7.政界引退以降

明治34年(1901) 65歳

明治34年6月21日、星亨暗殺される。この年、退助は京浜競馬倶楽部の会頭となる。

 

明治35年(1902) 66歳

明治35年4月28日、東京の神田青年館で「土佐の武士道」について講演。7月6日、高知第一中学校(現・追手前高校)で「風俗改良演説会」を開く(渡辺融知事ら臨席)。9日、高知第一中学校講堂で講演(聴衆は高知市内各学校の生徒ら1000余名)

 

明治37年(1904) 68歳

明治37年、雑誌「友愛」を発刊する。日露開戦に関して英文の意見書を発表し、これを海外に頒布し日本の立場を明らかにする。7月15日、後藤象二郎の銅像が完成し除幕。

 

明治39年(1906) 70歳

明治39年、退助古稀(70歳)の祝いとして明治天皇より「菊花御紋付き朱塗天盃」を御下賜あらせらる。「自由党史」を編纂。「一代華族論」を著し頒布する。

 

明治40年(1907) 71歳

明治40年5月、平和問題に関し、書簡をハーグの万国平和会議に送る。

 

明治41年(1908) 72歳

明治41年3月、大島岬招魂社(現・高知縣護國神社)の改築に金三十五円を寄付する。

 

明治42年(1909) 73歳

明治42年6月2日、回向院相撲常設館が完成し、設立委員長の板垣退助が「国技館」の名を採択し土俵の中央に立って宣言。7月10日、正二位に叙せられる。(板垣生誕地の門が龍乘院に売却されその山門となる)

 

明治43年(1910) 74歳

明治43年2月9日~3月25日、高知に帰郷し板垣山の先祖の墓参。田岡髪山の取材に応じ回顧録として残す。8月22日、日韓併合条約が調印される。

 

明治44年(1911) 75歳

明治44年、社会政策を鼓舞する機関として、雑誌「社会政策」を発刊。10月13日、本籍地を東京市芝区芝公園第7号地8番(現・東京都港区芝大門1丁目10番11号 芝大門センタービル)に移し転居。

 

大正元年(1912) 76歳

大正元年8月1日、韓国併合記念章を授与せらる。12月29日、明治天皇の御遺品として掛軸「金亀島日出之図」、「富士山雙鶴之図」二幅対(田崎草雲画、佐野常民献上品)と置物一箇を賜る。

 

大正2年(1913) 77歳

大正2年4月5日、高知県長岡郡本山町で「山内刑部一照卿三百年祭(退助の先祖)」が斎行され板垣退助が祭文を奏上(退助は欠席で安芸喜代香が代読)※実際の三百回忌は大正8年6月30日にあたる。4月19日、東京芝公園内に板垣退助銅像が建立され除幕。10月3日、板垣退助喜寿(77歳)の祝いとしてワイン・パーティーが、茨木県の牛久シャトーで神谷伝兵衛の主催により開かれる。伊東祐亨、川村景明らが参加。

 

大正3年(1914) 78歳

大正3年2月17日、台湾の林献堂の招きにより訪台。24日、台中公園の歓迎会で800余名に対し演説。盛況を極む。18日、台湾神社を参拝し桜を植樹。22日、開山神社、孔子廟を参拝。25日、台中神社、台中公園を訪れ桜と榕を記念植樹。6月7日、被差別部落解放のための日本初の全国組織「帝国公道会(自由同和会の源流)」を松井庄五郎や大江卓らとともに結成し、初代会長となる。7月、台湾同化会設立趣意書を発表し、台湾住民の権利拡充に尽力。11月22日、再び訪台し、12月20日、台湾同化会を設立(会員3178名)。12月26日、東京に戻る。

 

大正4年(1915) 79歳

大正4年5月18日、大正天皇より泰宮聡子内親王御婚礼記念として「菊花御紋付き重箱型鶴丸文様ボンボニエール」を賜る。7月「故阪(坂)本龍馬先生彰勲碑」建立に尽力し碑文を寄せる。11月10日、大正天皇より御大礼(即位礼)に際し、大礼記念章を授けられ、純銀製「菊花御紋付き柏葉筥型ボンボニエール(菊花御紋は純金製)」と純銀製「桜橘挿華」(平田宗幸製作)を賜る。この年の暮れ(12月頃か)、才谷屋の当主・坂本源三郎の養女・宍戸茂(坂本茂)が、石碑建立のお礼に土佐の鰹節を持参し板垣邸を訪れた。板垣は「今日の私があるのは、坂本先生の御蔭です」と最敬礼し往古に思いを寄せた。

 

大正5年(1916) 80歳

大正5年、退助傘寿(80歳)の記念として大正天皇より「菊花御紋付き桐唐草文縁銀天盃一揃」と鳩杖を賜る。5月11日、相楽総三の孫・木村亀太郎に会い、相楽の名誉回復のために尽くす。この件は西郷隆盛の名誉に関わることであったため、大山巌に対して推薦状を書き、旧薩摩藩側で対処(西郷の誤りを認める形での決着)を求めた。16日、木村亀太郎は大山巌に面会に行くが大山は居留守を使って会おうとせず。11月、東京芝公園大隈重信銅像除幕式に祝辞を奉る。12月、平石弁蔵著「会津戊辰戦争」に序文を寄せる(大正6年5月1日出版)同月 大山巌病死。

 

大正6年(1917) 81歳

大正6年11月、山内豊景侯、土方久元伯らと共に「戊辰戦争五十年祭」に列席。

 

大正7年(1918) 82歳

大正7年4月21日、岐阜公園に板垣退助像が建立され除幕式に出席。

 

大正8年(1919) 83歳

大正8年5月10日、皇太子(昭和天皇)成人式(満18歳)の慶賀として大正天皇より純銀製「菊花御紋付き八稜鏡型ボンボニエール(菊花御紋は純金製)」を賜る。7月16日薨去。同日従一位に叙せられ、旭日桐花大綬章を授けられる。大正天皇より誄詞を賜う。法名は邦光院殿賢徳道円大居士。北野元峰師(永平寺六十七世)の撰名による。総理大臣・原敬が葬儀委員長を務め、野田卯太郎が副委員長を務めた。勅使が参向あらせられ、麻布歩兵第三連隊の儀仗兵がつき、事実上の国葬に近い盛大 な葬儀となる。11月2日、板垣退助を主人公とする追悼映画「板垣退助・自由の誉」が上演された。

板垣退助の人生を要約すれば、早くより討幕を議し、の兵を起こして東北平定の功を全うした。次いで立憲政体を樹立して、永世不朽の礎を定め、国防の危急を鑑みて陸海軍の拡張につとめ、天下に率先して社会政策を励まし、鉄道国有の大事業を定め、また心を支那問題の解決に用い、盲人の按摩専業を唱えて盲人の保護に任じ、廃兵団を助けて廃兵優遇の道を開き、相撲道を励まして、国民の体育と社会的娯楽機関に資するなど、政治上、社会上に貢献するところがあった。晩年、武士道論、一代華族論、神と人道、立国の大本などの書を著し、また獨論七年を著して政治上、法制上、社会上の重要問題を解決し、もってその主義を宣伝し、後進の力添えを行った。

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(年表作成・髙岡功太郎、板垣旧邸現在地特定協力・伊藤璃佳)

1.相撲

板垣退助は、子供の頃から相撲が非常に好きで、現在の「国技館」(相撲常設場)の建議に加わり、名付け選定委員長でもある。土俵の真ん中に最初に立って命名を宣言したのが板垣である。

2.武田流軍学

板垣退助は、『孫子』は、丸暗記できるほど覚えていたと言われる。また武田流軍学や、山鹿流軍学の素養があり、のちにはオランダ式騎兵術を学んでいる。

 

板垣退助の先祖・板垣駿河守信方は、甲斐武田家の親族衆で、武田信玄の傅役を務め、また武勇の誉れ高く、武田二十四将の一人に数えられる名将であったと云われている。特に曾祖父の乾正聡は、武田流軍学の稀覯書を多数蒐集していた。そのため板垣退助も幼少の頃から武田流軍学に慣れ親しみ、家には歴代相伝した武田七将を描いた掛軸があった。それら名将の活躍を聞いて育ったものだから、少壮気鋭といえば聞こえが良いが要は腕白盛りに育った少年であった。

 

『森復吉郎回想録』によれば、退助は、幼少時代、土佐城下京町の小笠原家の塾に通ったが『経書』には興味を示さなかった。しかし兵法学は非常に好きで、朋友の家で軍学書を見つけると直に借りて熱心に読んでいたという。

3.山鹿流軍学

山鹿流は、山鹿素行(1622-1685)が播磨国赤穂藩へお預け身となった時に赤穂藩に伝えられた。

 

赤穂藩改易の後もこの兵学は伝えられ、幕府が開設した講武所の頭取兼兵学師範役に窪田清音(くぼた すがね, 1791-1867)が、就任したことにより、幕府兵学の主軸となった。

窪田清音から若山勿堂(わかやま ぶつどう, 1802-1867)に伝えられた。窪田清音の兵学門人は三千人と云われ、退助の他に、谷干城、勝海舟らの逸材が学んだ。

 

清音の先祖も退助と同じく、甲斐武田家の旧臣であり、甲州流軍学、越後流軍学にも精通していた。清音は、山鹿流の伝統的な武士道徳に重点を置いた講義に加え、幕末の情勢に対応した練兵の必要性を唱え、『練兵新書』、『練兵布策』、『教戦略記』などを著している。

 

赤穂山鹿流伝系

赤穂山鹿流の伝系は、
∴山鹿素行→大石良重→菅谷政利→太田利貞→岡野禎淑→清水時庸→黒野義方→窪田清音→若山勿堂→板垣退助
となる。

参考文献:『山鹿素行兵法学の史的研究』

4.呑敵流小具足術

板垣退助は、呑敵流小具足術(竹内流小具足組打ち)を土佐藩士・本山団蔵重隆から学んだ。本山団蔵の先祖は、山内家土佐入国以前より土佐北部を領し「土佐七雄の一」に数えられる本山家で、のちに長宗我部家に与した。退助とは遠縁の親戚にあたる。

 

明治15年(1882)4月6日午後6時半頃、板垣は帰途に就こうと岐阜中教院の玄関を出た時、短刀を振りかざした暴漢・相原尚褧に急襲されたが、この「呑敵流小具足術」で身をかわした。これによって本山団蔵から免許皆伝を贈られた。

5.英信流居合術

無双直伝英信流と板垣退助の関係については、広谷喜十郎の書いたものに詳しい。以下再録すると、「英信流については、『高知県歴史事典』の「長谷川流居合術」の条に、「近世流伝した抜刀流の一派、出羽国楯岡の人・林崎甚助を流祖とするもので、その流れを汲む長谷川主税助(英信)が新しい工夫を加え長谷川流と呼ばれたが、現在では「無双直伝英信流」と改称、全国的に知られている」と述べられている。

 

やがて、この流派が土佐藩に導入されて「御留流(おとめりゅう)」として保護され、藩内に広まり、継承されていく。幕末になると、十五代藩主・山内容堂がこの剣術に熱中した話がいくつか、語り継がれている。

 

容堂の側近にいた板垣退助は、「七日七夜の間休みなしの稽古を続けた。数人の家来がこれに参加したものだが、あまりの烈(はげ)しさにみな倒れて、最後まで公のお相手をしたものは、わずか二人か、三人にすぎなかった」(『史談速記録』)と、容堂の稽古ぶりを証言している。板垣もまた、この剣術の修業に励んだことは言うまでもない。

 

雑誌『土佐史談』十五号所収・「英信流居合術と板垣伯」(岡林九敏稿)によると、明治維新以後の風潮の中で、武道が衰微していく。明治二十六年に板垣が帰郷した折、英信流が衰微しているのを惜しみ、その育成を計ったという。岡林氏は「英信居合術の今日あるは、洵(まこと)に伯(板垣)の賜(たまもの)であると言っても決して過言でない」と、英信流の復活に板垣が大きな役割を果たしたことを伝えている。

 

同じころ、京都で活躍していた中山博道という剣士が来高した。大江正路(おおえまさじ)に、英信流の根源について質問する。大江は明治・大正年代にかけて、英信流の奥義を窮めた名剣士として知られ、十七代目を継いだ人物であるが、「板垣が一番よく知っているから、尋ねたらよい」と答えたほどである。中山は、直接板垣に面会し、教えを受ける。また、居合術の名人である細川義昌を紹介されて、その指導をも受けている。

 

これらの人物の努力によって、英信流は土佐の剣士たちの間でもっぱら隆盛を極めた。他の流派をおさえて発展し、全国的にも普及していった」とある。

6.孫子を暗記

安政3年(1856)、四ケ村禁足の処分を受けた退助のもとに、同じように謹慎処分を受けた吉田東洋が来訪し学問を説く。退助は東洋の塾に通うことはなかったが、『孫子』を読んで独学し、暗記できるほどであった。

7.大坪流馬術

板垣退助は、はじめ大坪流馬術・馬工郎(馬喰)乗りを学ぶ。その後、要馬術(ようばじゅつ)を学んだ。要馬術とは鞍上で槍刀を使用し、かつ敵騎と組打ちを行うもの。

8.源家古流「調息流」馬術

馬を疲れさせず、遠駆けさせる馬術で、のちに西洋式騎兵隊創設にこの素養が役に立ったと言われる。

 

『田村久井談話筆記』によれば、明治初年に騎兵を置いたのは幕府(静岡藩)、紀州藩、土佐藩のみで、のちに桂太郎が陸軍次官の時、板垣に面会し土佐騎兵編成の時のことを尋ねた時「土佐は三面山を負い他国より侵入を受くる事容易なれば、国境に騎兵を置き伝令などに必要なれば国に事あらんと察し、斯く早く置きたり」と答えている。その数は最初、三十騎ばかりであったが、要馬術を訓練させたためその動作は甚だ優れていたという。

 

明治4年(1871)、薩摩、長州、土佐へ御親兵要請(近衛師団の前身)の際、騎兵の献上が出来たのは土佐藩だけで、板垣の功績によるものが多い。

9.オランダ式騎兵術

板垣退助は、元治2年(1864)4月、江戸へ兵学修行へ出て、江戸で幕臣・倉橋長門守(騎兵頭)や深尾政五郎(騎兵指図役頭取)からオランダ式騎兵術を学んだ。はじめは私費で留学し、慶応元年(1865)1月14日から藩費での留学となった。

 

オランダ式と云っても当時、ヨーロッパではナポレン流軍学に基づくフランス式が盛んでそれをオランダ語に翻訳したものが、長崎の出島経由で日本にもたらされたもの。

 

幕府は、慶応3年(1867)シャルル・シャノワーヌ大尉らを軍事顧問に招聘し、兵制をフランス式に変更するが、退助が江戸で学んだ頃は、オランダ式であった。兵制変更は、用語がオランダ語からフランス語に変った程度で大きな混乱はなかったといわれる。

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