5.明治維新期
明治2年(1869) 33歳
明治2年1月5日、藩主山内豊範の上洛に随行して海路で高知を出発(同日横井小楠が暗殺される)。2月9日、高知藩大参事として藩主に従い京都に入る。同月、薩摩・長州・土佐の3藩が奏上して九門(皇居)の警固を願い兵士を置いて不慮の事態に備えることを許される。3月13日、本姓板垣への復姓許可さる。3月25日、戊辰戦争の論功行賞として増知600石、役領知200石を与えられ、都合1000石の家老格となる。また感状ならびに御刀一口も与えられ、山内家の裏家紋「土佐桐」の永代使用を特別に許可される。退助はこれを誉れとし、以後板垣家の家紋として使用する。3月26日、東京へ向けて海路出発。3月28日、京都に還幸されていた明治天皇が再び東京城に入御せられ、諸侯を召集さる。4月9日、明治新政府の徴士参与を拝し、さらに5月、参与に任命され、行政機務取扱となり、賞典取調掛専任となる。6月2日大久保利通、木戸孝允、後藤象二郎らと共にその勤労を賞され、賞典禄千石を下賜される。(6月17日藩籍奉還が実施される)
明治2年6月20日、御親兵創設のために退助は高知藩の軍制をフランス式に改正し、旧幕側の沼間守一、フランス砲兵少尉アントアン等を招聘した。沼間守一は高知藩士に英語を講義す。28日退助は神祇官の行幸に供奉する。29日、東京九段に東京招魂社(現・靖國神社)が造営され、戊辰の戦歿者を祀る。7月8日、待詔院学士に補される。8月、待詔院学士を辞任。10月6日、東京・高知の往来を許され帰藩。土佐藩の銃器購入に奔走。10月10日、高知藩兵の仏式練兵開始。25日、第三等官高知藩権大参事・軍務局兼任となる。11月24日、土佐藩士の旧来の格式を廃し、新たに軍隊式に等級を定める。27日、第二等官権大参事兼軍務局大幹事となる。四国十三藩会議所を讃州琴平に開設する。
明治3年(1870) 34歳
6月、東京の大槌屋で、退助と佐々木高行が征韓を激論す。8月14日、明治新政府より普仏戦争視察のため欧州派遣の命を受ける。27日、退助が欧州派遣の命を辞退。28日、退助の代わりに林有造が、大山巌、品川弥次郎と共に普仏戦争視察に出発す。8月29日退助は藩命により高知へ帰藩。九月第二等官高知藩権大参事となる。9月27日、四国十三藩会議所を廃止。10月19日、第一等官高知藩大参事となる。人民平均の理を起草し、権大参事福岡孝弟を伴い、閏10月22日、海路上京。山内容堂の許可を得て太政官より政府に対し、許可を求める。政府は「時期尚早」として難色を示すも「高知藩内に限り」布告することを許可す。板垣と福岡は品川から海路高知に戻り、12月10日、高知に帰藩。12月24日、武士の常職を解き、四民平等に兵隊常備の義務を布告し、国民皆兵の道を開く(人民平均の理)。
明治4年(1871) 35歳
明治4年1月17日、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、杉孫七郎ら来高。19日、九反田の寅賓館(旧・開成館)で西郷、木戸、大久保、杉、板垣、福岡らと御親兵献上を議す。2月7日、退助が右大臣三条実美邸を訪問し御親兵献上を進言。2月13日、御親兵献上の命が下さる。5月から6月にかけて薩摩・長州・土佐の3藩の兵を朝廷に献ずる。(土佐藩は、歩兵第二大隊、騎兵二小隊、砲兵二大隊、工兵二小隊の計1710名)土佐藩の礼砲によって近代日本陸軍が創設される。7月14日、西郷、木戸、大久保と共に、廃藩置県を行う。同日参議從四位に叙され、工部卿を兼ねた。8月28日、明治政府が解放令を布告。12月8日、正四位に陞叙。東京駿河台に寓居し、のち木挽町に移る。
明治5年(1872) 36歳
明治5年2月1日、壬申戸籍編成。本籍地を高知市中嶋町44番屋敷(現・高野寺)とし、退助自身は東京府(第一大区十小区)木挽町1丁目24番地(現・東京都中央区銀座1丁目24番地 銀座タワー)の銀座邸に寄留。宗旨を神道(氏神・潮江天満宮)とす。中嶋町の本邸はのち地番整理により「高知市中島町69番屋敷」となる。4月12日、山梨県の恵林寺で武田信玄の第三百回忌法要が斎行され、板垣信方の嫡系子孫として参列。松本楓湖画の板垣信方肖像画の賛を揮毫。6月21日、山内容堂薨去。