6.自由民権活動期
明治6年(1873) 37歳
明治6年10月、征韓論の議論が起こり、西郷、副島、後藤、江藤などと共に大いに斡旋をする。10月25日、参議を辞職する。
明治7年(1874) 38歳
明治7年1月12日、副島、江藤、後藤、由利、小室らと愛国公党を組織する(自民党の源流)。1月17日、民撰議院設立の建白書を左院に提出する。4月、土佐に立志社を創立。板垣自身は土佐の本邸に戻るが、9月21日、側室・清女(東京金春芸者の小清)が東京木挽町の銀座邸で死去。10月、征台事件に関係して、三条実美から密書が届く。
明治8年(1875) 39歳
明治8年2月、大阪会議に臨み、木戸、大久保と会合する。東京に居を移す。3月7日、明治天皇よりお召しがあり勅使(侍従 森寺常徳)が遣わさる。翌8日、参内し、明治天皇に国政を奏上。3月12日、参議に復帰する。3月17日、政体取調を命じられる。4月14日、漸次立憲政体樹立の詔が下さる。9月、左大臣島津久光と共に、内閣分離の議を主張し、10月27日、参議を辞任。11月、愛国社を組織する。
明治9年(1876) 40歳
明治9年10月28日、旧幕臣栗本鋤雲の仲介により、大鳥圭介と上野精養軒で六時間にわたり親しく会食し、戊辰戦争当時の回顧談をする(後藤象二郎も同席)。
明治10年(1877) 41歳
明治10年2月15日、西南戦争勃発。6月、立志社総代片岡健吉に国会開設の建白書を京都行在所に提出させる。9月24日、西郷隆盛自刃。10月31日、退助、高知県土佐郡(第九大区一小区)潮江村新田一番地を本籍地とし高知に住居を戻す。
明治11年(1878) 42歳
明治11年3月、四国愛国社の再興趣旨を天下に頒布し、杉田定一、栗原亮一、植木枝盛、安岡道太郎らを畿内、北陸、山陰、山陽、四国、九州に派遣する。5月14日、大久保利通暗殺事件(紀尾井坂の変)あり。これに対して立志社社員は意気揚々として「政府の奸物は愛国有志の為に斃されたり」等の過激な論あり。6月、福岡の頭山満は奈良原臻とともに板垣らが西郷隆盛の仇を討って決起する覚悟なのか本心を聞くため来高。板垣は暗殺事件を喜ばず、むしろ時代の変遷を説き、今は自由民権によって国家を改革すべき時であることを諭す。頭山らは高陽社を宿舎として自由民権を学ぶ。9月14日、愛国社再興大会が大阪で開催される。11月 土佐州会を開き、退助は第九大区の州会議員に選ばれる。12月、福岡に帰郷した頭山は民権結社「向陽社(玄洋社の前身)」を設立。
明治12年(1879) 43歳
明治12年3月27日、愛国社第二回大会を開催する。11月6日、愛国社第三回大会を開催し、翌年3月を期して「国会開設請願書」を天皇に上奏できるよう決議。
明治13年(1880) 44歳
明治13年3月15日、愛国社第四回大会において、「国会開設請願書」を作成し、片岡健吉、河野広中を総代委員として上京させる。この頃、頭山満が二度目の来高。頭山は楠瀬喜多の家に寄宿。11月、「愛国社」を改めて、「国会期成同盟」とする。
明治14年(1881) 45歳
明治14年4月、高知中島町の板垣旧邸(生誕地)を高野山真言宗が買取る。8月10日、退助が大阪戎座で政談演説会を開催する。9月、東北地方を遊説する。10月12日、国会開設の大詔が煥発あらせらる。これに呼応して「国会期成同盟」を解散し「自由党」が結成され、12月29日に推されてその総理(総裁)となる。
明治15年(1882) 46歳
明治15年2月、竹内綱、宮地茂春らを従えて東海道を遊説する。3月「自由党の尊王論」を著す。4月6日、岐阜の神道中教院(織田信長公邸跡横)で相原尚褧の凶刃に襲われる。この時「板垣死すとも自由は死せず」の言葉が広く報道される(板垣退助岐阜遭難事件)。4月12日、慰問のための侍従西四辻公業を勅使として下され、明治天皇より「板垣は国家の元勲なり。捨て置くべきにあらず」との御詞を賜い、御手許金三百円が下賜される(この御手許金は終生保管され使われなかった)。4月21日、大阪今橋の真島襄一郎方に静養中の板垣を同志社社長の新島襄が見舞う。本山団蔵重隆より竹内流捕手腰廻小具足術(呑敵流柔術)の免許皆伝を允許される。6月29日「自由新聞社」を創立する。6月30日、退助を主人公とする芝居「東洋自由曙」が高知の堀詰座で上演される。八月退助、駿河台の岩崎邸に寓居す。徳富蘇峰が来訪す。11月11日、後藤象二郎とともに欧州の情勢を視察のため洋行。
明治16年(1883) 47歳
明治16年1月9日、パリのルイ・ヴィトン本店でシリアルナンバー7720番の鞄を購入。この頃、はじめて髭を生やし始める。政治家のジョルジュ・クレマンソー、文豪ビクトル・ユーゴー、学者のハーバート・スペンサー、エミール・アコラスらと会談し、6月23日、欧州より帰国する。高知では丸山台で帰国歓迎会が盛大に催される。8月22日、関西大懇親会を開催する。(7月19日、高知中島町の板垣旧邸に高野寺が建築せらる)
明治17年(1884) 48歳
明治17年2月12日、自由党総理に再選。4月、東京府芝区芝金杉川口町24番地で、長崎県出身の京都祇園の芸妓・荒木絹子を側室として同居開始。5月、芝区金杉川口町の板垣邸内に凶賊が侵入し日本刀で就寝中の退助を襲う。側室の絹子が異変を察知し護衛役の中西幸猪と山内一正が逃亡する敵を追跡(明治17年板垣退助暗殺未遂事件)。10月29日、自由党を解党し、趣意書を公表する。
明治18年(1885) 49歳
明治18年1月12日、側室絹子を同伴して高知へ帰郷。6月28日、唐人町の別宅で正室鈴子死去。側室絹子を福岡孝弟の養女とする。7月18日、退助は軽症の麻疹により高知病院長本田医師、楠正興医師の診察を受ける。
明治20年(1887) 51歳
明治20年1月11日、側室政野と離別。5月、本籍地を東京府麻布区麻布今井町35番地(現・東京都港区六本木4丁目2番20号 パークサイド六本木)に移す。5月9日、特旨をもって伯爵に叙さる。再三、書面にて辞退するも許されず。国政に関して上表して意見を述べる。竹内綱が三顧の礼を説き、遂に爵位を受ける。8月20日、東京府芝区高輪南町18番地華族・後藤象二郎邸(現・品川プリンスホテル)に同居。12月26日従三位に叙される。
明治22年(1889) 53歳
明治22年2月11日、大日本国憲法発布。3月6日、側室絹子を正室として迎える。憲法発布の恩赦に岐阜遭難事件の犯人・相原尚褧が漏れていることに気づき、3月13日、退助が「赦免哀願書」を明治天皇に奉呈。これにより相原尚褧が恩赦される。5月11日、板垣邸に相原尚褧が謝罪に訪れる。12月19日、旧友懇親会を大阪で開催し、愛国公党を再興。
明治22年(1890) 54歳
明治23年1月3日「愛国公党組織趣意書」を天下に頒布する。同13日、近畿地方を遊説する。5月14日「愛国公党」、「(再興)自由党」、「大同倶楽部」の三派が合同し「庚寅倶楽部」となる。7月奈良の専立寺で「大和全国自由懇親会」を開き演説。8月、立憲自由党を結成。9月26日、貴族院勅撰議員の内命を辞退。10月20日「自由新聞」を発刊。
明治24年(1891) 55歳
明治24年3月、立憲自由党の大阪大会でこれを自由党と改称し再び総理(総裁)に選ばれた。5月8日靖國神社で、武市瑞山の追贈(贈正四位)奉告式が挙行され、退助が祭文を奏上。6月から8月にかけ東北七州を遊説。各地で2000人規模の演説会を行い、大歓迎を受ける。8月4日、函館到着。北海道を遊説。11日北海道庁長官、屯田兵司令長官と会見。8月13日(板垣退助岐阜遭難事件の犯人・相原尚褧の収監されていた場所)空知・樺戸集治監を訪ね、服役者を慰問。15日、白老でアイヌの家を訪問。東北同様に各地で大歓待あり。17日、青森着。再び東北各地を遊説。9月16日、帰京。10月20日、東京府神田区神田錦町(現・東京都千代田区神田錦町3丁目3番地 神田税務署)の錦輝館で行われた自由党演説会において、板垣退助が『政治の要領』と題する演説を行っている最中、ナイフを所持していた富山県平民・金山米次郎(青年義勇団所属)が檀上に飛び上がって板垣退助の暗殺を謀る(明治24年板垣退助暗殺未遂事件)
明治25年(1892) 56歳
明治25年2月12日、に第二回衆議院議員総選挙の応援演説のため、兵庫県神戸市を訪れた。板垣退助を乘せた人力車が三ノ宮(現・元町)の駅を出て線路の踏切を渡ろうとした際、鷲田卯蔵が拳銃で板垣を狙撃しようとしたが、護衛役の旧因州鳥取藩士・佐藤歳造がこれに気づき身を挺してかばう(明治25年板垣退助暗殺未遂件)。同晩、播州龍野での演説会でも身を狙われた。板垣は関西遊説に先だち東京で「国民を味方として死生を共にし、終局の勝利を得るのほかなし」と意を決し演説に臨んでいる。3月20日、本籍地を東京市麻布区麻布材木町63番地(現・東京都港区六本木6丁目4番1号 六本木ヒルズ・ノースタワーの向い附近)に移し転居。10月25日「海軍拡張策」を発表。11月、奥州白河の長寿院に「白河役陣亡諸士碑」を有志らと建立。
明治26年(1893) 57歳
明治26年3月、高知に帰郷。4月、無双直伝英信流居合と松嶋流棒術の衰微を歎き、居合は五藤孫兵衛正亮、棒術は横田七次を師範とし竹村与右衛門邸の一角を道場として子弟を育てるよう尽力する。5月1日、姫路で演説。3日、出石見性寺で演説(聴衆1500余名)八鹿町の西村庄兵衛宅にて歓待。村岡町巌浄寺で「会津落城と芋」の話を講演。その後、鳥取、島根、山口、広島、大阪、京都を遊説。29日、帰京。6月16日、正三位に叙せられる。9月20日、栗原亮一・宇田友猪編纂の「板垣退助君伝」出版。10月6日、今市回向院の戊辰戦争戦歿諸士の墓を参る。7日、日光東照宮に参り、十王堂戦歿者の墓に参る。28日、栃木の定願寺で演説(聴衆5000人)
明治27年(1894) 58歳
明治27年6月9日、韓山の風雲急を告げんとする時に至り、退助は、黒田清隆(陸軍中将)、山地元治(陸軍中将)と会して天下を談ずる。これを三将会談と云う。7月25日、日清戦争勃発。8月1日、開戦詔勅。
明治28年(1895) 59歳
明治28年4月17日、日本は日清戦争勝利し馬関条約締結せらる。
明治29年(1896) 60歳
明治29年4月15日、第二次伊藤内閣に、内務大臣として入閣。4月16日、自由党総理を辞任する。6月17日、内務大臣として神戸を視察。大礼服を着用し、湊川神社へ正式参拝する予定であったが、三陸大海嘯(明治三陸地震)が起きたため、急遽予定を変更し神戸から6月22日、東北の被災地の視察に向かう。7月4日、帰京。8月28日、内務大臣を辞任。9月29日、勲一等に叙せられ、旭日大綬章を授けられる。10月10日、本籍地を東京市芝区愛宕町2丁目1番地(現・東京都港区西新橋3丁目1番10号附近)に移し転居。
明治30年(1897) 61歳
明治30年1月「立憲政体の妙用」を著す。8月4日、後藤象二郎薨去。10月、北陸を遊説。12月、大島岬神社(現・高知縣護國神社)の戊辰戦歿者慰霊祭に戦友らと参列。
明治31年(1898) 62歳
明治31年6月、自由党と進歩党が合体して憲政党が結成されると、大命降下により、6月30日、憲政党内閣(隈板内閣)が組閣され、退助が内務大臣に任命され、従二位に叙さる。10月17日、巣鴨教誨師問題に関し、田中弘之と会談。亡妣五十一回忌を仏式で斎行。10月30日、板垣邸に勅使参向。10月31日、内閣総辞職。11月8日、依願免本官。13日、摂河泉における陸軍大演習を明治天皇が閲兵されるにあたり、大阪に赴き、山縣首相と共に供奉。12月18日、上野公園の西郷隆盛銅像除幕式に列席。
明治32年(1899) 63歳
明治32年1月20日、侯爵西郷従道とともに同気倶楽部を創設す。1月25日、勝安芳の葬儀に参列。2月11日、江東の中村楼で紀元節と明治憲法発布十周年祝賀会を開く。4月3日、四国、大阪、京都、九州地方の遊説を開始。熊本では聴衆五千名あり。11月6日、故後藤象二郎紀念碑(銅像)建立を計画(会長板垣退助、副会長福岡孝弟)
明治33年(1900) 64歳
明治33年1月22日、東京・芝紅葉館にて新年会を開き、社会問題について演説する。2月「中央風俗改良会」を組織する(会長西郷従道、副会長板垣退助、渡辺国武)。4月27日、明治天皇が海軍艦を閲艦されるにあたり、神戸に赴く。30日、天皇親臨神戸小野浜沖の親艦式に供奉。5月10日、東宮(大正天皇)御成婚記念晩餐会において、純銀製「菊花御紋付き隅切唐櫃型鶴松文様ボンボニエール」を賜る。8月25日、伊藤博文が政友会を組織。9月13日、退助は憲政党を解党してこれに党員を合流させ、自らは政界を引退。以後、社会改良事業を行う。退助と意見の対立した幸徳秋水らは立憲政友会への合流に反対し「自由党を祭る文」を発表。9月、後藤象二郎の銅像製造に着手。