板垣退助ってどんな人?
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板垣退助は德川慶喜と同年の生まれ。德川慶喜は幕末の人、板垣退助は明治・大正の人と思われがちですが、二人は全く同年齢です。そう考えれば時代背景が分かりやすいですね。
絶対にブレない男・板垣退助の特徴
①
板垣退助という男は「勤皇」という軸において生涯一度もブレたことがない。これが
板垣精神の根幹です。…にも拘わらず板垣という人物を語る時「自由」という軸にシフトして語り、「板垣はある時は自由について語っているが、その時、同時に建軍や徴兵制を推進している。板垣は矛盾に満ちた男だ」と評する人がいます。(戦後史観 丸出しの大いなる間違いですね)
②
板垣にとって「自由」とは手段であって目的ではない。ましてその「自由」とは何でもやって良い自由ではなく「
愛国心をもって天下国家を語る自由」のことである。(※すなわち国土防衛が担保された上での自由であり、「自由」を得るためには「義務」を負うのは当然である。「義務」の中には「兵役の義務」も当然に含まれると板垣自身が記しています) また「
愛国者にのみ選挙権を付与すべき」だと主張し、「
普通選挙には反対の立場」を貫きました。
③板垣退助の
自由民権・国家観はフランス流ではなく、日本独自流。教科書などでは誤って「フランス流」と分類された(※理由後述)ことがあり、それを鵜吞みにして評する人がいますが、板垣自身は外国の模倣ではなく
日本独自流であり、ましてや
フランス流では無いと何度も明言しています。板垣自身は
弾丸注雨(だんがんちゅうう)
の戊辰戦争の中での体験によって、常在戦場・国民皆兵の思想をはぐくみました。国民皆兵(徴兵制度)導入を阻害する身分制度を解体するため「四民平均(四民平等)」を唱え、
全国民が兵役に就くこと、兵役に就く(命を掛けて国を守る)
代わりに、その国の将来の舵取りにも意見を言うことの自由を唱えました。直接的には明治元年(1868)3月14日、明治天皇が全国民に対して出された声明『
億兆安撫国威宣揚御宸翰』(明治の玉音とも呼ばれる)、ならびにそれを五箇条に直した『
戊辰の皇誓(五箇条御誓文)』の意を體して始められたもので、その第1條「
広く会議を興し万機公論に決すべし(天下国家のことは、広くから意見を募り、会議場を設けて、総て正々堂々と意見を戦わして決定しなさい)」は特に重視されました。これは、板垣ら征韓派が4回にもわたる閣議決定で「朝鮮征伐」が決定していたにも関わらず、岩倉具視らが暗躍して虚偽の上奏を天皇に対して行い反故にしてしまったことなどから、特に板垣らが重視し、
自由民権運動の起きる直接的なきっかけとなりました。
④板垣退助の名は良く知られていますが、これらの事績を語れる人が今や尠(すくな)くなりました。笑い話ではなく昨今では「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は、白い髭の老人が刺されて死んだ時に発した最期の言葉だと思う人まで出る始末です。なぜ、このような事態となったのでしょうか? 板垣自身は「
後世の日本人への私の遺書である」として遺著となる『
立國の大本(りっこくのたいほん)』の中にこれらのことを克明に書き残しましたが、その著書に収録された板垣の「
日本は侵略国家にあらず」の論文や「
欧米は権謀術数(※卑怯は手口)を用いて、日本は侵略国家だと世界に吹聴している。これらの心術(プロパガンダ)の巧みさにはあきれるが、日本人自身はこれらの言説に惑わされないようにせねばならない」などと記した箇所があることから、GHQによって焚書指定され、所謂東京裁判史観に基づく内容に、教科書が変更され、当時の日本放送協会がそれらに遵った、放送コードのまま現在に至り、偏向した内容の評論が蔓延し由々しき事態となっています。
板垣退助と大楠公
●『
板垣退助の大楠公精神』に関しては、詳細は湊川神社社報第16号『
あゝ楠公さん』に所収の『
板垣退助の大楠公精神』をご覧ください。
●退助の父の名は「正成」。武田信玄の傅役(もりやく)を務めた板垣駿河守信方を祖とする家柄。
●退助は幼少の頃より兵学に興味を持ち、軍記物語、太平記を通じて大楠公の雄姿に魅了された。
●文久3年3月28日(1863年5月15日)、京都から土佐へ山内容堂に従って帰国する途中、乾(板垣)退助は大楠公墓所(湊川神社創建前)にお参りしている。この時、容堂は楠公を讃える漢詩「淤河一帯水無流、慷慨空過五百秋、欲問延元当日跡、楠公心事不平不」を詠んで小笠原唯八(牧野群馬)に下賜した。(宇田友猪著『板垣退助君傳記(第1巻)』107頁による。伝記では日付の記載が曖昧だが、『寺村左膳日記』と照合すると、3月28日の箇所に「(容堂公)御忍ニ而楠公ノ墓へ御参り被遊」とありこれに退助も同行している。「お忍び」とあるのは、本来参勤交代で決められたルート以外を通るのは不可のためで、この日、一行は朝五時半頃に出発し、楠公墓をお参りし日没頃に明石に到着し一泊している)
慶應2年(1866)12月(慶應3年(1867)3月頃とも)、勤皇派水戸浪士(筑波挙兵した天狗党の残党)中村勇吉、里見某、相良総三らを土佐藩邸(築地)に匿い、彼らより直接水戸学を学ぶ。(※この浪士らが慶應3年(1867)10月、薩摩藩邸に移り庄内藩を挑発し、戊辰戦争の端緒となる)
●板垣は、日本は世界に勝る精神性を備えた文化であるとし、日本の國體と武士道精神を説き「惡を爲せる者は、其惡の報(むくい)を受け、善を爲せる者は、其善の酬(むくい)を受けざる可(べか)らず、則(すなわ)ち支那に於て秦檜(しんかい)の墓碣が百代の後ち猶(な)ほ土民によりて溺せらるゝに反し、岳飛(がくひ)の廟は神位として祭られ、我邦(わがくに)に在ても足利尊氏は其木像を梟せられ、極端なる侮辱を受くるに反し、楠木正成の碑(いしぶみ)はその忠魂義膽を景仰する所の幾多凴弔(ひょうちょう)の客の涙痕を留むる」と述べ、「生を捨てゝ義を取り、身を殺して仁を爲せる所の志士、仁人は永遠無窮に社會、民心の渇仰てふ實在の天堂に生きる」とし「社會に功勞ある(中略)實在の英雄偉人を追遠紀念して其恩を謝し、之に(己の生き方を)肖らんことを求め」ることや「民族の優者、人類の冠冕(かんべん)(※最も優れている者)として之を崇拝」することは重要で意義があると奨励している。
●板垣退助の腹心の部下、山地元治(陸軍中将・子爵)と、山田喜久馬(土佐藩第一別撰隊長、土佐藩伏見参戦者)は共に、大楠公末裔との伝承のある家系で、退助自身はこの山田家と親族であり、先祖の中には楠木正成も含まれる。
1.幼少期
天保8年(1837) 1歳
誕生
天保8年(1837) 4月17日(異説16日)、土佐藩士・馬廻役300石・乾栄六正成の嫡男として高知城下中島町に生れる。母は林氏。諱は初め「正躬(まさみ)」と称し、のち「正形(まさかた)」と改めた。号は「無形(むけい)」。幼名猪之助。初諱正躬、のち正形。通称退助。号無形。先祖の本姓は板垣氏で、退助の代は乾氏を称していたが、のち戊辰戦争の際、本姓に復した。
命名の由来
退助の幼名・猪之助(いのすけ)は、乾和三(山内備後)の前名「猪助(いのすけ)」からあやかって命名されたもので、乾和三の「猪助」の「猪」の字は、山内猪右衛門と名乗っていた当時の山内一豊公から、和三が「猪」の字を賜ったことによるもの。「猪」は、「猪突猛進」、「猪武者」などと言われ、武士に好まれた動物であった。
しかし退助は「猪之助」の名の通り、腕っぷし強そうな相手でも怖いもの知らずで、猪突猛進に喧嘩をしたりと腕白に育ち過ぎたせいで、謹慎処分を受けることしばしば。ついに藩主公から「猪突猛進に突き進む「猪之助」ではなく、一歩、退いたぐらいを心掛けよ」と「退助(たいすけ)」と言う名を賜ったとか。
後藤象二郎(幼名は「保弥太(やすやた)」)とは竹馬の友で、お互い「いのす」、「やす」と呼びあっていた。
天保14年(1843) 7歳
9月9日、惣領御目見。
貧婦救済
白小僧の餓鬼大将であった、板垣退助(乾猪之助)の少年時代の話。

龍乗院山門(高知市比島・本会撮影)
ある冬の寒い日、乳飲み子を抱えた貧婦が乾家の門に物乞いに来ました。
家僕が追い払おうとしましたが、貧婦は帰ろうとしません。
猪之助(退助)は、家の中から黙って姉の着物を持ち出し、貧婦に与えました。貧婦は感謝して帰って行きました。姉が着物の無いことに気付いてそのことが露見しましたが、猪之助の母は、経緯を聞いてこれを咎めず、
「慈愛の心を以て、民庶を救わんは政道に照覧して尤もなり。他日、必ずやこの子は家名を上げさしめんであろう」
(慈悲の精神を以て郷民に向き合うのは、政治の基本である。子供ながらにその事が分かっているならば、退助は将来、必ず大物になるだろう)
と、かえってこれを褒めたと。この乾家の門は、移設され高知市比島の龍乗院の山門として現存しています。
嘉永4年(1851) 15歳
腕白盛りで「盛組(さかんぐみ)」の首領として名を売ったが、同輩藩士と喧嘩となり罪を得て「屹度遠慮(きっとえんりょ/「謹真」のこと)」の処分を受ける。
3.討幕活動期
文久元年(1861) 25歳
10月25日、御納戸方江戸へ差立て(転勤)られ、軍備庶務掌理(土佐藩江戸藩邸の会計・軍事係)となる。この年、江戸留守並びに御内用役となる。
文久2年(1862) 26歳
山内容堂侯の側用人となる

山内容堂(江戸時代撮影)
品川の鮫洲に幽居していた前藩主・山内容堂侯の側用人となり、土佐藩江戸藩邸の総裁をつとめる。
吉田東洋が暗殺される
4月8日(1862年5月6日)、退助が江戸滞在中、国元の土佐では吉田東洋が土佐勤王党員に暗殺される事件が起きた。
土佐勤王党・間崎哲馬と交わる
9月、この頃退助は、江戸で土佐勤王党の知謀として活躍していた間崎哲馬(滄浪, 1834-1863)と連絡を取りあっていた。
間崎は、土佐藩の田野学館で教鞭をとり、のち高知城下の江の口村に私塾を構えた。教え子には中岡慎太郎、吉村虎太郎などがいた。
愈御勇健御座成され恐賀の至に奉存候。然者別封、封のまま御内密にて御前へ御差上げ仰付けられたく偏に奉願候。参上にて願ひ奉る筈に御座候處、憚りながら両三日又脚病、更に歩行相調(あいととの)ひ申さず、然るに右別封の儀は一刻も早く差上げ奉り度き心願に御座候ゆへ、至極恐れ多くは存じ奉り候へども、書中を以て願ひ奉り候間、左様御容赦仰付けられ度く、且此義に限り御同志の御方へも御他言御断り申上げ度く、其外種々貴意を得奉り度き事も御座候へども、紙面且つ人傳てにては申上げ難く、いづれ全快の上は即日参上、萬々申上ぐべくと奉存候。不宣。
九月十七日 間崎哲馬
乾退助様
別封の書面で、勤皇に関する重要人物からの機密事項が退助のもとへ送られたと考えられる。
翌年、間崎哲馬は、勤皇派が中心となって土佐藩の藩政改革を行うために、青蓮院宮尊融親王(中川宮朝彦親王)の令旨を奉拝せんとし、文久2年(1862)12月、青蓮院宮から令旨を得たが、これが「逆に不遜である」と山内容堂の逆鱗にふれ、文久3(1863)年6月8日、平井収二郎、弘瀬健太と共に間崎哲馬は切腹して果てることになる。間崎哲馬の門人が、中岡慎太郎、吉村虎太郎たちである。
尊皇攘夷派の人物と交わる
10月、この頃退助は「時勢之議論に打傾き、頻(すこぶる)に外藩人(他藩の藩士)と出会致し、攘夷論を唱へ候者を信用し、御上(藩主)へも時々言上致候」(『寺村左膳道成日記(1)』文久2年10月14日條、63頁)とあるように他藩の人々と時勢を論じ、思想的には「尊皇攘夷」を唱えていた。この日記を書いた寺村道成は、門閥派(佐幕派)の中心人物で、退助とは対極の考え方にあった。
文久3年(1863) 27歳
1月15日、藩主に従って上洛。
退助、罷免される
容堂公が土佐に帰国するにあたって、退助は容堂公に土佐に帰っても改革派(旧吉田派)は用いないで欲しいと願い出た。東洋の暗殺後、土佐は尊王攘夷派と門閥派(佐幕派)の牛耳ることなり、旧吉田派は蚊帳の外に置かれていた。その為、旧吉田派を再び引き立てると、必ず東洋の仇を討とうして勤王派と軋轢が生じ藩は支離滅裂な状態になってしまうからであるからという意見であった。ところが、4月12日(1863年5月29日)、容堂公が土佐に帰ると、改革派(旧吉田派)の人々を登用し始め、退助はかえって罷免されてしまった。
中岡慎太郎と武力討幕を誓う
8月18日、京都政変の後、中岡慎太郎が退助邸を訪問した。その時の様子は「維新史料編纂会講演速記録1」127頁に所収の『維新前夜経歴談』などに載せられている。

中岡慎太郎(京都・堀與兵衛撮影)
以下大意を抄録すると、中岡慎太郎が退助に「…貴所は役を罷められた様子であるが、私など何分、君敵(藩から敵対視され)のやうに言はれて用ゐられぬ。
甚だ困つて居るが、一つ此処で御意見を伺ひたいが、どうでございませう」と問えば「中岡君、今日は私の言が行はれやうかと思ふ。といふのは、私が役を罷めたからといふて、貴所が訪ねて来られたといふことは、始めて私に信用を置かれた様に思ふ。一つ貴所にお尋ねせにやならぬが、貴所は私を京都で殺す積りであつたらう」と退助が云ふ。
中岡は慌てて「イエさう云ふことはござりませぬ」と返したが、
退助は「それはどうも怪しからぬ。中岡君に似合わぬ女々しい話であつて、大丈夫の事を談ずる。時として殺さうと思ひ、又、共にしやうと思ふ、何の遠慮が要る訳はない。どうも中岡君に似合はぬ。僕は余程失望した」と語つた。中岡は観念して「これはどうも心外のことで、如何にも其の通、殺す積りでございました」と語つた。すると退助は喜んで「さう言つて呉れてこそ後の話が出来る。さうであつたらう。しかしながらどうも貴所などの遣り方といふものは実に甚だしい(極端である)。大坂では誰々を殺し、又、容堂公の酒の伽(とぎ)に出た者を斬るの、腐つたやうな首を持つて来て脅かすのといふことは、何といふことだ」、「それは実に悪うございました。どうぞ是から共にやつて下さい」、「宜しい。私も国に尽す上に於て、役を罷められたからからどう、役に就いたからどう、と云ふやうなことはない。素より共に遣らう」と意気投合し、互いに将来の討幕を約した。その後、9月5日、中岡慎太郎は脱藩し言動を実行に移した。
退助、復職す
10月14日、退助は、藩の仕置役となる。
文久4年/元治元年(1864) 28歳
7月、町奉行となる。8月、藩の大監察(大目付)に任ぜられ、後藤象二郎とともに容堂侯を補佐し、藩政運営の中核となるが藩の方針と対立して意見が容れられず。
元治2年/慶應元年(1665) 29歳
元治2年1月14日(1865年2月9日)、すべての役職を免ぜられ、大監察を辞す。
元治2年3月27日(1865年4月22日)、先の在職中、上士加増取調の件で「不念の儀」があったとして謹慎を命ぜられる。
兵学修行のため江戸へ
元治2年4月1日、謹慎が解かれ、江戸へ兵学修行へ出る。幕臣および他藩の士と交わって世の動静を察す。
退助、江戸で瑞山の訃報に接する
元治2年閏5月、武市瑞山が切腹を命ぜられる。退助、江戸で瑞山の悲報に接する。
慶應2年(1666) 30歳
慶應2年1月21日(1866年3月7日)、薩長同盟が成立。
慶應2年5月13日(1866年6月25日)、藩庁より、学問および騎兵修行の為、引続き江戸に滞留することの許可が下りる。
慶應2年6月7日(1866年7月18日)、第二次長州征伐が始まる。
慶應2年9月28日(1866年11月5日)、騎兵修行の命が解かれる。
慶応3年(1867) 31歳
水戸浪士隠匿事件
2月、江戸築地の土佐藩邸へ勤皇の水戸浪士・中村勇吉、相良総三らを匿う。当時、土佐藩内は、佐幕派のものが多かったにも関わらず、危険を顧みず藩主に報告せず退助の独断で、彼らをかくまい討幕の機の熟するを待った。これが世に言う「水戸浪士隠匿事件」である。
薩土討幕の密約
5月、退助は、薩長が同盟を組んだことを知り、後事を江戸の同志・山田喜久馬(山田平左衛門)、小笠原謙吉等に託して決死の覚悟で京都に上り、折りから入洛中の山内容堂侯に「薩長と連合して武力討幕に藩の命運を賭けるべきである」と言上したが聞き入れられなかった。

中岡慎太郎の手紙
退助は一旦、容堂侯を説得するの保留。土佐藩の勤皇の志を持つ者たちと糾合し、「脱藩してでも薩長土が連合して討幕を成就する事」を決し、中岡慎太郎の斡旋により中岡と共に5月21日(1867年6月23日)夕、薩摩藩士・小松帯刀邸を訪れ、乾退助、中岡慎太郎、谷干城、西郷隆盛、小松帯刀、吉井幸輔等と会合。討幕の合戦の火蓋が切られれば、藩論の如何に関わらず土佐藩が討幕挙兵に参戦をする事を約束した。
この会合こそ実に明治維新の土台となったものであって、後世の歴史家が「薩土討幕の密約(薩土武力倒幕密盟)」と呼ぶものである。
(これとは別に、一ヶ月後、6月22日(1867年7月23日)、坂本龍馬が仲介して大政奉還の為の同盟「薩土同盟」が結ばれた)
5月22日(1867年6月24日)、退助は「薩土討幕の密約」を結んだことを容堂侯に報告。
さらに江戸藩邸に勤皇浪士をかくまっていることを報告し、最早、土佐藩の命運は勤皇に就くしか道はないと言上する。容堂侯は態度を保留したが、いづれにせよ武力にて決する時が来ることを悟り、退助に軍令刷新を命じた。
退助は直ちに大坂にいで「アルミニー」銃300挺を購入して土佐に帰藩。小笠原唯八と共に同志を募ると、たちまちにして勤皇同志ら300人が盟に加わり腕を扼して武力討幕の火蓋が切られるのを待った。
脱藩を決意
藩内には依然として佐幕派もおり、特に藩の上士と呼ばれる人々に多かったため、退助は、表沙汰となった時に藩に迷惑のかからぬよう「脱藩上書」を作ってその準備を整えた。
土佐藩の軍令改革を行う
しかし、土佐藩は逆に正式に退助を藩の軍令改革の主導者として抜擢し、大監察(大目付)として、土佐藩軍備総裁に任じた。よって退助は、大いに兵制を改革し、北條流弓隊を廃止して、新たに銃隊を作って武力討幕の時に備えた。
大政奉還についての意見
7月8日、後藤象二郎が山内容堂公へ「大政奉還」の策を進言した時、退助はこの策を聞いて喜ばず、
今更、将軍の政権奉還などは因循姑息の策(旧来の方針を改めないまやかし)である。『大政返上』は名は美なるも、畢竟空名(有名虚実)にすぎぬ。今、朝廷が之によって天下に号令せんとするも、実権が伴はなければ、真実、『大政を奉還した』とは云へぬ。徳川家はもと、家康公の時に馬上(合戦)で天下を取った者である。されば馬上(合戦)で之を返して朝廷に奉る上でなければ、とても200有余年の覇政は覆へされぬ。無名の師はもとより、王者の与(く)みせぬところであるが、今日、幕府の罪悪は天地に満ちている。さるに敢然と討幕のことをしないで、空名を存するに務むるは誤見である。(乾退助)
と容堂公に意見を述べたが、退助の議は入れられず、7月13日、容堂公は大政奉還の建議を認可した。
退助は、徳川家が実権をにぎったままになってしまうことを最も警戒した。「実際に、天皇陛下に実権が委ねられていなければ、「大政奉還」とは名ばかりで、王政復古の大号令とはならないのである。徳川家が今まで200年余りも権勢を欲しいままにしてきたのは、合戦で勝ち得た権利であるから、この秩序を変えるには合戦をもってしなければならない。名ばかりのことをして喜ぶのは全くの間違いである」と。
しかし結局、慶応3年10月3日(1867年10月29日)、後藤象二郎らの主導により山内容堂公を経て、「大政奉還建白書」が幕閣に提出されることとなる。
アメリカ留学を命ぜられる
慶応3年8月20日(1867年9月17日)、アメリカ留学を命ぜられる(実現せず)。アメリカ留学を命ぜられた意図は、「南北戦争(1861-1865)での近代戦を学ばせるため」であるとも、「大政奉還」に邪魔となる退助を藩政から遠ざけてしまうためとも言われる。
土佐藩歩兵大隊司令を兼任
慶応3年9月29日(1867年10月26日)、新たに土佐藩歩兵大隊司令を兼任を命ぜらる。
歩兵大隊司令を解任される
慶応3年10月8日(1867年11月3日)、武力討幕に関する言動を警戒され、土佐藩歩兵大隊司令を解任される。
薩長両藩に「討幕の密勅」が下る
慶応3年10月13日(1867年11月8日)、薩長両藩に「討幕の密勅」が下る。
「大政奉還」が勅許せらる
慶応3年10月14日(1867年11月9日)、第15代将軍・徳川慶喜が「大政奉還」を明治天皇に奏上し、翌15日に天皇が奏上が勅許された。
退助失脚する
慶応3年10月19日(1867年11月14日)、「大政奉還」が勅許されたことにより、武力討幕を一貫して主張した退助は総ての役職を免ぜられ失脚する。
また一方、藩外では佐幕派側にとっても「大政奉還」のその後の措置に不満を持ち憤懣甚しく、不穏な空気が世間を取り巻いていた。
中岡慎太郎、坂本龍馬が逝く
慶応3年11月15日(1867年12月10日)、勤皇の同志である中岡慎太郎、坂本龍馬らが大政奉還のその後の措置に不満を持つ佐幕派の刺客に暗殺される。
坂本龍馬が亡くなったのは11月15日で、翌日に藤吉が逝き、中岡慎太郎はその2日後の11月17日だった。慎太郎は、将来のことを、何呉となく遺言し、特にこの時、土佐にいた退助に対しては「御承知の如く、癸丑以来、天下の有志輩に婦女子同様なりと嘲弄されし関東武士の中にも、現に此度の刺客の如き非常の決断をなす者、出で来る程の時勢に候へば、本藩に於てもゆめゆめ御油断あるべからず」と申し送らせた。この時、両雄を暗殺したのは新撰組の浪士であろうと噂された。
王政復古の大号令
慶応3年12月9日(1868年1月3日)、王政復古の大号令が発せられる。