7.大坪流馬術

板垣退助は、はじめ大坪流馬術・馬工郎(馬喰)乗りを学ぶ。その後、要馬術(ようばじゅつ)を学んだ。要馬術とは鞍上で槍刀を使用し、かつ敵騎と組打ちを行うもの。

8.源家古流「調息流」馬術

馬を疲れさせず、遠駆けさせる馬術で、のちに西洋式騎兵隊創設にこの素養が役に立ったと言われる。

 

『田村久井談話筆記』によれば、明治初年に騎兵を置いたのは幕府(静岡藩)、紀州藩、土佐藩のみで、のちに桂太郎が陸軍次官の時、板垣に面会し土佐騎兵編成の時のことを尋ねた時「土佐は三面山を負い他国より侵入を受くる事容易なれば、国境に騎兵を置き伝令などに必要なれば国に事あらんと察し、斯く早く置きたり」と答えている。その数は最初、三十騎ばかりであったが、要馬術を訓練させたためその動作は甚だ優れていたという。

 

明治4年(1871)、薩摩、長州、土佐へ御親兵要請(近衛師団の前身)の際、騎兵の献上が出来たのは土佐藩だけで、板垣の功績によるものが多い。

9.オランダ式騎兵術

板垣退助は、元治2年(1864)4月、江戸へ兵学修行へ出て、江戸で幕臣・倉橋長門守(騎兵頭)や深尾政五郎(騎兵指図役頭取)からオランダ式騎兵術を学んだ。はじめは私費で留学し、慶応元年(1865)1月14日から藩費での留学となった。

 

オランダ式と云っても当時、ヨーロッパではナポレン流軍学に基づくフランス式が盛んでそれをオランダ語に翻訳したものが、長崎の出島経由で日本にもたらされたもの。

 

幕府は、慶応3年(1867)シャルル・シャノワーヌ大尉らを軍事顧問に招聘し、兵制をフランス式に変更するが、退助が江戸で学んだ頃は、オランダ式であった。兵制変更は、用語がオランダ語からフランス語に変った程度で大きな混乱はなかったといわれる。

清廉潔白にして信念の人

板垣退助-清廉潔白にして信念の人- 孫・板垣正貫夫人板垣晶子
板垣家の遠祖・板垣駿河守信方は武田信玄の傅役であり、武田家二十四武将の総大将として「知将」と謳われた人物です。甲府の在には板垣村、茅野には板垣館跡の板垣平、討死した信州上田には板垣神社が今でも残っています。信方が上田原で討死した後、嫡子・板垣信憲が跡を継ぎますが間もなく、ゆえあって改易。信憲の遺児・正信は、老臣らに養せられ、後に掛川で乾和三という侍を介して、山内家に仕えました。この乾和三が、山内家の家老で、正信はその姓を許され乾正信と名乗り、関ヶ原合戦の後、土佐に移って代を重ね祖父に至りました。 幕末、戊辰戦争に際し、祖父は官軍・東山道先鋒総督府参謀を拝命。東征の途上、先祖の故地甲府を目指して進軍する中で、武運長久を願い、三百二十年前に討死した先祖・板垣駿河守信方の名にあやかって復姓し板垣退助と名乗りました。 祖父の生き方は、すべて武士道精神に端を発しているように思われます。寝室では真白な羽二重の布団で休み、枕の下には帯刀が置かれ、万一の刺客に備えて警戒を怠りませんでした。長女は兵子、次女は軍子、長男は鉾太郎、さらに次男は正士と命名しております。 その生活は財産物資に拘泥せず、すべてに潔く自己の所信を貫いて来たのは、その血がなせる業ではないでしょうか。ただ維新の傑出した方々のように経済的に辛酸をなめて出世したのとはひと味異なり、武士の家に生れ、生活の苦労を知らずに育った祖父は無類の正直者でお人好しであり、それが長所でもあり欠点でもあったような気がいたします。 そんな祖父が明治十五年、仏国憲法の研究を主目的としてフランスへ外遊した際の洋行費のことで非常に立腹した一件がございます。世上では、今なお洋行費の出所について何かやかましく、清廉潔白に終始した祖父のただ一つに汚点のように誤り伝えられていることが残念でなりません。当時、財界との癒着を嫌悪した祖父は、奈良の山林王・土倉庄三郎からの援助で洋行できたのですが、財界より金品を受領したのではないかという噂に尾鰭が付いて一波万波を呼び、自由党総裁の辞職を党員より突きつけられるという険悪な状態に陥ったのです。これに激怒した祖父は、「もし自分が不正をしていたならば、この場で割腹する。しかし、指摘が誤りであった場合は提議者が切腹せよ」と対決を迫るに至ったのでした。さしもの提議者もその剣幕に驚き、秘かに再調査した結果、自己の非を認めたというのが真相です。現代の価値観と比べることは出来ませんが、政治家として切腹してまで潔白でありたいという姿勢はとても大切ではないかと思います。 祖父のこのような姿勢は、一生涯変わりませんでした。裕福であった先祖の財産はすべて政治に費やし、最後は自分の家も別荘も何一つ残らず、貧乏の代名詞になった政治家でありました。『一代華族論』もそんな祖父の姿勢を象徴するものです。爵位(伯爵)の授与を辞退し続ける頑固な祖父に、畏くもご叡慮あらせられた明治天皇におかせられましては、その爵位拝辞の書状を勅許されませんでした。祖父はご叡慮に感涙、ついに一代限りの爵位として拝受し、祖父身罷りこれを返上その遺志を貫きました。 現在、祖父に縁の深い高知城、岐阜公園、青梅市、日光市、そして国会議事堂の五カ所に銅像がございます(衆議院憲政記念館の胸像を加えると六カ所)。なかでも日光市のものはとても嬉しく思っております。 それは戊辰戦争の折、日光の山に籠る敵将・大鳥圭介に、「徳川家の祖廟を守る心情があるならば速やかに山を降り、野に出て勝敗を決しよう」と呼びかけ、東照宮を戦火から救ったことに対し、地元の人々が感謝の念を表したものだからです。私どもは今なお日光東照宮と親しくおつきあいをいたしております。 祖父身罷りましてより六十有余年、祖父の遺品の多くを収めておりました高知の板垣会館は、南海大空襲で灰燼に帰し、また東京でも度重なる戦災やその他の事情によって、散逸してしまった、貴重な遺品が幾多もございましたが、古来、「人は死して名を残す」といわれます。祖父を思うとき、真にこの言葉がぴったりいたします。物は失われても折にふれ人々の口の端に、また活字として有形無形に語られることを只々有難くもまた驚嘆しております。
(昭和59年(1984)8月板垣晶子筆記) ※板垣正貫は守正の実弟。板垣守正隠居の後、弟正貫が家督を相続した。

清貧に甘んじた古武士

清貧に甘んじた古武士-板垣退助を語る          曾孫・板垣退太郎
板垣退助は、武田信玄の知将とうたわれた板垣駿河守信方に端を発し、約380年余も連綿と続いてきた武士階級の出である。31歳で官軍の総大将となって戊辰の役に活躍したことは有名であるが、この戦乱の時代にもうけた子女に、長女兵子、次女軍子、長男鉾太郎、次男正士と命名したので知られるが如く、時代の背景と退助の趣向が偲ばれる。 退助は自由民権の祖と言われるが、その発端は、会津落城を目前にして、兵のみ頑強でも農工商を軽薄にあつかったむくいで平民皆四散して城を助けるものなく、わずか一ヶ月で落城したことに、深く政治を改める必要を痛感し、ここに四民平等の思想が萌芽したのである。 しかし、退助の一君万民・四民平等の思想は、士農工商と区別されていた諸階級に、みな等しく愛国心を養い、士分の精神に向上させることを目的としていたもので、今日のような精神不在の自由平等ではなく、まさに「武士道」をその根本に置いたものであった。 その精神は終生変わらず、大正3年(1914)軍艦購入にさいして軍人がコミッションを受けたシーメンス事件に、退助は大いに失望し、農工商を引きあげてことごとく士とする考えであったのに「今日すべてなり下って何事ならん。こんなことならむしろ士のみ残しておくべきであったか」と側近に語ったという。 ところで、退助のもっとも尊敬できる点は、一片の私心なく、無類の正直者であったことである。 男子ひとたび政治を志した以上、一人の夫、一人の父ではなく、国家国民が我が家、我が子であるして、一切の御下賜金・寄付金を私物化せず、皆国民に与え、あまつさえ先祖代々の武家屋敷は寺院に寄付し、その他の土地も公共の用に供したのである。そして自ら居住する屋敷は、竹内代議士の寄贈によったものであるが、その荒廃は目をおおうばかりで、訪れた外国の使臣も見かねて応接間を寄贈したと言うし、二十数部屋ことごとく雨もりし、下盥まで雨受けに使用する有様で、電話などが取りはらわれるのは再々のことで、まったく板垣は貧乏の代名詞と言うにふさわしいものであった。 我が祖先ではあるが、一人の人物としてみた時、終始一貫、名利を追わず、俗権に屈せず、清貧に甘んじ、まこと古武士の風格をもった退助の生涯は高く評価されて然るべきであると思われる。とりわけ昨今、政治を志す人は、退助の政治姿勢に学ぶべきではなかろうか。願わくば第二の板垣退助出でよと切に念ずるものである。
(板垣退太郎『日本人の100年(4)自由民権運動』世界文化社より抄録) ※板垣退太郎は、板垣正貫の長男

失われつつある清貧の心

失われつつある清貧の心      曾孫・尾崎正
甲斐・武田信玄の重臣筆頭・板垣信方(別に駿河守と称す)より数えて十一代目にあたる乾正成(土佐藩・馬廻役、三百石)の嫡男が板垣退助である。退助はもと乾姓を名乗り戊辰戦争の時に旧名に復した。この時、土佐迅衝隊を率いて勲功があり一躍名を挙げる。その東征の途上、日光東照宮を尊重して、因州鳥取藩兵が焼討ちも持さずとの強攻論を抑止。兵火による焼失から守った。その功績を讃え、日光神橋脇に銅像が建立された。その姿は国会議事堂、高知城、岐阜公園に建つ憲政期のものと異なり、若き戊辰戦争当時の雄姿となっている。 明治維新後は、土佐立志社を中心とする「自由民権運動」のリーダーとして本邦初の政党「自由党」を結成し、総理に就任した。明治十五年、全国遊説の途次、岐阜で刺客の兇刃がため暗殺されんとした際「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだ言葉が有名。このとき駆けつけ手当をした医師は、後に東京市長となる若き日の後藤新平であった。 大東亜戦争終戦の後、暫時廃止された華族制度は、伊藤博文が英国の貴族制度を見習って我が国に導入せられたものであるが、退助は、その世襲が特権階級の再構築となるならば、維新の理念に反するものとして、綬爵を二度までも辞退した。しかして勅許あらせ賜わず、三顧の礼を諭す人があって伯爵の位を綬爵するに至ったが、もとより一君万民・四民平等の理念を主張して止まず『一代華族論』を著し、世に問うたのである。大正八年七月十六日薨去。享年八十有三歳。遺言によってわが父守正は爵位を返上しその遺志を貫いた。 近代化による新たな価値観と引き替えに、古き良き武士道精神は急激に廃れ、栄華を享受し新たな特権階級となることを憚らなかった維新の元勲たちがいた中で、清貧に甘んじ、自らの信念を貫き生きた清廉潔白の人であった。 先の大戦による敗戦の結果、我々は国土の荒廃を復興すべく、経済成長を最優先課題として努力をした結果、日本は稀にみる大躍進を遂げたが、一方、失ったものも多く、「清貧」という無私の心は我々が全く省みなくなってしまったものではないだろうか。物・金 中心の価値観が横行するようになって久しい。その挙句、日本社会の美風である、倫理・礼節・人情などの精神が失われつつある現今の社会風潮は、何とも嘆かわしく、見るに忍びないものがある。板垣退助のように、今日、社会各層の要職に在る者たちには、所謂「ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)」を果たすべく、無私に徹した身の処し方を心掛けて欲しいものである。 今にして品性・人格を尊重する価値観を取り戻し、人倫・社会・国家それぞれ襟を正さなければ、此の国の将来に明るい展望は得られないと思う。同時に晩年に至った我々には後に続く若い人たち居ることを忘れてはならない。かく次世代の人たちの未来を案ずるとき、私たちは日本人と日本社会に、良心と聡明さを伴った自浄能力があることを確信し、必ずや我が国が国際社会で、より高い信頼と尊敬を得られ日が訪れることを期待し切望して已まない次第である。
(尾崎正『東京府立一中(旧制中学校五年制・現 都立日比谷高校)昭和十四年入学同期会・傘壽記念号』掲載前原稿より抄録) ※尾崎正は、今幡西衛の媒酌によって板垣家より尾崎家へ養子

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