板垣退助ってどんな人?

板垣退助は德川慶喜と同年の生まれ。德川慶喜は幕末の人、板垣退助は明治・大正の人と思われがちですが、二人は全く同年齢です。そう考えれば時代背景が分かりやすいですね。

絶対にブレない男・板垣退助の特徴

板垣退助という男は「勤皇」という軸において生涯一度もブレたことがない。これが板垣精神の根幹です。…にも拘わらず板垣という人物を語る時「自由」という軸にシフトして語り、「板垣はある時は自由について語っているが、その時、同時に建軍や徴兵制を推進している。板垣は矛盾に満ちた男だ」と評する人がいます。(戦後史観 丸出しの大いなる間違いですね)

板垣にとって「自由」とは手段であって目的ではない。ましてその「自由」とは何でもやって良い自由ではなく「愛国心をもって天下国家を語る自由」のことである。(※すなわち国土防衛が担保された上での自由であり、「自由」を得るためには「義務」を負うのは当然である。「義務」の中には「兵役の義務」も当然に含まれると板垣自身が記しています) また「愛国者にのみ選挙権を付与すべき」だと主張し、「普通選挙には反対の立場」を貫きました。

③板垣退助の自由民権・国家観はフランス流ではなく、日本独自流。教科書などでは誤って「フランス流」と分類された(※理由後述)ことがあり、それを鵜吞みにして評する人がいますが、板垣自身は外国の模倣ではなく日本独自流であり、ましてやフランス流では無いと何度も明言しています。板垣自身は弾丸注雨(だんがんちゅうう)の戊辰戦争の中での体験によって、常在戦場・国民皆兵の思想をはぐくみました。国民皆兵(徴兵制度)導入を阻害する身分制度を解体するため「四民平均(四民平等)」を唱え、全国民が兵役に就くこと、兵役に就く(命を掛けて国を守る)代わりに、その国の将来の舵取りにも意見を言うことの自由を唱えました。直接的には明治元年(1868)3月14日、明治天皇が全国民に対して出された声明『億兆安撫国威宣揚御宸翰』(明治の玉音とも呼ばれる)、ならびにそれを五箇条に直した『戊辰の皇誓(五箇条御誓文)』の意を體して始められたもので、その第1條「広く会議を興し万機公論に決すべし(天下国家のことは、広くから意見を募り、会議場を設けて、総て正々堂々と意見を戦わして決定しなさい)」は特に重視されました。これは、板垣ら征韓派が4回にもわたる閣議決定で「朝鮮征伐」が決定していたにも関わらず、岩倉具視らが暗躍して虚偽の上奏を天皇に対して行い反故にしてしまったことなどから、特に板垣らが重視し、自由民権運動の起きる直接的なきっかけとなりました。

④板垣退助の名は良く知られていますが、これらの事績を語れる人が今や尠(すくな)くなりました。笑い話ではなく昨今では「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は、白い髭の老人が刺されて死んだ時に発した最期の言葉だと思う人まで出る始末です。なぜ、このような事態となったのでしょうか? 板垣自身は「後世の日本人への私の遺書である」として遺著となる『立國の大本(りっこくのたいほん)』の中にこれらのことを克明に書き残しましたが、その著書に収録された板垣の「日本は侵略国家にあらず」の論文や「欧米は権謀術数(※卑怯は手口)を用いて、日本は侵略国家だと世界に吹聴している。これらの心術(プロパガンダ)の巧みさにはあきれるが、日本人自身はこれらの言説に惑わされないようにせねばならない」などと記した箇所があることから、GHQによって焚書指定され、所謂東京裁判史観に基づく内容に、教科書が変更され、当時の日本放送協会がそれらに遵った、放送コードのまま現在に至り、偏向した内容の評論が蔓延し由々しき事態となっています。

板垣退助と大楠公

●『板垣退助の大楠公精神』に関しては、詳細は湊川神社社報第16号『あゝ楠公さん』に所収の『板垣退助の大楠公精神』をご覧ください。
●退助の父の名は「正成」。武田信玄の傅役(もりやく)を務めた板垣駿河守信方を祖とする家柄。
●退助は幼少の頃より兵学に興味を持ち、軍記物語、太平記を通じて大楠公の雄姿に魅了された。
●文久3年3月28日(1863年5月15日)、京都から土佐へ山内容堂に従って帰国する途中、乾(板垣)退助は大楠公墓所(湊川神社創建前)にお参りしている。この時、容堂は楠公を讃える漢詩「淤河一帯水無流、慷慨空過五百秋、欲問延元当日跡、楠公心事不平不」を詠んで小笠原唯八(牧野群馬)に下賜した。(宇田友猪著『板垣退助君傳記(第1巻)』107頁による。伝記では日付の記載が曖昧だが、『寺村左膳日記』と照合すると、3月28日の箇所に「(容堂公)御忍ニ而楠公ノ墓へ御参り被遊」とありこれに退助も同行している。「お忍び」とあるのは、本来参勤交代で決められたルート以外を通るのは不可のためで、この日、一行は朝五時半頃に出発し、楠公墓をお参りし日没頃に明石に到着し一泊している)
慶應2年(1866)12月(慶應3年(1867)3月頃とも)、勤皇派水戸浪士(筑波挙兵した天狗党の残党)中村勇吉、里見某、相良総三らを土佐藩邸(築地)に匿い、彼らより直接水戸学を学ぶ。(※この浪士らが慶應3年(1867)10月、薩摩藩邸に移り庄内藩を挑発し、戊辰戦争の端緒となる)
●板垣は、日本は世界に勝る精神性を備えた文化であるとし、日本の國體と武士道精神を説き「惡を爲せる者は、其惡の報(むくい)を受け、善を爲せる者は、其善の酬(むくい)を受けざる可(べか)らず、則(すなわ)ち支那に於て秦檜(しんかい)の墓碣が百代の後ち猶(な)ほ土民によりて溺せらるゝに反し、岳飛(がくひ)の廟は神位として祭られ、我邦(わがくに)に在ても足利尊氏は其木像を梟せられ、極端なる侮辱を受くるに反し、楠木正成の碑(いしぶみ)はその忠魂義膽を景仰する所の幾多凴弔(ひょうちょう)の客の涙痕を留むる」と述べ、「生を捨てゝ義を取り、身を殺して仁を爲せる所の志士、仁人は永遠無窮に社會、民心の渇仰てふ實在の天堂に生きる」とし「社會に功勞ある(中略)實在の英雄偉人を追遠紀念して其恩を謝し、之に(己の生き方を)肖らんことを求め」ることや「民族の優者、人類の冠冕(かんべん)(※最も優れている者)として之を崇拝」することは重要で意義があると奨励している。
●板垣退助の腹心の部下、山地元治(陸軍中将・子爵)と、山田喜久馬(土佐藩第一別撰隊長、土佐藩伏見参戦者)は共に、大楠公末裔との伝承のある家系で、退助自身はこの山田家と親族であり、先祖の中には楠木正成も含まれる。

板垣退助の功績

1.薩土討幕の密約を結び戊辰戦争を起こさせた。また近代日本陸軍を創った。

薩土討幕の密約を結び維新回天を惹起した。→土佐藩の軍制刷新・近代式練兵を行う。→討幕軍となり戊辰戦争で勝利。→御親兵となり近衛師団となる。→近代日本陸軍となる。→明治38年に【日本陸軍創設功労者】として陸軍省より正式に表彰され、薨去後大正天皇より誄詞(るいし)を賜う。

2.東アジア初となる国会と自民党の前身を創った。

『億兆安撫国威宣揚御宸翰(おくちょうあんぶこくいせんようのごしんかん)』ならびに『五箇条御誓文』の意を拝し、国会開設活動(自由民権運動)を行い【国会を開設】この時に創った日本初の政治政党「愛国公党」ならびに「自由党」が現在の「自由民主党」の前身となる。

3.北海道の領土売却を阻止し日本の領土を保全した。

●板垣は母成峠で進軍を阻む賊を猛戦して討破り、十六橋を突破し、馳突して会津城下に攻め下った…」敵は十六橋を壊して官軍の進路を阻もうとしたが、板垣らの進軍は予想以上に速く、8月22日にはこの橋に辿り着き、日橋川を渡る。板垣は「会津城下を己の奥都城と思え、立ち止まる者は味方とて斬り捨てる。大小便も走りながらせよ」と命令を発して急ぐ。板垣が会津攻略を急いだ訳は?
●江戸で大村益次郎が発した指令では「枝を刈って幹を枯らせ」というもの。しかし、『奈破翁戦記』を読んでいた板垣はこの作戦に懸念を示した。「仏国(フランス)は強国なれども、しばしば雪山に敗けを知ると聞く。吾等、薩土の兵もまた南国の育ちなれば、今は優勢たりといえど、奥羽の冬を越すに如何…」と私見を述べ「幹を根本から斬らば自(おのづ)と枝も枯れる」と返書し、本命の会津城攻略に的を絞った。薩摩、土佐の兵を御する板垣は、長期戦となることを徹底して避けた。
●この時、軍資金に欠乏した会津藩主・松平容保と庄内藩主・酒井忠篤は、ヘンリー・シュネル(日本名:平松武兵衞)という代理人を通してプロイセンに対し、蝦夷地を「99年間の租借」すなわち、北海道の広大な土地を事実上、売却する提案をしていた(註1)。戊辰戦争ではフランスが幕府に助力し、イギリスが薩摩に協力的であったものの欧州諸国はつとめて「局外中立」の立場を採りこの内戦を静観した。
●実質は欧州が全面的に加勢することで日本列島が欧州の代理戦争の舞台となることを避け、また勝った方と与(くみ)する打算、即ち「勝ち馬に乗る」思惑(おもわく)が欧州にあった。プロイセンの宰相・ビスマルクは日本の内戦に関し「局外中立」の立場から提案を一度は断ったが、三週間後に考えを改め「承諾書」を日本へ送った。プロイセンからの返書が届いたのは会津が落城して一週間後のことで、そのため、この契約は有耶無耶となった(註2)。
●同時期に榎本武揚がポルトガルと結んだ「ガルトネル開墾条約」では五稜郭落城の一週間前に発効されてしまった為に、蝦夷地の一部が治外法権の領土となってしまい、明治政府がその後苦心して違約金を払い買い戻している(註3)。幕末には鎖国をやめるべきかの「開港問題」で「勅許の有無」が大問題となったが、この広大な領土の割譲は、もとより勅許の有無など完全に無視した両藩の独断。いかに切迫した理由があったにせよ、勤皇の立場からは許し難い大罪であった。しかしながら、板垣はその罪を糾弾せず寧(むし)ろ藩主らの助命を嘆願した。それは来(きた)るべき日本を列強の侵略から守るにあたって日本国民の思想的分断を招いてはならないと判断したからである。北海道の広大な土地が海外の領土とならずに今あるのは、土佐藩兵が急ぎに急いで会津を落城させた尽力によるものであることは言を俟(ま)たない。
●戊辰の話になるとよく「官軍が遺体埋葬を禁止した」という怨み節を述べる人がいる。しかし、土佐藩の名誉のために申し上げると、これは、フィクションであって史実ではない。平成28年(2016)12月、会津若松市で発見された『戦死屍取仕末(せんしかばねとりしまつ)金銭(きんせん)入用帳(いりようちょう)』によれば、明治新政府は会津藩降伏の十日後にあたる旧暦十月二日に埋葬を命令しており、翌日の10月3日から同17日にかけ、会津藩士4人が指揮し、会津城(鶴ケ城)郭内外などにあった567体の遺体を発見場所周辺の寺や墓など市内64カ所に集めて埋葬したこと、埋葬経費は74両(現在の約450万円)、のべ384人が動員され、一人当たり1日2朱(同7500円)が支給されたこと、発見当時の服装や遺体の状態などが克明に記されており、「戊辰戦争で戦死した会津藩士の遺体が半年間、野ざらしにされた」という禁止令は史実ではない。
(註1)
【プロイセン蝦夷地租借未遂事件】戊辰戦争の当時、江戸から指示を出していた大村益次郎は「枝を刈って幹を枯らせ」これは「会津に与みする周辺の藩を先に攻略し会津を孤立させてから攻略せよ」との意味であった。会津攻めの総大将であった板垣退助は『ナポレオン戦記』を読んでいたので「フランスは強国なれど、しばしば雪山に負けを知ると聞く。我等南国(土佐・薩摩)の兵たれば、雪国の冬の来たれる迄にこれを討たむ」と早期決戦を立案。薩藩の伊地知正治と合議して大村に「幹を断てば枝も自と枯れる」と伝令を返して激流の阿武隈川を渡り、母成峠を越え、十六橋を渡り、急ぎに急ぎ馳突して会津城下に入った。慶応4年(1868)7月、会津、庄内の両藩は戦費調達の為、北海道をプロイセン(現・ドイツ)に売却した。契約文書では『99年間貸借条約』となっているが、当時の契約文書の語法として事実上の売却を意味していたとされる。プロイセン宰相ビスマルクは、初めは局外中立を保って一度は拒否したが、3週間後に考えを改め「承諾書」を送った。横浜にいた駐日プロイセン公使マックス・フォン・ブラントが書いた外交書簡によれば、貸与期間は具体的に「ヘンリー・シュネル(当時東北にいたプロイセン人の仲介役で日本名・平松武兵衛)が、借り入れに対して蝦夷地の領地を99年間、担保として与えるとする会津藩主松平容保・庄内藩主酒井忠篤の全権委任状を持ってきた。百平方ドイツマイル(5,625平方キロメートル)の土地を得るのに30万メキシコ・ドルで充分であろう」と記されている。(『駐日公使発本国向け外交書簡』ベルリン連邦文書館蔵)プロイセンからの返書が日本に届いたのは、会津が落城して一週間後のことであったため、有耶無耶となったが、板垣が早期決戦を挑まず会津戦争が長期戦となっていたならば、北海道の広範囲はドイツ領となっていたであろう。
(註2)
【会津藩集団海外逃亡未遂事件】「若松コロニー(入植地)」の所在地アメリカ合衆国カリフォルニア州エルドラド郡ゴールド・ヒル。1868年、戊辰戦争に敗戦の色濃厚となった会津藩士らは、商人ジョン・ヘンリー・シュネルを介し米国の土地を購入し海外逃亡を計画したが、官軍に阻止され出航できず。翌1869年5月20日、移民船でサンフランシスコに到着した会津藩士とその家族、シュネルの妻らの一行は、ゴールドラッシュで栄えるゴールド・ヒルへ向かい農地を買い取り、会津藩士が入植した。しかし、1871年4月、若松コロニーが行き詰まったスネルは見切りをつけ「コロニーの資金調達の為」と言い残し、日本人入植者達を残して逃亡。
(註3)
【ガルトネル開墾条約事件】榎本武揚が率いる蝦夷共和国が10月末に箱館を占領し、ポルトガルに対し明治2年2月19日(1869年3月31日)に「蝦夷地七重村開墾条約書」を無断で締結した。その内容は、七重村およびその近傍の約300万坪を99年間租借するというものであった。条約発効の1週間後に、榎本軍の降伏により蝦夷共和国は倒れたが、条約が1週間履行されてしまったため、この土地を足掛かりに蝦夷地が植民地化されるおそれもあることから、明治政府の外務省は11月、ガルトネル開墾条約の契約を破棄するよう伝えたが難航した。明治3年(1870)11月、明治政府が6万2500両の違約金を支払うことでようやく契約を解消した。

4.国技館の創設、居合・競馬の奨励

相撲(国技館の創設)、居合(無双直傳英信流)、競馬(軍馬育成のため)を奨励。

5.文化面での功績

傷痍軍人、女性受刑者の獄中出産した児童の育成、視覚障害者の自立支援など文化面での貢献。→明治憲法発布50年の記念に憲政功労者として国会に銅像が建立された。

6.その他の功績

その他、後藤象二郎の銅像建立(戦時供出)、坂本龍馬を顕彰する石碑建立(桂浜に現存、坂本龍馬の銅像の存在しなかった時代)、明治天皇崩御の時、神社ならびに銅像の建立を発議→明治神宮、銅像は岐阜東照宮などに存在。戊辰戦争の敵側・会津藩の名誉回復に尽力。台湾議会の創設支援など。

板垣退助を標的とした暗殺未遂事件は何回あったか?

記録に残るものとしては計6回の暗殺未遂事件(※戊辰戦争中の狙撃事件を除く)が知られています。著名なものは3回目の岐阜遭難事件でこの時は、板垣がまだ髭を生やす前でした。

文久3年乾退助暗殺未遂事件 – 退助27歳

●文久3年(1863)、京都で土佐勤王党が乾退助(板垣)の暗殺を企てた事件。前年に起きた広田章次暗殺事件と、坂本瀬平刃傷事件に憂慮し、山内容堂が土佐勤王党を遠ざけ乾退助に命じて「上士勤王隊」を組織させたことに対する危機感が原因。同年1月、池内大学が暗殺されたのち乾退助が標的とされた。しかし、4月に乾が失脚し、八月十八日の政変の後、中岡慎太郎が乾退助に会見して交誼を結ぶ。薩土討幕の密約をへて両者は合併し士格別撰隊が組織され、のち土佐藩迅衝隊として戊辰戦争をともに戦う同志となった。

明治元年板垣退助暗殺未遂事件 – 退助32歳

●明治元年閏4月1日(1868年5月22日)、戊辰戦争時日光東照宮での談判に際し、光栄坊に潜伏した旧幕側残置諜者10名が東山道総督府参謀(土佐藩迅衝隊総督)である板垣退助の暗殺を企てた事件。(犯人:6名死亡、3名逃亡、1名捕縛)

明治元年板垣退助暗殺未遂事件 – 退助46歳

●板垣退助岐阜遭難事件 – 明治15年(1882)4月6日に岐阜の神道中教院門前で、相原尚褧が板垣退助の暗殺を謀った事件。「板垣死すとも自由は死せず」の言葉で知られる。
※この岐阜遭難事件の後、欧米視察を行いパリでルイ・ヴィトンの鞄を購入
この頃、髭を伸ばしはじめた

明治17年板垣退助暗殺未遂事件 – 退助48歳

●明治17年(1884)、東京府芝区金杉川口町24番地(現・東京都港区芝1丁目2番地)の東京板垣邸内で刺客が板垣退助の暗殺を謀った事件。

明治24年板垣退助暗殺未遂事件 – 退助54歳

●明治24年(1891)10月20日、東京府神田区神田錦町(現・東京都千代田区神田錦町3丁目3番地 神田税務署)の錦輝館で行われた自由党演説会において板垣退助が『政治の要領』と題する演説を行っている最中、ナイフを所持していた富山県平民・金山米次郎(吏党系の青年義勇団所属)が檀上に飛び上がり板垣退助の暗殺を謀った事件。犯人はその場で逮捕され小川署に連行されている。

明治25年板垣退助暗殺未遂事件 – 退助56歳

●明治25年(1892)2月12日、兵庫県神戸市三ノ宮の路上(現・「神戸元町」)踏切前において鷲田卯蔵が拳銃を用いて板垣退助の暗殺を謀った事件。

1.板垣家のはじまり

先祖

板垣家の祖は、人皇第56代 清和天皇の第六皇子 貞純親王の御子 経基王が源朝臣の姓を賜り臣籍降下したことに始まる。源満仲(873?-916)は、摂津国川辺郡多田庄(現 兵庫県川西市 多田神社附近)を所領として武士団を形成。多田満仲と名乗り、やがて武家棟梁として活躍することとなる清和源氏の祖となった。

 

源義光の曾孫が武田太郎信義(1128-1186)と名乗った信義には五人の子がいたと言われ、長男・逸見太郎有義、次男・一條次郎忠頼、三男・板垣三郎兼信、四男・四郎(早世)、五男・武田五郎信光とそれぞれ分与された所領を名字にした。この武田信光の15代目が、武田信玄晴信(1521-1573)である。

 

板垣家は、三男・板垣三郎兼信に発する家で、甲斐国山梨郡板垣庄を所領としたため、「板垣」を名字とした。始祖・板垣兼信は、治承4年の頼朝挙兵からつき従うが、のちにはその強勢を恐れた源頼朝に疎んぜられ、建久元年(1190)6月晦日、ついに「違勅(命令違反)」という罪科を得て、歿収領知遠江国雙侶荘の地頭職を歿収せられ、隠岐に配流された。兼信の嫡男・板垣四郎頼時も、これに連座して常陸に配流され彼の地で歿した。幸い、兼信の次男・板垣六郎頼重が、甲斐国に残ることが出来たため、代々武田家の親族衆として遇されて武田家に仕えた。


板垣信方(松本楓湖画(1871)模写・個人蔵)


板垣兼信から十五代目にあたる板垣駿河守信方が、武田信虎(1494-1574)の家臣で、武田信玄晴信(1521-1573)の傅役(もりやく)となる。信方は武田四天王の一人で、また武田二十四将の一に数えられる名将である。板垣家の家紋は「花菱(裏花菱)」、信方の馬標は「三日月」であった。

信方は、武田晴信が父信虎を追放して家督を継ぐと家臣団の筆頭格となる。晴信が諏訪氏を滅ぼすと諏訪郡代(上原城城代)となり、諏訪衆を率いて信濃経略戦で戦功をあげた。村上義清と戦った上田原の合戦の時、信方は先陣を務め、諸戦で村上勢を破るが、逆襲を受けて、天文17年2月14日(1548年3月23日)討死した。首実検の最中で、煙草を吸って休憩している際に不意をつかれたという逸話がある。

 

この戦歿地(長野県上田市下之条 若宮八幡宮附近)には五輪塔が立ち、のち鳥居が建てられ板垣神社と呼ばれるようになった。

 

信方が討死した後、嫡男・板垣信憲(弥次郎)が亡父の遺領を相続したが、信憲は有能な家臣を持ちながら出陣命令に従わなかったり、被官をぞんざいに扱った等、幾多の不業績があり、信玄公の勘気を被ることとなって長禅寺に謹慎中のところを同輩であった本郷八郎左衛門に私怨によって殺害されてしまったといわれる。

 

板垣家は、もと甲州武田家の親族衆。武田信玄の傅役・板垣駿河守信方の嫡男・板垣弥次郎信憲が懈怠あって長禅寺に謹慎したが、許されず改易された。また同輩衆・本郷八郎左衛門の私怨によって誅せられたとも言う。この時、信憲の嫡子・正信は、家臣・都築久太夫、北原羽左衛門らに養せられて、のち山内一豊の臣となったと伝えられている。退助は板垣信方より数えて十二世孫にあたる。北原羽左衛門は、土佐入領にも付き従い北原羽左衛門家の歴代墓は、高知に現存する。

1.幼少期

天保8年(1837) 1歳

誕生

天保8年(1837) 4月17日(異説16日)、土佐藩士・馬廻役300石・乾栄六正成の嫡男として高知城下中島町(現・高野寺)に生れる。母は林氏。諱は初め「正躬(まさみ)」と称し、のち「正形(まさかた)」と改めた。号は「無形(むけい)」。幼名猪之助。初諱正躬、のち正形。通称退助。号無形。先祖の本姓は板垣氏で、退助の代は乾氏を称していたが、のち戊辰戦争の際、本姓に復した。

 

命名の由来

退助の幼名・猪之助(いのすけ)は、乾和三(山内備後)の前名「猪助(いのすけ)」からあやかって命名されたもので、乾和三の「猪助」の「猪」の字は、山内猪右衛門と名乗っていた当時の山内一豊公から、和三が「猪」の字を賜ったことによるもの。「猪」は、「猪突猛進」、「猪武者」などと言われ、武士に好まれた動物であった。退助は「猪之助」の名の通り、腕っぷし強そうな相手でも怖いもの知らずで、猪突猛進に喧嘩をしたりと腕白に育ち過ぎたせいで、謹慎処分を受けることしばしば。ついに藩主公から「猪突猛進に突き進む「猪之助」ではなく、一歩、退いたぐらいを心掛けよ」と「退助(たいすけ)」と言う名を賜った。
後藤象二郎(幼名は「保弥太(やすやた)」)とは竹馬の友で、お互い「いのす」、「やす」と呼びあっていた。

 

天保11年(1840) 4歳

馬術の師範・野本氏に従い乗馬を習う。後藤象二郎、片岡健吉らと遊ぶ。

 

天保14年(1843) 7歳

9月9日、惣領御目見。藩主に謁見。総領として公認される。相撲観戦に興じる。

貧婦救済

白小僧の餓鬼大将であった、板垣退助(乾猪之助)の少年時代の話。


龍乗院山門(高知市比島・本会撮影)


ある冬の寒い日、乳飲み子を抱えた貧婦が乾家の門に物乞いに来ました。
家僕が追い払おうとしましたが、貧婦は帰ろうとしません。
猪之助(退助)は、家の中から黙って姉の着物を持ち出し、貧婦に与えました。貧婦は感謝して帰って行きました。姉が着物の無いことに気付いてそのことが露見しましたが、猪之助の母は、経緯を聞いてこれを咎めず、

 

「慈愛の心を以て、民庶を救わんは立国の大本(りっこくのたいほん)なれば、政道に照覧して尤もなり。他日、必ずやこの子は家名を上げさしめんであろう」
(慈悲の精神を以て郷民に向き合うのは、立国の大本(政治の基本)である。子供ながらにその事が分かっているならば、退助は将来、必ず大人物になるだろう)

 

と、かえってこれを褒めた。この乾家の門は、移設され高知市比島の龍乗院の山門として現存している。

 

嘉永元年(1848) 12歳

9月19日 生母・幸子(林氏)が死去。

 

嘉永2年(1849) 13歳

12月14日 弟・乾久馬が死去。戦記物を読み耽る。

 

嘉永3年(1850) 14歳

12月19日 継母・近藤氏が死去。軍学書を読み耽る。

 

嘉永4年(1851) 15歳

腕白盛りで「盛組(さかんぐみ)」の首領として名を売ったが、12月25日 70余名の青年を率いて乱闘事件を起こす。「屹度遠慮(きっとえんりょ/「謹慎」のこと)」の処分を受ける。

 

嘉永5年(1852) 16歳

12月1日 遠慮処分が許される。

 

嘉永6年(1853) 17歳

この年、黒船が来航する。

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2.青年期

安政元年(1854) 18歳

12月28日、来年より江戸勤番をするよう仰せ付けられる。

 

安政2年(1855) 19歳

江戸勤番。11月11日 安政江戸地震の時、冷静沈着に対応し御褒詞を賜う。

 

安政3年(1856) 20歳

江戸勤番より戻る。6月9日自宅に於いて喧嘩。

謫居生活

8月8日、喧嘩によって城下四ケ村(潮江、井口、江ノ口、小高坂)禁足(立ち入り禁止)と「惣領職褫奪(ちだつ)」の重罰(乾家の当主を相続する権利を取上げられる)を受け、土佐郡神田村(現・高知市神田780番地 3)に謫居。庶民と交わる。吉田東洋が自塾で勉学することを誘うが断る。「孫子」を独学する。
しかし、吉田東洋の塾には通わず、門下にもならず、独学で軍学研究を行った。

 

安政5年年(1858) 22歳 

6月19日幕府の大老・井伊直弼が勅許を得ずにアメリカと修好通商条約を結ぶ。いわゆる不平等条約である。これに反発して全国に尊王攘夷論が高まる。

 

安政6年年(1859) 23歳 

2月26日、第十五代藩主山内豊信が隠居し「容堂」と号し謹慎する。5月23日藩主を山内豊範が相続することを幕府が認めたことの恩赦により、退助は高知城下への帰宅を許される。7月18日夜、鏡川の南川原(潮江天満宮北側)で同輩を多数集めて相撲大会を行う。

 

万延元年(1860) 24歳 

3月3日桜田門外の変が起き、井伊直弼が暗殺される。閏3月3日父・乾正成死去。6月26日、昨年七月鏡川の川原で相撲に興じていたことが露見し叱責を受けるが、第16代藩主山内豊範の慈恵の沙汰により跡目相続を認められる。この時、藩主より「退助」の名を賜い改名。8月12日免奉行加役、9月30日免奉行(年貢の調査役)となる。この時、退助が「免奉行」に抜擢されたのは吉田東洋の推挙によるものだった。

通常、吉田東洋の塾に通った者が、吉田東洋によって抜擢され「新おこぜ組」と呼ばれる。しかし、板垣退助だけは例外で、吉田東洋によって抜擢されたので「新おこぜ組」と呼ばれるが、板垣退助自身は吉田東洋の塾に通っておらず、門下生ではない。

吉田東洋の先祖は、旧長曾我部家の家臣で、山内家の土佐入国以降、土佐藩主に仕えた家柄。失脚ののち少林塾(鶴田塾)を構えた。塾名の「少林」は、長曾我部氏の菩提寺から採られたもの。吉田東洋は公武合体を旨としていたが、退助は勤皇・武力討幕を唱え、政治理念には大きく隔たりがあった。にも関わらず、東洋は退助を抜擢する度量の大きさがあった。

門下生ではなかったが、吉田東洋に抜擢された退助

腕白小僧で、勉強嫌いだった退助を見出だしたのが吉田東洋という人物だった。退助が、神田村に謫居していた同じ時に、神田村に謫居していた人物が、吉田東洋と岩崎弥太郎である。特に、岩崎弥太郎の謫居地は、板垣の謫居していた場所と極めて近い。


吉田東洋(江戸時代撮影)


吉田東洋は旧長曾我部家の家臣の家柄。学に秀で藩政の重席に抜擢されたが、ある時、酒の席で理不尽な目に遭い藩の上士との喧嘩となった。結果、一方的に東洋が譴責を受け、藩政を干されて謫居し、神田村に家塾を開いていた。そこに通っていたのが、退助の竹馬の友、後藤象二郎である。象二郎から話を聞いたのか、東洋は謫居中の退助に勉学に励むよう諭した。しかし退助は「武士たるもの主君の為に馬上(戦争)で死ぬ覚悟があれば充分だ。勉学など必要ない」と広言した。

 

東洋は退助をたしなめて、「武士たるもの馬上(戦争)で死ぬ覚悟は元より言うに及ばず、当たり前である。その覚悟があった上で、天下国家を支えるの勉学の道である」と語る。


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3.討幕活動期

文久元年(1861) 25歳

8月武市瑞山が土佐勤王党を結成すると、退助は勤王派の上士として「土佐勤王党同志姓名附」に名を連らねた。退助の叔母(父の妹)が、土佐勤王党の結成に理解のあった平井善之丞であり、武市瑞山と退助は思想的には近いところからスタートしている。

土佐勤王党・間崎哲馬と交わる

退助は土佐勤王党の間崎哲馬と交誼を結び、9月 間崎から退助へ内密の書簡が届く。間崎哲馬(滄浪, 1834-1863)は、土佐藩の田野学館で教鞭をとり、のち高知城下の江の口村に私塾を構えた。教え子には中岡慎太郎、吉村虎太郎などがいたが、この頃、間崎は土佐勤王党の知謀(ブレイン)として活躍していた。

 

愈御勇健御座成され恐賀の至に奉存候。然者別封、封のまま御内密にて御前へ御差上げ仰付けられたく偏に奉願候。参上にて願ひ奉る筈に御座候處、憚りながら両三日又脚病、更に歩行相調(あいととの)ひ申さず、然るに右別封の儀は一刻も早く差上げ奉り度き心願に御座候ゆへ、至極恐れ多くは存じ奉り候へども、書中を以て願ひ奉り候間、左様御容赦仰付けられ度く、且此義に限り御同志の御方へも御他言御断り申上げ度く、其外種々貴意を得奉り度き事も御座候へども、紙面且つ人傳てにては申上げ難く、いづれ全快の上は即日参上、萬々申上ぐべくと奉存候。不宣。
九月十七日 間崎哲馬
乾退助様

 

別封の書面で、勤皇に関する重要人物(青蓮院宮に近い人物)からの機密事項が退助のもとへ届けられたと考えられる。「未開封のまま藩主へ差出して欲しい」とあるため、間崎も退助も書簡の内容は未読であったようだ。

 

10月25日、退助は軍備庶務の掌理(土佐藩江戸藩邸の軍事係・会計係)、御納戸方を命ぜられ江戸へ赴くことになる。

文久3年(1863)、間崎哲馬は、勤皇派が中心となって土佐藩の藩政改革を行うために、青蓮院宮尊融親王(中川宮朝彦親王)の令旨を奉拝せんとした。これに先立つ文久2年(1862)12月、青蓮院宮から令旨を得たが、これが「逆に不遜である」と山内容堂の逆鱗にふれ、文久3年(1863)6月8日、平井収二郎、弘瀬健太と共に間崎哲馬は切腹して果てることになる。間崎哲馬の門人が、中岡慎太郎、吉村虎太郎たちである。

 

文久2年(1862) 26歳

山内容堂侯の側用人となる


山内容堂(江戸時代撮影)


文久2年(1862)2月、退助は、藩の実権を持ちながらも、表向きは隠居し品川の鮫洲の下屋敷にいた前藩主・山内容堂の側用人となり、江戸藩邸の総裁を命じられた。

吉田東洋が暗殺される

文久2年(1862)4月8日、退助が山内容堂の側用人として江戸に在勤中、国元の土佐で吉田東洋が暗殺される事件が起きた。犯人は土佐勤王党員であった。

尊皇攘夷派の人物と交わる

文久2年(1862)10月17日、退助は前藩主山内容堂の御前にて門閥派の寺村左膳と対論。退助は尊皇攘夷を唱え「幕府がもし勅命遵奉なき時は追討して違勅の罪を問うべき」と武力討幕を一貫して主張する。

 

この頃退助は「時勢之議論に打傾き、頻(すこぶる)に外藩人(他藩の藩士)と出会致し、攘夷論を唱へ候者を信用し、御上(藩主)へも時々言上致候」(『寺村左膳道成日記(1)』文久2年10月14日條、63頁)とあるように他藩の人々と時勢を論じ、思想的には「尊皇攘夷」を唱えていた。この日記を書いた寺村左膳は、門閥派の中心人物で、退助とは対極の考え方にあった。

 

文久2年(1862)10月28日三条実美が勅使として江戸に下向し、幕府に攘夷を迫る。これを受けて将軍家茂が上洛することになり、容堂も将軍に付随して上洛を求められた。

 

文久3年(1863) 27歳

1月9日山内容堂は高輪の薩摩藩邸で大久保一蔵(利通)と会見。容堂が勤王の志(京都に己の屍を晒す覚悟)を語り、側近の乾(板垣)退助と小笠原唯八(牧野群馬)は涙を流して喜ぶ。1月10日退助は容堂を警護して江戸を出港し筑前黒田藩の大鵬丸(蒸気船)を借りて京都へ向かう。1月15日海路蒸気船が不調となり下田へ漂着。この時、勝海舟が容堂の宿所を訪ね、坂本龍馬の脱藩を許す事を請う。再出港し大坂に到着。京に上る途次の1月22日、容堂は池内大学を召して時事談義をするが、同晩、土佐勤王党の4人によって池内大学が暗殺される。池内の遺体は難波橋に梟首され、また両耳をそがれ公家の屋敷に投擲される。この行為に激怒した退助は今後、土佐勤王党が暗殺事件を起こした場合、その首領たる武市瑞山を真っ先に討伐すると宣言。2月12日武市が釈明のため退助に会うが、退助はその管理責任を問うて譲らず物別れとなる。土佐勤王党員が退助の暗殺を試みるが果せず(文久三年乾退助暗殺未遂事件)。

大楠公墓所へお参り

京都を出立して土佐への帰路の3月28日山内容堂、乾退助、小笠原唯八らは大楠公墓所(現・湊川神社)へお参りし勤皇を誓う。

退助、罷免される

土佐への帰路、退助は容堂に吉田東洋一派を藩の重職につかせないよう言上した。東洋の暗殺後、土佐は尊王攘夷派と寺村左膳らの門閥派の牛耳ることなり、旧吉田派は蚊帳の外に置かれていた。その為、旧吉田派を再び引き立てると、必ず東洋の仇を討とうして勤王派と軋轢が生じ藩の政局は混乱してしまうからという意見であった。ところが、4月12日、容堂公が土佐に帰ると、改革派(旧吉田派)の人々を登用して重職につかせ、4月26日、退助も勤王派として全役を解かれ失脚してしまう。

 

さらに6月、間崎哲馬が切腹(土勤王党の獄)7月 薩英戦争勃発と、次々と事が起こり、8月18日京都政変。土佐で勤王派が軒並み失脚した。

中岡慎太郎と武力討幕を誓う

8月18日、京都政変の後、8月下旬、中岡慎太郎が失脚中の退助を訪ね、未遂に終わった乾退助暗殺計画を吐露。肝胆相照らして互いに勤皇討幕に尽力することを誓う。その後、中岡慎太郎脱藩。退助は、10月4日、藩政に復帰し仕置役となる。この時の経緯は『維新史料編纂会講演速記録1』127頁に所収の『維新前夜経歴談』などに載せられている。以下その大意を抄録すると、

 


中岡慎太郎(京都・堀與兵衛撮影)


中岡慎太郎は退助に「…貴方(退助)は藩の重職を退かれた(罷免された)ご様子ですね。…もっとも私(中岡)などは何分、藩庁から蛇蠍のように敵視されていて、そもそも小役にも就けない有様で困っておりますが。そこでお伺いしたい。今の藩庁の実権は、何派の誰が握っているのでしょうか」と問うと退助は「その前に先ずは言いたいことがある。中岡君が今日、私の意見を聞きにきた。この意味は何か。私が失脚して、貴方(中岡)が訪ねて来たと云うことは、それによって、始めて土佐勤王党は私を信用する気になったからではないか。そこで一つ貴方にお尋ねせねばならぬが、貴方たちは京都で私(退助)を殺そうと狙っていた事(暗殺計画)があっただろう」と聞いた。中岡は慌てて「イエさう云

ふことはござりませぬ」と返したが、退助は「それはどうもけしからぬ。中岡君に似合わぬ婦女子の言であつて、真の志士たる者は、時としてこやつを殺してでも事を成し遂げんと思い、また、事を成し遂げんためには、こやつと共に死んでも良いと思う。それが本物の志士だ。そうであるのならば、何の遠慮も要らぬ。さきほどの言葉はどうも中岡君に似合はぬ。僕は余程失望した」と語つた。中岡は観念して「これはどうも心外のことで、如何にもその通り、あの時は貴殿(退助)を殺す積りでありました」と語つた。すると退助は喜んで「さう言つて呉れてこそ後の話が出来る。さうであつたらう。しかしながらどうも貴方がた(土佐勤王党)の遣り方といふものは実に野蛮だ。大坂では、容堂公と会談した池内大学を斬り、その首を難波橋に梟首にして晒し、また両耳をそいで、油紙に包み公家の屋敷に投擲した。これを見て喜んでいるのは一部の過激派であって、大多数からは勤王の名そのものを評判を害している。そして、それの行きつく先は、天皇陛下の権威を棄損することになるとは思わんのか?」と。すると中岡は急に神妙な顔になり、しばし黙してから「…それは実に悪うございました」とか細い声で震えながら語った。そして「これからは、斯くの如き手段は使わず、勤王の名に恥じぬよう国事に励みます。どうか是から共にやつて下さい」と心境を述べた。そこで退助は「宜しい。私も国に尽す上に於て、役を罷められたからからどう、役に就いたからどう、と云ふやうなことはない。素より共にやろう」と意気投合し、互いに将来の討幕を約した。その後、9月5日、中岡慎太郎は脱藩し言動を実行に移した。10月14日、退助は、藩の仕置役となり、藩政に復帰した。

 

文久4年/元治元年(1864) 28歳

7月、町奉行となる。8月、藩の大監察(大目付)に任ぜられ、後藤象二郎とともに容堂侯を補佐し、藩政運営の中核となる。藩論を武力討幕にまとめようとするが、後藤らの方針と対立して意見が容れられず。

 

元治2年/慶應元年(1865) 29歳

元治2年1月14日(1865年2月9日)、大監察を解かれ失脚。3月27日(1865年4月22日)、先の在職中、上士加増取調の件で「不念の儀」があったとして謹慎を命ぜられる。4月1日、謹慎が解かれ、江戸へ兵学修行へ出る。幕臣および他藩の士と交わって世の動静を察す。閏5月、土佐で武市瑞山が切腹。退助は江戸で瑞山の悲報に接す。

 

慶應2年(1866) 30歳

慶應2年1月21日(1866年3月7日)、薩長同盟が成立。5月13日、土佐藩より退助に学問および騎兵修行の許可が下りる。退助は幕臣の倉橋長門守、深尾政五郎より蘭式騎兵術を学ぶ。6月7日、第二次長州征伐が始まる。7月20日、德川家茂薨去。9月28日、騎兵修行の命が解かれる。11月江戸で薩摩藩士の吉井友実ら勤皇討幕を目指す諸士と秘かに交流す。12月5日德川慶喜が征夷大将軍に就任。12月25日孝明天皇崩御

 

慶応3年(1867) 31歳

水戸浪士隠匿事件

慶応3年1月9日明治天皇践祚。2月、江戸築地の土佐藩邸へ 退助は水戸勤皇浪士(中村勇吉、相良総三、里見某氏ら)を独断で江戸築地の土佐藩邸に匿う(水戸浪士隠匿事件)。2月15日、島津久光の使者として西郷隆盛が土佐に来て山内容堂に謁す。5月1日、山内容堂が上洛して四賢侯会議に臨むが事態が紛糾する。

薩土討幕の密約

慶応3年5月13三日、京都の中岡慎太郎より退助に「至急上洛して事態を打開すべし」との急報を受け、水戸浪士の身柄を江戸の同志・山田喜久馬(平左衛門)、小笠原謙吉らに任せ江戸を出発。5月18日、京都に到着。東山の近安楼で中岡慎太郎らと討幕を議する。翌日、山内容堂に謁して武力討幕を言上せんとするが、病床を理由に目通り叶わず。5月21日、中岡慎太郎の仲介により薩摩藩 小松帯刀の寓居(薩長同盟が結ばれたのと同じ場所)で、小松帯刀、西郷隆盛、吉井幸輔らと、土佐藩乾(板垣)退助、谷守部(干城)らが武力討幕を議し、薩土討幕の密約を結ぶ。翌5月22日、容堂に築地藩邸の水戸勤王浪士隠匿も含めて、薩土討幕の密約の追認を得る。(同25日、薩摩藩側も重臣会議を開き、武力討幕で藩論を統一した)


中岡慎太郎の手紙


薩土討幕の密約の内容は、①薩摩、土佐の両藩は藩論を武力討幕に統一する。②薩摩が討幕挙兵を行った場合、土佐藩は参戦して薩摩藩と行動を共にする。③薩摩藩が討幕の挙兵を行った時に、まだ土佐藩が藩論を討幕に統一できていなかったとしても、乾退助が盟主となり一箇大隊を率いて、土佐藩を集団で脱藩し、30日以内に薩摩藩兵に加わる。④現在、土佐藩邸に退助が隠匿している水戸藩士は、いずれ有用の者(時がくれば役立つ者)であるため、時期を見計らって、薩摩藩に安全に身柄を引き渡し、討幕の兵に用いる。⑤この密約の内容を保証するために、退助自身は割腹する覚悟で臨み、中岡慎太郎が薩摩藩邸に人質として入り、履行できなければ慎太郎は自決する。というものであった。西郷は「愉快、愉快」と同意し、中岡慎太郎が薩摩藩邸に人質として入るには及ばない。退助の言葉を信頼するということになった。


この会合こそ実に明治維新の土台となったもので、後世の歴史家が「薩土討幕の密約(薩土武力討幕密盟)」と呼ぶものとなる。(これとは別に、一ヶ月後、6月22日(1867年7月23日)、坂本龍馬が仲介して大政奉還の為の同盟「薩土同盟」が結ばれている)

   



翌5月22日、容堂に築地藩邸の水戸勤王浪士隠匿も含めて、薩土討幕の密約の追認を得る。(同25日、薩摩藩側も重臣会議を開き、武力討幕で藩論を統一した)容堂侯は、いづれにせよ武力にて決する時が来ることを悟り、退助に軍令刷新を命じた。

 

退助は大坂で武器の調達を指示し、谷守部、中岡慎太郎らが米国製アルミニー銃300挺を、藩費で購入。退助は、武器を同船し容堂に伴って6月2日土佐に帰藩。6月13日、退助は藩の軍備御用兼帯大監察(大目付)に復職したが、6月22日、後藤象二郎、坂本龍馬らが、京都で薩摩藩と薩土盟約を結び一ヶ月遅れて帰国。大条理を唱え大政 奉還論を説く。(この時点で、土佐藩と薩摩藩は、性格の異なる軍事同盟を二重に結んでいる)

大政奉還は因循姑息の策

慶応3年7月8日、後藤象二郎が山内容堂へ「大政奉還」の策を進言し藩論を統一しようとしたが、退助はこの策を聞いて喜ばず、

 

今更、将軍の政権奉還などは因循姑息の策(旧来の方針を改めないまやかし)である。『大政返上』とは名は美なるも、結局のところ有名虚実にすぎない。今、朝廷が之によって天下に号令せんとするも、その実権が伴はなければ、真実、『大政を奉還した』とは云へぬ。徳川家はもと、家康公の時に馬上(合戦)で天下を取った者である。されば馬上(合戦)で之を斃して朝廷に奉るのでなければ、とても200有余年の覇政は覆へされぬ。無名の師はもとより、王者の与(く)みせぬところであるが、今日、幕府の罪悪は天地に満ちている。さるに敢然と討幕のことをしないで、空名を存するに務むるは甚だ誤りである。(乾退助)

 

と語り、「戦争で一旦作られた秩序は、再び戦争で打ち負かすことでしか覆すことが出来ない。これは古今東西の歴史が証明している」と容堂公に意見を述べたが、容堂公は「退助また過激の説(暴論)を吐くか」と相手にしなかった。結局、退助の意見は容れられず、7月13日、容堂公は大政奉還の建議を認可してしまうのである。

退助は、徳川家が実権をに掌握したままになってしまうことを最も警戒した。実際に、天皇陛下に実権が委ねられていなければ「大政奉還」とは名ばかりで、王政復古の大号令とはならないのである。徳川家が今まで200年余りも権勢を欲しいままにしてきたのは、合戦で勝ち得た権利であるから、この秩序を変えるには合戦をもってしなければならない。実態の無い、名ばかりのことをして喜ぶのは全くの間違いである」と。
(しかし、慶応3年10月3日(1867年10月29日)、寺村左膳、後藤象二郎らの主導により山内容堂を経て幕閣・板倉勝静に「大政奉還建白書」が幕閣に提出されることとなる)

土佐藩の軍制刷新

慶応3年7月13日、容堂は大政奉還の策を認可しながらも、7月17日銃隊設置を許可。退助は土佐で軍務のトップに立ち、軍制改革を断行。格別撰隊、徒士隊、足軽隊を組織。北條流弓隊を廃し銃砲隊を組織して近代式練兵を行う。さらに退助は7月24日、軍備御用その他兼帯の参政(仕置役)となるが、容堂は武力討幕を否定する考えに転じ、8月20日藩政を寺村左膳と後藤象二郎に任せた。

大政奉還派と武力討幕派のせめぎ合い

慶応3年8月20日(1867年9月17日)、退助はアメリカ視察を命ぜられる(実現せず)。この意図は、表向きは「南北戦争(1861-1865)での近代戦を学ばせるため」との名分であるが、実態は「大政奉還」に反対する退助を藩政から遠ざけるため、寺村や後藤によって仕組まれたものであった。

結局のところ、アメリカ視察は即日撤回されたが、退助は寺村左膳らにより、翌8月21日、全役職を剥奪され失脚させられる。しかし、9月3日京都で赤松小三郎が暗殺されると、薩摩側は思惑の違いから大政奉還論を遠避けて薩土盟約は破綻。9月6日この破綻を受けて退助が復職すると、獄中にいる土佐勤王党の安岡正美、島村雅事らを釈放させた。これにより退助は旧土佐勤王党300余名の支持を得る。

左行秀の裏切り

ところが、9月9日、江戸で退助と昵懇であった刀工豊永久左衛門(左行秀)が裏切り、「退助らが水戸浪士を藩邸内に隠匿している」と藩庁に密告。土佐勤王党の清岡公張(半四郎)らが退助の身を案じ、島村寿太郎(武市瑞山の妻・富子の弟)を通じて脱藩を勧めるが退助は「容堂公は(水戸浪士隠匿を)了承されている」と返答し脱藩を固辞。薩土討幕の密約の存在を知らない寺村左膳らは退助を切腹させようと目論み、これを容堂に報告するが、容堂は「余は(水戸浪士隠匿を)承知しておった」と語り、さらに「退助は過激な言動が多いものの、その心は純粋で少しの邪心もなく私利私欲の為に動いている男ではない」として不問に付された。

坂本龍馬の本心

慶応3年9月14日、退助の盟友・小笠原謙吉(牧野群馬の実弟)、別府彦九郎らが、江戸から上洛し京都藩邸内の寺村左膳、後藤象二郎らへ武力討幕を説得するが叶わず。9月24日坂本龍馬は、薩土討幕の密約に呼応してライフル銃1000丁を独断で購入し土佐に帰藩。藩の参政・渡辺弥久馬(斎藤利行)に対して「乾氏(板垣退助)はいかゞに候や。早々拜顔の上、万情申述度、一刻を争て奉急報候。謹言」と書簡を送り、「大政奉還の策は芝居であり、幕府の実権を解体し武力討幕を断行すべきが本策」である旨を告げようとするが果せず。(※これより4日前の9月20日には長州の木戸孝允に対して、大政奉還を「大芝居の一件」と自ら評し「小弟(坂本龍馬)思ふに是より(土佐に)かへり乾(板垣)退助に引合(ひきあい)置き、夫(それ)より上國(京都)に出候て後藤庄(象)次郎を國にかへすか、又は長崎へ出すかに可仕(つかまつる)べきと存申候」とその目的を伝える書簡を送っている)

土佐藩歩兵大隊司令を兼任

この頃になっても、大政奉還派と武力討幕派はせめぎ合いを続けていた。もっともこれは土佐藩のことばかりではなく、全国各藩も佐幕か勤王かで揺れ動き、朝令暮改が多くあった。慶応3年9月29日(1867年10月26日)、退助は、土佐藩歩兵大隊司令を兼任を命ぜらる。しかし、大政奉還論に舵を切った藩庁は、過激な論を吐く武力討幕派の退助を警戒し、慶応3年10月8日、退助は土佐藩歩兵大隊司令を解任される。

水戸浪士を薩摩藩邸移管

大政奉還論に舵を切った土佐藩にとって、退助が築地の邸内に隠匿していた水戸浪士が不要の存在となった。大政奉還派は土佐藩邸から追放しようとし、武力討幕派は安全に薩摩藩に引き渡したいと考え、奇しくも両者の利害が一致し、水戸浪士・中村勇吉、相楽総三、里見某氏らが率いる諸士は幕吏の目を盗んで、薩摩藩邸に移管された。(この浪士らがのちに幕府を挑発し、戊辰戦争の発端となる)

討幕の密勅と大政奉還

慶応3年10月13日、薩長両藩に「討幕の密勅」が下る。しかし、慶応3年10月14日(1867年11月9日)、第15代将軍・徳川慶喜が「大政奉還」を明治天皇に奏上し、翌15日、勅許されると「討幕の密勅」は決行を保留された。

脱藩を決意

「討幕密勅」の保留により、薩摩藩に移管された水戸浪士らが西郷の指揮のもと幕府を挑発を開始。この頃、幕府側・他藩の佐幕派にとっても「大政奉還」を反対し、その措置に憤懣甚しい思いを持つ者が現れ、日本国内は不穏な空気に包まれていた。

 

慶応3年10月19日(1867年11月14日)、「大政奉還」が勅許されたことにより、武力討幕を一貫して主張した退助は総ての役職を免ぜられ失脚。退助は失職したが、西郷との「薩兵が討幕の挙兵をした場合、一箇大隊を率いて加勢する」との約束を守るべく、「脱藩上書」を作り、その時に備えた。

 

此度、私共御下知に先だち、皇京の急難に趨き、御國の爲、死力を盡し候儀、聊も軽擧に相當らず可きと申すやに候得ども、根元 両殿様、宇内の形勢、御洞察あそばされ、先年ならび已來、尊攘の大義、時々御告諭おおせつけられ候を以て、義勇の御誠意、私供の心魂に相徹し、自然一箇敵愾の気と相成り候上は、今日に当り未だ出陣おおせつけられず候得ども、從來の御本意(※勤皇討幕)に相基づき、眼前の変動は今更とどまり難たく、やむをえず、暫時の御暇を願いたてまつり候。

 

抑も今日に至り、幕府の大罪は枚挙にいとまあらず候儀に相したため候。就いては、それの年 勅命、初めて幕府に下り候みぎり、奉違の二途に拠り、御去就をお定め思召しあそばされあらせられ候以來、追々世運に従ひ御動静も種々あらせられ候得ども、勤王の御誠意は前後とも御一貫にあらせられ候を以て、御國の御令聞、御美名赫々として親父母の如く仰望たてまつり、隨て御臣下の者共感喜踊躍相競ひ罷りあり候ところ、今日に至り候ても(※討幕)御実行の相顕われ申さず候を以て、漸く有名無実の御虚飾と相唱え候者もこれあり哉に承知致し候。

 

然に當今、幕府の逆炎、益々相募り、外夷に諂ひ、微弱の 朝廷を凌侮し、元悪大憝、苟くも 皇國の恩を知る者、扼腕切歯に不堪場合、薩州侯と仰せ合せられ御上京の上、 皇國の御基本に御立返り(※勤王)あそばされ候に付、必死の分を相盡し候様、以下まで拝承おおせつけられ、実を以て一同踊躍まかりあり候ところ、不計も御病症の御発動あらせられ、やむを得ず御帰國あそばされ候に付、彼藩に於ても一同落膽仕り候趣。剰へ御側の姦吏の所爲にも候哉。薩侯、御内談の事ども、会藩(※会津藩)へ漏れ候事件もこれあり候趣を以て、彼藩(※薩摩藩)の者ども御國(※土佐藩)を指し、反覆(※裏切り者)と相唱へ候趣、内々相聞へ候。然るに後藤象二郎、大政奉還の儀を相唱へ、彼藩と盟約の趣を以て、尚又、思召し伺いたてまつり候処、御別慮なされず、再び御懸合に相成り候趣に候得ども、「有文事者必有武備」の定理をも相辨へず、口舌を主張し、一兵をも率ゐず、且、前議と齟齬の筋もこれありを以て、彼藩疑念相蓄へ、差迫り候密事も相謀り申さず、進退、維に至り候趣、勿論、象二郎に於ては頓着これなきに候得ども、堂々たる大國、互ひに大事を謀り、有始無終の謗りを受け候様に相成り候ては、祖宗千載の御瑕瑾に相成り、両殿様の御意外の御恥辱と存入、私供、死生を顧みず、乍恐是迄の御志を継ぎ、違 勅の幕臣(※德川慶喜)を払ひ、一度 今上之御宸襟を奉安候功業を以て、両殿様、御恩澤の萬に一を報じたてまつりたく、又、志を貫き申さざる節は、一切の悪名、私供が甘受つかまつり、御國(※土佐藩)将來の御迷惑は決して相懸け申さず、赤心存じ入り候処、神明に誓ひ聊か虚辞これ無き候に付、千萬格別の御仁恕を以て、右、件之通り暫時之御暇、一同願いたてまつり候。

 

— 乾退助

 

坂本龍馬、中岡慎太郎が逝く

慶応3年11月15日(1867年12月10日)、勤皇の同志である坂本龍馬、中岡慎太郎らが京都で暗殺される。大政奉還のその後の措置に不満を持つ者たちの犯行であった。

 

坂本龍馬が亡くなったのは11月15日で、翌日に藤吉が逝き、その2日後の11月17日に中岡慎太郎は歿した。慎太郎は、将来のことを、いろいろ言い遺し、特にこの時、土佐の国許にいた退助に対しては「御承知の如く、癸丑以来、天下の有志輩に婦女子同様なりと嘲弄されし関東武士の中にも、現に此度の刺客の如き非常の決断をなす者、出で来る程の時勢に候へば、本藩に於てもゆめゆめ御油断あるべからず」と申し送らせた。この時、両雄を暗殺したのは新撰組の浪士であろうと噂された。

王政復古の大号令

慶応3年12月5日、山内容堂は失脚した退助を土佐に残し、藩兵を率いて発駕。7日海路大坂に到着。
8日京都に到着し警固につく。

 

12月9日(1868年1月3日)、王政復古の大号令が発せられる。

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4.戊辰戦争

小御所会議

慶応3年12月9日(1868年1月3日)、明治天皇が王政復古の大号令を渙発あらせらる。同日小御所会議によって徳川慶喜の辞官納地が決定するが、これを不服とする慶喜は、二条城から退去し大坂城に籠る。江戸では、幕府側についた庄内藩が水戸浪士の挑発への報復として、12月25日薩摩藩邸を放火。12月28日、京都で谷守部が薩摩藩西郷隆盛の陣営に呼ばれ「まもなく合戦が始まる。薩土討幕の密約を履行し、退助を大将として土佐藩兵は薩摩兵と行動を共にせよ」と告げられる。京都藩邸の容堂、後藤象二郎、寺村左膳らは大政奉還による解決を模索していたが兵力の補充の要を酌み、土佐より片岡健吉を大将として兵を率いて上洛するよう指示し、乾退助だけは絶対に上洛させるなと厳命される。

 

慶応4年/明治元年(1868) 32歳

戊辰の開戦と退助の復職

慶応4年/明治元年1月1日、谷守部は、従者森脇唯次郎を伴い、伝令として土佐へ向けて出発。その途中、1月3日瀧川具挙(播磨守)が「討薩表」を持って上京したことがきっかけとなり、銃撃が始まり戊辰戦争の開戦となる。鳥羽方面の戦い勃発。

容堂はこれは私闘にすぎず、土佐藩兵は参戦するなと伝令を差し向けるが、翌4日伏見方面を警固の土佐藩兵、山田喜久馬(土佐藩 第一別撰隊隊長)、吉松速之助(土佐藩 第一別撰隊隊長)、北村長兵衛、二川元助らの各部隊は、薩土討幕の密約を履行して参戦。しかし、去就に悩み藩命を重視して参戦しなかった部隊(渋谷隊)などもあった。合戦は勝利したが、藩命に違反して参戦した罪で、山田、吉松ら司令官に切腹処分が下ろうかとする時、御所に錦の御旗が翻る。藩庁は動揺し処分保留となる。

慶応4年/明治元年1月6日、谷守部らが土佐に到着。追手の第二便、第三便の早馬により、鳥羽伏見で戦闘が開始されたこと、幕軍が敗走したことが土佐の国許に伝わる。京都の土佐藩庁の「退助を上洛させるな」との指示を反故にするため、藩主たる山内豊範の指示を仰ぎ、1月8日、退助は失脚を解かれ土佐藩大隊司令に復職。(11日、京都で土佐藩に対し讃岐高松、伊予松山、及び天領川之江征討の勅命と錦の御旗2旒が下賜せらる)退助は「京都で合戦が始まった」と聞き、飛び上がって喜んだ。薩土討幕の密約を履行する時が来たのである。

板垣退助の戊辰東征

慶応4年/明治元年1月13日、退助は迅衝隊大隊司令に任命され、土佐の致道館より出陣。高松、川之江を鎮撫。19日未明鳥坂峠を越えて讃岐丸亀城下で本山只一郎、伴正順、樋口真吉が京都より伝奏した錦の御旗を拝受。20日、錦旗を先頭に、丸亀・多度津両藩兵を先鋒として、丸亀から高松城下まで進軍。21日退助は丸亀に戻り、在京の山内容堂や佐幕派の上士らを説得するため船で海路京都を目指す。28日京都に入ると容堂は退助を許して武力討幕に藩論を統一。2月14日、御親征東山道総督府軍先鋒参謀(迅衝隊総督)として官軍を率いて進軍(この日は退助の先祖・板垣駿河守信方の討死より320年目にあたる命日)。

慶応4年/明治元年2月18日、美濃大垣で姓を板垣に復す。

慶応4年/明治元年3月6日、甲州勝沼で大久保剛(近藤勇)ら率いる幕軍・甲陽鎮撫隊を撃破。11日退助は武州八王子に進軍し、3月14日、四ツ谷新宿内藤藩邸に在陣(同日、五箇条の御誓文、億兆安撫国威宣揚御宸翰下さる)17日、甲府で退助の部隊を支援する断金隊が結成され、退助の部隊を追って東征。18日、退助は市ヶ谷の尾州德川邸を本陣とし軍事演習を行う(現・防衛省本部)。

江戸城無血開城の後、4月17日宇都宮救援の命が下り、18日、東北へ出陣。22日安塚で合戦、29日、野州今市を攻略して進軍。閏4月1日、日光東照宮を参詣し戦火に罹るのを防ぐ。しかし、この裏では実際には神宝は秘かに会津藩へ退避し、光栄坊に負傷兵を装った残置諜者十名が板垣を狙撃しようと潜伏していた。斥候の報告により、谷、二川元助、小笠原謙吉らがこれを発見し討伐。退助は、平和裏に開山したことを示すため、東照宮を叱責せず、宇都宮巌亮、安居院慈立、桜本院道純らの労に免じてこれを不問とした(明治元年板垣退助暗殺未遂事件)。

慶応4年/明治元年5月、白河城に進軍し、6月、東山道総督府参謀を辞して、新たに大総督府参謀補助となり、薩摩兵と共に、棚倉攻略、三春藩恭順を策す。6月25日棚倉に入り蓮家寺を本陣とする。(7月17日江戸を東京と改称)8月21日石筵口で勝利。22日母成峠で大鳥圭介、土方歳三らを撃ち破り快進撃を続けて、23日若松城下に迫る。(九月八日慶応を明治と改元)9月19日会津藩重臣が降伏を乞う。明治元年9月22日、会津藩降伏。

さて、この快進撃の裏で何が起きていたか。明治元年7月、会津、庄内の両藩は戦費調達の為、北海道をプロイセン(現・ドイツ)に売却することを提案。プロイセン宰相ビスマルクは、初めは局外中立を保って拒否したが、三週間後に考えを改め「承諾書」を送った。横浜にいた駐日プロイセン公使マックス・フォン・ブラントが書いた外交書簡によれば、「ヘンリー・シュネル(当時東北にいたプロイセン人の仲介役で日本名・平松武兵衛)が、借り入れに対して蝦夷地の領地を九十九年間、担保として与えるとする会津藩主松平容保と・庄内藩主酒井忠篤の全権委任状を持ってきた。100平方ドイツマイル(5,625平方km)の土地を得るのに30万メキシコ・ドルで充分であろう」と記されている。(『駐日公使発本国向け外交書簡』ベルリン連邦文書館蔵)プロイセンからの返書が日本に届いたのは、会津が落城して一週間後のことであったためこの契約は反故となったが、同時期に榎本武揚がポルトガルと結んだ「ガルトネル開墾条約」では五稜郭落城の一週間前に発効されてしまった為に、蝦夷地の一部が治外法権の領土となり明治政府がその後苦心して違約金を払い買い戻している。

板垣が早期決戦を挑まず、会津戦争が長期戦となっていたならば、北海道の広範囲はプロイセン領となっていたことは確実であり、幕末には鎖国をやめるべきかの「開港問題」で「勅許の有無」が大問題となったのに比して広大な領土の無断割譲は許し難い大罪と考える閣僚がいた中で、退助はその罪を糾弾せず、むしろ藩主らの助命を嘆願。それは来るべき日本を列強の侵略から守るにあたって日本国民の思想的分断を招いてはならないと判断したことによる。

明治元年10月13日、明治天皇が江戸城に御到着。10月19日土佐藩兵第一陣が東京に凱旋。10月25日、退助が東京に凱旋し土佐藩上屋敷にて山内容堂の慰労を受ける。26日、有栖川大総督宮に拝謁。11月1日、江戸城西丸の筋違馬場御殿大庭において明治天皇の閲兵を受け勅諭を拝す。退助に御太刀料三百両と素焼の天盃を下賜あらせらる。11月5日、高知に凱旋。致道館において藩主山内豊範より親閲、慰労の辞を賜う。11月23日、土佐藩陸軍総督御家老格を命ぜらる。29日、致道館で戊辰戦歿者招魂祭を斎行。12月2日、仁井田浜で戦歿者を弔い砲銃を連射した。

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5.明治維新期

明治2年(1869) 33歳

明治2年1月5日、藩主山内豊範の上洛に随行して海路で高知を出発(同日横井小楠が暗殺される)。2月9日、高知藩大参事として藩主に従い京都に入る。同月、薩摩・長州・土佐の3藩が奏上して九門(皇居)の警固を願い兵士を置いて不慮の事態に備えることを許される。3月13日、本姓板垣への復姓許可さる。3月25日、戊辰戦争の論功行賞として増知600石、役領知200石を与えられ、都合1000石の家老格となる。また感状ならびに御刀一口も与えられ、山内家の裏家紋「土佐桐」の永代使用を特別に許可される。退助はこれを誉れとし、以後板垣家の家紋として使用する。3月26日、東京へ向けて海路出発。3月28日、京都に還幸されていた明治天皇が再び東京城に入御せられ、諸侯を召集さる。4月9日、明治新政府の徴士参与を拝し、さらに5月、参与に任命され、行政機務取扱となり、賞典取調掛専任となる。6月2日大久保利通、木戸孝允、後藤象二郎らと共にその勤労を賞され、賞典禄千石を下賜される。(6月17日藩籍奉還が実施される)
明治2年6月20日、御親兵創設のために退助は高知藩の軍制をフランス式に改正し、旧幕側の沼間守一、フランス砲兵少尉アントアン等を招聘した。沼間守一は高知藩士に英語を講義す。28日退助は神祇官の行幸に供奉する。29日、東京九段に東京招魂社(現・靖國神社)が造営され、戊辰の戦歿者を祀る。7月8日、待詔院学士に補される。8月、待詔院学士を辞任。10月6日、東京・高知の往来を許され帰藩。土佐藩の銃器購入に奔走。10月10日、高知藩兵の仏式練兵開始。25日、第三等官高知藩権大参事・軍務局兼任となる。11月24日、土佐藩士の旧来の格式を廃し、新たに軍隊式に等級を定める。27日、第二等官権大参事兼軍務局大幹事となる。四国十三藩会議所を讃州琴平に開設する。

 

明治3年(1870) 34歳

6月、東京の大槌屋で、退助と佐々木高行が征韓を激論す。8月14日、明治新政府より普仏戦争視察のため欧州派遣の命を受ける。27日、退助が欧州派遣の命を辞退。28日、退助の代わりに林有造が、大山巌、品川弥次郎と共に普仏戦争視察に出発す。8月29日退助は藩命により高知へ帰藩。九月第二等官高知藩権大参事となる。9月27日、四国十三藩会議所を廃止。10月19日、第一等官高知藩大参事となる。人民平均の理を起草し、権大参事福岡孝弟を伴い、閏10月22日、海路上京。山内容堂の許可を得て太政官より政府に対し、許可を求める。政府は「時期尚早」として難色を示すも「高知藩内に限り」布告することを許可す。板垣と福岡は品川から海路高知に戻り、12月10日、高知に帰藩。12月24日、武士の常職を解き、四民平等に兵隊常備の義務を布告し、国民皆兵の道を開く(人民平均の理)。

 

明治4年(1871) 35歳

明治4年1月17日、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、杉孫七郎ら来高。19日、九反田の寅賓館(旧・開成館)で西郷、木戸、大久保、杉、板垣、福岡らと御親兵献上を議す。2月7日、退助が右大臣三条実美邸を訪問し御親兵献上を進言。2月13日、御親兵献上の命が下さる。5月から6月にかけて薩摩・長州・土佐の3藩の兵を朝廷に献ずる。(土佐藩は、歩兵第二大隊、騎兵二小隊、砲兵二大隊、工兵二小隊の計1710名)土佐藩の礼砲によって近代日本陸軍が創設される。7月14日、西郷、木戸、大久保と共に、廃藩置県を行う。同日参議從四位に叙され、工部卿を兼ねた。8月28日、明治政府が解放令を布告。12月8日、正四位に陞叙。東京駿河台に寓居し、のち木挽町に移る。

 

明治5年(1872) 36歳

明治5年2月1日、壬申戸籍編成。本籍地を高知市中嶋町44番屋敷(現・高野寺)とし、退助自身は東京府(第一大区十小区)木挽町1丁目24番地(現・東京都中央区銀座1丁目24番地 銀座タワー)の銀座邸に寄留。宗旨を神道(氏神・潮江天満宮)とす。中嶋町の本邸はのち地番整理により「高知市中島町69番屋敷」となる。4月12日、山梨県の恵林寺で武田信玄の第三百回忌法要が斎行され、板垣信方の嫡系子孫として参列。松本楓湖画の板垣信方肖像画の賛を揮毫。6月21日、山内容堂薨去。

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6.自由民権活動期

明治6年(1873) 37歳

明治6年10月、征韓論の議論が起こり、西郷、副島、後藤、江藤などと共に大いに斡旋をする。10月25日、参議を辞職する。

 

明治7年(1874) 38歳

明治7年1月12日、副島、江藤、後藤、由利、小室らと愛国公党を組織する(自民党の源流)。1月17日、民撰議院設立の建白書を左院に提出する。4月、土佐に立志社を創立。板垣自身は土佐の本邸に戻るが、9月21日、側室・清女(東京金春芸者の小清)が東京木挽町の銀座邸で死去。10月、征台事件に関係して、三条実美から密書が届く。

 

明治8年(1875) 39歳

明治8年2月、大阪会議に臨み、木戸、大久保と会合する。東京に居を移す。3月7日、明治天皇よりお召しがあり勅使(侍従 森寺常徳)が遣わさる。翌8日、参内し、明治天皇に国政を奏上。3月12日、参議に復帰する。3月17日、政体取調を命じられる。4月14日、漸次立憲政体樹立の詔が下さる。9月、左大臣島津久光と共に、内閣分離の議を主張し、10月27日、参議を辞任。11月、愛国社を組織する。

 

明治9年(1876) 40歳

明治9年10月28日、旧幕臣栗本鋤雲の仲介により、大鳥圭介と上野精養軒で六時間にわたり親しく会食し、戊辰戦争当時の回顧談をする(後藤象二郎も同席)。

 

明治10年(1877) 41歳

明治10年2月15日、西南戦争勃発。6月、立志社総代片岡健吉に国会開設の建白書を京都行在所に提出させる。9月24日、西郷隆盛自刃。10月31日、退助、高知県土佐郡(第九大区一小区)潮江村新田一番地を本籍地とし高知に住居を戻す。

 

明治11年(1878) 42歳

明治11年3月、四国愛国社の再興趣旨を天下に頒布し、杉田定一、栗原亮一、植木枝盛、安岡道太郎らを畿内、北陸、山陰、山陽、四国、九州に派遣する。5月14日、大久保利通暗殺事件(紀尾井坂の変)あり。これに対して立志社社員は意気揚々として「政府の奸物は愛国有志の為に斃されたり」等の過激な論あり。6月、福岡の頭山満は奈良原臻とともに板垣らが西郷隆盛の仇を討って決起する覚悟なのか本心を聞くため来高。板垣は暗殺事件を喜ばず、むしろ時代の変遷を説き、今は自由民権によって国家を改革すべき時であることを諭す。頭山らは高陽社を宿舎として自由民権を学ぶ。9月14日、愛国社再興大会が大阪で開催される。11月 土佐州会を開き、退助は第九大区の州会議員に選ばれる。12月、福岡に帰郷した頭山は民権結社「向陽社(玄洋社の前身)」を設立。

 

明治12年(1879) 43歳

明治12年3月27日、愛国社第二回大会を開催する。11月6日、愛国社第三回大会を開催し、翌年3月を期して「国会開設請願書」を天皇に上奏できるよう決議。

 

明治13年(1880) 44歳

明治13年3月15日、愛国社第四回大会において、「国会開設請願書」を作成し、片岡健吉、河野広中を総代委員として上京させる。この頃、頭山満が二度目の来高。頭山は楠瀬喜多の家に寄宿。11月、「愛国社」を改めて、「国会期成同盟」とする。

 

明治14年(1881) 45歳

明治14年4月、高知中島町の板垣旧邸(生誕地)を高野山真言宗が買取る。8月10日、退助が大阪戎座で政談演説会を開催する。9月、東北地方を遊説する。10月12日、国会開設の大詔が煥発あらせらる。これに呼応して「国会期成同盟」を解散し「自由党」が結成され、12月29日に推されてその総理(総裁)となる。

 

明治15年(1882) 46歳

明治15年2月、竹内綱、宮地茂春らを従えて東海道を遊説する。3月「自由党の尊王論」を著す。4月6日、岐阜の神道中教院(織田信長公邸跡横)で相原尚褧の凶刃に襲われる。この時「板垣死すとも自由は死せず」の言葉が広く報道される(板垣退助岐阜遭難事件)。4月12日、慰問のための侍従西四辻公業を勅使として下され、明治天皇より「板垣は国家の元勲なり。捨て置くべきにあらず」との御詞を賜い、御手許金三百円が下賜される(この御手許金は終生保管され使われなかった)。4月21日、大阪今橋の真島襄一郎方に静養中の板垣を同志社社長の新島襄が見舞う。本山団蔵重隆より竹内流捕手腰廻小具足術(呑敵流柔術)の免許皆伝を允許される。6月29日「自由新聞社」を創立する。6月30日、退助を主人公とする芝居「東洋自由曙」が高知の堀詰座で上演される。八月退助、駿河台の岩崎邸に寓居す。徳富蘇峰が来訪す。11月11日、後藤象二郎とともに欧州の情勢を視察のため洋行。

 

明治16年(1883) 47歳

明治16年1月9日、パリのルイ・ヴィトン本店でシリアルナンバー7720番の鞄を購入。この頃、はじめて髭を生やし始める。政治家のジョルジュ・クレマンソー、文豪ビクトル・ユーゴー、学者のハーバート・スペンサー、エミール・アコラスらと会談し、6月23日、欧州より帰国する。高知では丸山台で帰国歓迎会が盛大に催される。8月22日、関西大懇親会を開催する。(7月19日、高知中島町の板垣旧邸に高野寺が建築せらる)

 

明治17年(1884) 48歳

明治17年2月12日、自由党総理に再選。4月、東京府芝区芝金杉川口町24番地で、長崎県出身の京都祇園の芸妓・荒木絹子を側室として同居開始。5月、芝区金杉川口町の板垣邸内に凶賊が侵入し日本刀で就寝中の退助を襲う。側室の絹子が異変を察知し護衛役の中西幸猪と山内一正が逃亡する敵を追跡(明治17年板垣退助暗殺未遂事件)。10月29日、自由党を解党し、趣意書を公表する。

 

明治18年(1885) 49歳

明治18年1月12日、側室絹子を同伴して高知へ帰郷。6月28日、唐人町の別宅で正室鈴子死去。側室絹子を福岡孝弟の養女とする。7月18日、退助は軽症の麻疹により高知病院長本田医師、楠正興医師の診察を受ける。

 

明治20年(1887) 51歳

明治20年1月11日、側室政野と離別。5月、本籍地を東京府麻布区麻布今井町35番地(現・東京都港区六本木4丁目2番20号 パークサイド六本木)に移す。5月9日、特旨をもって伯爵に叙さる。再三、書面にて辞退するも許されず。国政に関して上表して意見を述べる。竹内綱が三顧の礼を説き、遂に爵位を受ける。8月20日、東京府芝区高輪南町18番地華族・後藤象二郎邸(現・品川プリンスホテル)に同居。12月26日従三位に叙される。

 

明治22年(1889) 53歳

明治22年2月11日、大日本国憲法発布。3月6日、側室絹子を正室として迎える。憲法発布の恩赦に岐阜遭難事件の犯人・相原尚褧が漏れていることに気づき、3月13日、退助が「赦免哀願書」を明治天皇に奉呈。これにより相原尚褧が恩赦される。5月11日、板垣邸に相原尚褧が謝罪に訪れる。12月19日、旧友懇親会を大阪で開催し、愛国公党を再興。

 

明治22年(1890) 54歳

明治23年1月3日「愛国公党組織趣意書」を天下に頒布する。同13日、近畿地方を遊説する。5月14日「愛国公党」、「(再興)自由党」、「大同倶楽部」の三派が合同し「庚寅倶楽部」となる。7月奈良の専立寺で「大和全国自由懇親会」を開き演説。8月、立憲自由党を結成。9月26日、貴族院勅撰議員の内命を辞退。10月20日「自由新聞」を発刊。

 

明治24年(1891) 55歳

明治24年3月、立憲自由党の大阪大会でこれを自由党と改称し再び総理(総裁)に選ばれた。5月8日靖國神社で、武市瑞山の追贈(贈正四位)奉告式が挙行され、退助が祭文を奏上。6月から8月にかけ東北七州を遊説。各地で2000人規模の演説会を行い、大歓迎を受ける。8月4日、函館到着。北海道を遊説。11日北海道庁長官、屯田兵司令長官と会見。8月13日(板垣退助岐阜遭難事件の犯人・相原尚褧の収監されていた場所)空知・樺戸集治監を訪ね、服役者を慰問。15日、白老でアイヌの家を訪問。東北同様に各地で大歓待あり。17日、青森着。再び東北各地を遊説。9月16日、帰京。10月20日、東京府神田区神田錦町(現・東京都千代田区神田錦町3丁目3番地 神田税務署)の錦輝館で行われた自由党演説会において、板垣退助が『政治の要領』と題する演説を行っている最中、ナイフを所持していた富山県平民・金山米次郎(青年義勇団所属)が檀上に飛び上がって板垣退助の暗殺を謀る(明治24年板垣退助暗殺未遂事件

 

明治25年(1892) 56歳

明治25年2月12日、に第二回衆議院議員総選挙の応援演説のため、兵庫県神戸市を訪れた。板垣退助を乘せた人力車が三ノ宮(現・元町)の駅を出て線路の踏切を渡ろうとした際、鷲田卯蔵が拳銃で板垣を狙撃しようとしたが、護衛役の旧因州鳥取藩士・佐藤歳造がこれに気づき身を挺してかばう(明治25年板垣退助暗殺未遂件)。同晩、播州龍野での演説会でも身を狙われた。板垣は関西遊説に先だち東京で「国民を味方として死生を共にし、終局の勝利を得るのほかなし」と意を決し演説に臨んでいる。3月20日、本籍地を東京市麻布区麻布材木町63番地(現・東京都港区六本木6丁目4番1号 六本木ヒルズ・ノースタワーの向い附近)に移し転居。10月25日「海軍拡張策」を発表。11月、奥州白河の長寿院に「白河役陣亡諸士碑」を有志らと建立。

 

明治26年(1893) 57歳

明治26年3月、高知に帰郷。4月、無双直伝英信流居合と松嶋流棒術の衰微を歎き、居合は五藤孫兵衛正亮、棒術は横田七次を師範とし竹村与右衛門邸の一角を道場として子弟を育てるよう尽力する。5月1日、姫路で演説。3日、出石見性寺で演説(聴衆1500余名)八鹿町の西村庄兵衛宅にて歓待。村岡町巌浄寺で「会津落城と芋」の話を講演。その後、鳥取、島根、山口、広島、大阪、京都を遊説。29日、帰京。6月16日、正三位に叙せられる。9月20日、栗原亮一・宇田友猪編纂の「板垣退助君伝」出版。10月6日、今市回向院の戊辰戦争戦歿諸士の墓を参る。7日、日光東照宮に参り、十王堂戦歿者の墓に参る。28日、栃木の定願寺で演説(聴衆5000人)

 

明治27年(1894) 58歳

明治27年6月9日、韓山の風雲急を告げんとする時に至り、退助は、黒田清隆(陸軍中将)、山地元治(陸軍中将)と会して天下を談ずる。これを三将会談と云う。7月25日、日清戦争勃発。8月1日、開戦詔勅。

 

明治28年(1895) 59歳

明治28年4月17日、日本は日清戦争勝利し馬関条約締結せらる。

 

明治29年(1896) 60歳

明治29年4月15日、第二次伊藤内閣に、内務大臣として入閣。4月16日、自由党総理を辞任する。6月17日、内務大臣として神戸を視察。大礼服を着用し、湊川神社へ正式参拝する予定であったが、三陸大海嘯(明治三陸地震)が起きたため、急遽予定を変更し神戸から6月22日、東北の被災地の視察に向かう。7月4日、帰京。8月28日、内務大臣を辞任。9月29日、勲一等に叙せられ、旭日大綬章を授けられる。10月10日、本籍地を東京市芝区愛宕町2丁目1番地(現・東京都港区西新橋3丁目1番10号附近)に移し転居。

 

明治30年(1897) 61歳

明治30年1月「立憲政体の妙用」を著す。8月4日、後藤象二郎薨去。10月、北陸を遊説。12月、大島岬神社(現・高知縣護國神社)の戊辰戦歿者慰霊祭に戦友らと参列。

 

明治31年(1898) 62歳

明治31年6月、自由党と進歩党が合体して憲政党が結成されると、大命降下により、6月30日、憲政党内閣(隈板内閣)が組閣され、退助が内務大臣に任命され、従二位に叙さる。10月17日、巣鴨教誨師問題に関し、田中弘之と会談。亡妣五十一回忌を仏式で斎行。10月30日、板垣邸に勅使参向。10月31日、内閣総辞職。11月8日、依願免本官。13日、摂河泉における陸軍大演習を明治天皇が閲兵されるにあたり、大阪に赴き、山縣首相と共に供奉。12月18日、上野公園の西郷隆盛銅像除幕式に列席。

 

明治32年(1899) 63歳

明治32年1月20日、侯爵西郷従道とともに同気倶楽部を創設す。1月25日、勝安芳の葬儀に参列。2月11日、江東の中村楼で紀元節明治憲法発布十周年祝賀会を開く。4月3日、四国、大阪、京都、九州地方の遊説を開始。熊本では聴衆五千名あり。11月6日、故後藤象二郎紀念碑(銅像)建立を計画(会長板垣退助、副会長福岡孝弟)

 

明治33年(1900) 64歳

明治33年1月22日、東京・芝紅葉館にて新年会を開き、社会問題について演説する。2月「中央風俗改良会」を組織する(会長西郷従道、副会長板垣退助、渡辺国武)。4月27日、明治天皇が海軍艦を閲艦されるにあたり、神戸に赴く。30日、天皇親臨神戸小野浜沖の親艦式に供奉。5月10日、東宮(大正天皇)御成婚記念晩餐会において、純銀製「菊花御紋付き隅切唐櫃型鶴松文様ボンボニエール」を賜る。8月25日、伊藤博文が政友会を組織。9月13日、退助は憲政党を解党してこれに党員を合流させ、自らは政界を引退。以後、社会改良事業を行う。退助と意見の対立した幸徳秋水らは立憲政友会への合流に反対し「自由党を祭る文」を発表。9月、後藤象二郎の銅像製造に着手。

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