
板垣退助の先祖・板垣駿河守信方は、甲斐武田家の親族衆で、武田信玄の傅役を務め、また武勇の誉れ高く、武田二十四将の一人に数えられる名将であったと云われている。特に曾祖父の乾正聡は、武田流軍学の稀覯書を多数蒐集していた。そのため板垣退助も幼少の頃から武田流軍学に慣れ親しみ、家には歴代相伝した武田七将を描いた掛軸があった。それら名将の活躍を聞いて育ったものだから、少壮気鋭といえば聞こえが良いが要は腕白盛りに育った少年であった。
『森復吉郎回想録』によれば、退助は、幼少時代、土佐城下京町の小笠原家の塾に通ったが『経書』には興味を示さなかった。しかし兵法学は非常に好きで、朋友の家で軍学書を見つけると直に借りて熱心に読んでいたという。
赤穂藩改易の後もこの兵学は伝えられ、幕府が開設した講武所の頭取兼兵学師範役に窪田清音(くぼた すがね, 1791-1867)が、就任したことにより、幕府兵学の主軸となった。 窪田清音から若山勿堂(わかやま ぶつどう, 1802-1867)に伝えられた。窪田清音の兵学門人は三千人と云われ、退助の他に、谷干城、勝海舟らの逸材が学んだ。
清音の先祖も退助と同じく、甲斐武田家の旧臣であり、甲州流軍学、越後流軍学にも精通していた。清音は、山鹿流の伝統的な武士道徳に重点を置いた講義に加え、幕末の情勢に対応した練兵の必要性を唱え、『練兵新書』、『練兵布策』、『教戦略記』などを著している。
∴山鹿素行→大石良重→菅谷政利→太田利貞→岡野禎淑→清水時庸→黒野義方→窪田清音→若山勿堂→板垣退助
明治15年(1882)4月6日午後6時半頃、板垣は帰途に就こうと岐阜中教院の玄関を出た時、短刀を振りかざした暴漢・相原尚褧に急襲されたが、この「呑敵流小具足術」で身をかわした。これによって本山団蔵から免許皆伝を贈られた。
やがて、この流派が土佐藩に導入されて「御留流(おとめりゅう)」として保護され、藩内に広まり、継承されていく。幕末になると、十五代藩主・山内容堂がこの剣術に熱中した話がいくつか、語り継がれている。
容堂の側近にいた板垣退助は、「七日七夜の間休みなしの稽古を続けた。数人の家来がこれに参加したものだが、あまりの烈(はげ)しさにみな倒れて、最後まで公のお相手をしたものは、わずか二人か、三人にすぎなかった」(『史談速記録』)と、容堂の稽古ぶりを証言している。板垣もまた、この剣術の修業に励んだことは言うまでもない。
雑誌『土佐史談』十五号所収・「英信流居合術と板垣伯」(岡林九敏稿)によると、明治維新以後の風潮の中で、武道が衰微していく。明治二十六年に板垣が帰郷した折、英信流が衰微しているのを惜しみ、その育成を計ったという。岡林氏は「英信居合術の今日あるは、洵(まこと)に伯(板垣)の賜(たまもの)であると言っても決して過言でない」と、英信流の復活に板垣が大きな役割を果たしたことを伝えている。
同じころ、京都で活躍していた中山博道という剣士が来高した。大江正路(おおえまさじ)に、英信流の根源について質問する。大江は明治・大正年代にかけて、英信流の奥義を窮めた名剣士として知られ、十七代目を継いだ人物であるが、「板垣が一番よく知っているから、尋ねたらよい」と答えたほどである。中山は、直接板垣に面会し、教えを受ける。また、居合術の名人である細川義昌を紹介されて、その指導をも受けている。
これらの人物の努力によって、英信流は土佐の剣士たちの間でもっぱら隆盛を極めた。他の流派をおさえて発展し、全国的にも普及していった」とある。
『田村久井談話筆記』によれば、明治初年に騎兵を置いたのは幕府(静岡藩)、紀州藩、土佐藩のみで、のちに桂太郎が陸軍次官の時、板垣に面会し土佐騎兵編成の時のことを尋ねた時「土佐は三面山を負い他国より侵入を受くる事容易なれば、国境に騎兵を置き伝令などに必要なれば国に事あらんと察し、斯く早く置きたり」と答えている。その数は最初、三十騎ばかりであったが、要馬術を訓練させたためその動作は甚だ優れていたという。
明治4年(1871)、薩摩、長州、土佐へ御親兵要請(近衛師団の前身)の際、騎兵の献上が出来たのは土佐藩だけで、板垣の功績によるものが多い。
オランダ式と云っても当時、ヨーロッパではナポレン流軍学に基づくフランス式が盛んでそれをオランダ語に翻訳したものが、長崎の出島経由で日本にもたらされたもの。
幕府は、慶応3年(1867)シャルル・シャノワーヌ大尉らを軍事顧問に招聘し、兵制をフランス式に変更するが、退助が江戸で学んだ頃は、オランダ式であった。兵制変更は、用語がオランダ語からフランス語に変った程度で大きな混乱はなかったといわれる。