふ。
中岡は慌てて「イエさう云ふことはござりませぬ」と返したが、
退助は「それはどうも怪しからぬ。中岡君に似合わぬ女々しい話であつて、大丈夫の事を談ずる。時として殺さうと思ひ、又、共にしやうと思ふ、何の遠慮が要る訳はない。どうも中岡君に似合はぬ。僕は余程失望した」と語つた。中岡は観念して「これはどうも心外のことで、如何にも其の通、殺す積りでございました」と語つた。すると退助は喜んで「さう言つて呉れてこそ後の話が出来る。さうであつたらう。しかしながらどうも貴所などの遣り方といふものは実に甚だしい(極端である)。大坂では誰々を殺し、又、容堂公の酒の伽(とぎ)に出た者を斬るの、腐つたやうな首を持つて来て脅かすのといふことは、何といふことだ」、「それは実に悪うございました。どうぞ是から共にやつて下さい」、「宜しい。私も国に尽す上に於て、役を罷められたからからどう、役に就いたからどう、と云ふやうなことはない。素より共に遣らう」と意気投合し、互いに将来の討幕を約した。その後、9月5日、中岡慎太郎は脱藩し言動を実行に移した。
退助、復職す
10月14日、退助は、藩の仕置役となる。
文久4年/元治元年(1864) 28歳
7月、町奉行となる。8月、藩の大監察(大目付)に任ぜられ、後藤象二郎とともに容堂侯を補佐し、藩政運営の中核となるが藩の方針と対立して意見が容れられず。
元治2年/慶應元年(1665) 29歳
元治2年1月14日(1865年2月9日)、すべての役職を免ぜられ、大監察を辞す。
元治2年3月27日(1865年4月22日)、先の在職中、上士加増取調の件で「不念の儀」があったとして謹慎を命ぜられる。
兵学修行のため江戸へ
元治2年4月1日、謹慎が解かれ、江戸へ兵学修行へ出る。幕臣および他藩の士と交わって世の動静を察す。
退助、江戸で瑞山の訃報に接する
元治2年閏5月、武市瑞山が切腹を命ぜられる。退助、江戸で瑞山の悲報に接する。
慶應2年(1666) 30歳
慶應2年1月21日(1866年3月7日)、薩長同盟が成立。
慶應2年5月13日(1866年6月25日)、藩庁より、学問および騎兵修行の為、引続き江戸に滞留することの許可が下りる。
慶應2年6月7日(1866年7月18日)、第二次長州征伐が始まる。
慶應2年9月28日(1866年11月5日)、騎兵修行の命が解かれる。
慶応3年(1867) 31歳
水戸浪士隠匿事件
2月、江戸築地の土佐藩邸へ勤皇の水戸浪士・中村勇吉、相良総三らを匿う。当時、土佐藩内は、佐幕派のものが多かったにも関わらず、危険を顧みず藩主に報告せず退助の独断で、彼らをかくまい討幕の機の熟するを待った。これが世に言う「水戸浪士隠匿事件」である。
薩土討幕の密約
5月、退助は、薩長が同盟を組んだことを知り、後事を江戸の同志・山田喜久馬(山田平左衛門)、小笠原謙吉等に託して決死の覚悟で京都に上り、折りから入洛中の山内容堂侯に「薩長と連合して武力討幕に藩の命運を賭けるべきである」と言上したが聞き入れられなかった。
中岡慎太郎の手紙
退助は一旦、容堂侯を説得するの保留。土佐藩の勤皇の志を持つ者たちと糾合し、「脱藩してでも薩長土が連合して討幕を成就する事」を決し、中岡慎太郎の斡旋により中岡と共に5月21日(1867年6月23日)夕、薩摩藩士・小松帯刀邸を訪れ、乾退助、中岡慎太郎、谷干城、西郷隆盛、小松帯刀、吉井幸輔等と会合。討幕の合戦の火蓋が切られれば、藩論の如何に関わらず土佐藩が討幕挙兵に参戦をする事を約束した。
この会合こそ実に明治維新の土台となったものであって、後世の歴史家が「薩土討幕の密約(薩土武力倒幕密盟)」と呼ぶものである。
(これとは別に、一ヶ月後、6月22日(1867年7月23日)、坂本龍馬が仲介して大政奉還の為の同盟「薩土同盟」が結ばれた)
5月22日(1867年6月24日)、退助は「薩土討幕の密約」を結んだことを容堂侯に報告。
さらに江戸藩邸に勤皇浪士をかくまっていることを報告し、最早、土佐藩の命運は勤皇に就くしか道はないと言上する。容堂侯は態度を保留したが、いづれにせよ武力にて決する時が来ることを悟り、退助に軍令刷新を命じた。
退助は直ちに大坂にいで「アルミニー」銃300挺を購入して土佐に帰藩。小笠原唯八と共に同志を募ると、たちまちにして勤皇同志ら300人が盟に加わり腕を扼して武力討幕の火蓋が切られるのを待った。
脱藩を決意
藩内には依然として佐幕派もおり、特に藩の上士と呼ばれる人々に多かったため、退助は、表沙汰となった時に藩に迷惑のかからぬよう「脱藩上書」を作ってその準備を整えた。
土佐藩の軍令改革を行う
しかし、土佐藩は逆に正式に退助を藩の軍令改革の主導者として抜擢し、大監察(大目付)として、土佐藩軍備総裁に任じた。よって退助は、大いに兵制を改革し、北條流弓隊を廃止して、新たに銃隊を作って武力討幕の時に備えた。
大政奉還についての意見
7月8日、後藤象二郎が山内容堂公へ「大政奉還」の策を進言した時、退助はこの策を聞いて喜ばず、
今更、将軍の政権奉還などは因循姑息の策(旧来の方針を改めないまやかし)である。『大政返上』は名は美なるも、畢竟空名(有名虚実)にすぎぬ。今、朝廷が之によって天下に号令せんとするも、実権が伴はなければ、真実、『大政を奉還した』とは云へぬ。徳川家はもと、家康公の時に馬上(合戦)で天下を取った者である。されば馬上(合戦)で之を返して朝廷に奉る上でなければ、とても200有余年の覇政は覆へされぬ。無名の師はもとより、王者の与(く)みせぬところであるが、今日、幕府の罪悪は天地に満ちている。さるに敢然と討幕のことをしないで、空名を存するに務むるは誤見である。(乾退助)
と容堂公に意見を述べたが、退助の議は入れられず、7月13日、容堂公は大政奉還の建議を認可した。
退助は、徳川家が実権をにぎったままになってしまうことを最も警戒した。「実際に、天皇陛下に実権が委ねられていなければ、「大政奉還」とは名ばかりで、王政復古の大号令とはならないのである。徳川家が今まで200年余りも権勢を欲しいままにしてきたのは、合戦で勝ち得た権利であるから、この秩序を変えるには合戦をもってしなければならない。名ばかりのことをして喜ぶのは全くの間違いである」と。
しかし結局、慶応3年10月3日(1867年10月29日)、後藤象二郎らの主導により山内容堂公を経て、「大政奉還建白書」が幕閣に提出されることとなる。
アメリカ留学を命ぜられる
慶応3年8月20日(1867年9月17日)、アメリカ留学を命ぜられる(実現せず)。アメリカ留学を命ぜられた意図は、「南北戦争(1861-1865)での近代戦を学ばせるため」であるとも、「大政奉還」に邪魔となる退助を藩政から遠ざけてしまうためとも言われる。
土佐藩歩兵大隊司令を兼任
慶応3年9月29日(1867年10月26日)、新たに土佐藩歩兵大隊司令を兼任を命ぜらる。
歩兵大隊司令を解任される
慶応3年10月8日(1867年11月3日)、武力討幕に関する言動を警戒され、土佐藩歩兵大隊司令を解任される。
薩長両藩に「討幕の密勅」が下る
慶応3年10月13日(1867年11月8日)、薩長両藩に「討幕の密勅」が下る。
「大政奉還」が勅許せらる
慶応3年10月14日(1867年11月9日)、第15代将軍・徳川慶喜が「大政奉還」を明治天皇に奏上し、翌15日に天皇が奏上が勅許された。
退助失脚する
慶応3年10月19日(1867年11月14日)、「大政奉還」が勅許されたことにより、武力討幕を一貫して主張した退助は総ての役職を免ぜられ失脚する。
また一方、藩外では佐幕派側にとっても「大政奉還」のその後の措置に不満を持ち憤懣甚しく、不穏な空気が世間を取り巻いていた。
中岡慎太郎、坂本龍馬が逝く
慶応3年11月15日(1867年12月10日)、勤皇の同志である中岡慎太郎、坂本龍馬らが大政奉還のその後の措置に不満を持つ佐幕派の刺客に暗殺される。
坂本龍馬が亡くなったのは11月15日で、翌日に藤吉が逝き、中岡慎太郎はその2日後の11月17日だった。慎太郎は、将来のことを、何呉となく遺言し、特にこの時、土佐にいた退助に対しては「御承知の如く、癸丑以来、天下の有志輩に婦女子同様なりと嘲弄されし関東武士の中にも、現に此度の刺客の如き非常の決断をなす者、出で来る程の時勢に候へば、本藩に於てもゆめゆめ御油断あるべからず」と申し送らせた。この時、両雄を暗殺したのは新撰組の浪士であろうと噂された。
王政復古の大号令
慶応3年12月9日(1868年1月3日)、王政復古の大号令が発せられる。