4.戊辰戦争
小御所会議
慶応3年12月9日(1868年1月3日)、明治天皇が王政復古の大号令を渙発あらせらる。同日小御所会議によって徳川慶喜の辞官納地が決定するが、これを不服とする慶喜は、二条城から退去し大坂城に籠る。江戸では、幕府側についた庄内藩が水戸浪士の挑発への報復として、12月25日薩摩藩邸を放火。12月28日、京都で谷守部が薩摩藩西郷隆盛の陣営に呼ばれ「まもなく合戦が始まる。薩土討幕の密約を履行し、退助を大将として土佐藩兵は薩摩兵と行動を共にせよ」と告げられる。京都藩邸の容堂、後藤象二郎、寺村左膳らは大政奉還による解決を模索していたが兵力の補充の要を酌み、土佐より片岡健吉を大将として兵を率いて上洛するよう指示し、乾退助だけは絶対に上洛させるなと厳命される。
慶応4年/明治元年(1868) 32歳
戊辰の開戦と退助の復職
慶応4年/明治元年1月1日、谷守部は、従者森脇唯次郎を伴い、伝令として土佐へ向けて出発。その途中、1月3日瀧川具挙(播磨守)が「討薩表」を持って上京したことがきっかけとなり、銃撃が始まり戊辰戦争の開戦となる。鳥羽方面の戦い勃発。
容堂はこれは私闘にすぎず、土佐藩兵は参戦するなと伝令を差し向けるが、翌4日伏見方面を警固の土佐藩兵、山田喜久馬(土佐藩 第一別撰隊隊長)、吉松速之助(土佐藩 第一別撰隊隊長)、北村長兵衛、二川元助らの各部隊は、薩土討幕の密約を履行して参戦。しかし、去就に悩み藩命を重視して参戦しなかった部隊(渋谷隊)などもあった。合戦は勝利したが、藩命に違反して参戦した罪で、山田、吉松ら司令官に切腹処分が下ろうかとする時、御所に錦の御旗が翻る。藩庁は動揺し処分保留となる。
慶応4年/明治元年1月6日、谷守部らが土佐に到着。追手の第二便、第三便の早馬により、鳥羽伏見で戦闘が開始されたこと、幕軍が敗走したことが土佐の国許に伝わる。京都の土佐藩庁の「退助を上洛させるな」との指示を反故にするため、藩主たる山内豊範の指示を仰ぎ、1月8日、退助は失脚を解かれ土佐藩大隊司令に復職。(11日、京都で土佐藩に対し讃岐高松、伊予松山、及び天領川之江征討の勅命と錦の御旗2旒が下賜せらる)退助は「京都で合戦が始まった」と聞き、飛び上がって喜んだ。薩土討幕の密約を履行する時が来たのである。
板垣退助の戊辰東征
慶応4年/明治元年1月13日、退助は迅衝隊大隊司令に任命され、土佐の致道館より出陣。高松、川之江を鎮撫。19日未明鳥坂峠を越えて讃岐丸亀城下で本山只一郎、伴正順、樋口真吉が京都より伝奏した錦の御旗を拝受。20日、錦旗を先頭に、丸亀・多度津両藩兵を先鋒として、丸亀から高松城下まで進軍。21日退助は丸亀に戻り、在京の山内容堂や佐幕派の上士らを説得するため船で海路京都を目指す。28日京都に入ると容堂は退助を許して武力討幕に藩論を統一。2月14日、御親征東山道総督府軍先鋒参謀(迅衝隊総督)として官軍を率いて進軍(この日は退助の先祖・板垣駿河守信方の討死より320年目にあたる命日)。
慶応4年/明治元年2月18日、美濃大垣で姓を板垣に復す。
慶応4年/明治元年3月6日、甲州勝沼で大久保剛(近藤勇)ら率いる幕軍・甲陽鎮撫隊を撃破。11日退助は武州八王子に進軍し、3月14日、四ツ谷新宿内藤藩邸に在陣(同日、五箇条の御誓文、億兆安撫国威宣揚御宸翰下さる)17日、甲府で退助の部隊を支援する断金隊が結成され、退助の部隊を追って東征。18日、退助は市ヶ谷の尾州德川邸を本陣とし軍事演習を行う(現・防衛省本部)。
江戸城無血開城の後、4月17日宇都宮救援の命が下り、18日、東北へ出陣。22日安塚で合戦、29日、野州今市を攻略して進軍。閏4月1日、日光東照宮を参詣し戦火に罹るのを防ぐ。しかし、この裏では実際には神宝は秘かに会津藩へ退避し、光栄坊に負傷兵を装った残置諜者十名が板垣を狙撃しようと潜伏していた。斥候の報告により、谷、二川元助、小笠原謙吉らがこれを発見し討伐。退助は、平和裏に開山したことを示すため、東照宮を叱責せず、宇都宮巌亮、安居院慈立、桜本院道純らの労に免じてこれを不問とした(明治元年板垣退助暗殺未遂事件)。
慶応4年/明治元年5月、白河城に進軍し、6月、東山道総督府参謀を辞して、新たに大総督府参謀補助となり、薩摩兵と共に、棚倉攻略、三春藩恭順を策す。6月25日棚倉に入り蓮家寺を本陣とする。(7月17日江戸を東京と改称)8月21日石筵口で勝利。22日母成峠で大鳥圭介、土方歳三らを撃ち破り快進撃を続けて、23日若松城下に迫る。(九月八日慶応を明治と改元)9月19日会津藩重臣が降伏を乞う。明治元年9月22日、会津藩降伏。
さて、この快進撃の裏で何が起きていたか。明治元年7月、会津、庄内の両藩は戦費調達の為、北海道をプロイセン(現・ドイツ)に売却することを提案。プロイセン宰相ビスマルクは、初めは局外中立を保って拒否したが、三週間後に考えを改め「承諾書」を送った。横浜にいた駐日プロイセン公使マックス・フォン・ブラントが書いた外交書簡によれば、「ヘンリー・シュネル(当時東北にいたプロイセン人の仲介役で日本名・平松武兵衛)が、借り入れに対して蝦夷地の領地を九十九年間、担保として与えるとする会津藩主松平容保と・庄内藩主酒井忠篤の全権委任状を持ってきた。100平方ドイツマイル(5,625平方km)の土地を得るのに30万メキシコ・ドルで充分であろう」と記されている。(『駐日公使発本国向け外交書簡』ベルリン連邦文書館蔵)プロイセンからの返書が日本に届いたのは、会津が落城して一週間後のことであったためこの契約は反故となったが、同時期に榎本武揚がポルトガルと結んだ「ガルトネル開墾条約」では五稜郭落城の一週間前に発効されてしまった為に、蝦夷地の一部が治外法権の領土となり明治政府がその後苦心して違約金を払い買い戻している。
板垣が早期決戦を挑まず、会津戦争が長期戦となっていたならば、北海道の広範囲はプロイセン領となっていたことは確実であり、幕末には鎖国をやめるべきかの「開港問題」で「勅許の有無」が大問題となったのに比して広大な領土の無断割譲は許し難い大罪と考える閣僚がいた中で、退助はその罪を糾弾せず、むしろ藩主らの助命を嘆願。それは来るべき日本を列強の侵略から守るにあたって日本国民の思想的分断を招いてはならないと判断したことによる。
明治元年10月13日、明治天皇が江戸城に御到着。10月19日土佐藩兵第一陣が東京に凱旋。10月25日、退助が東京に凱旋し土佐藩上屋敷にて山内容堂の慰労を受ける。26日、有栖川大総督宮に拝謁。11月1日、江戸城西丸の筋違馬場御殿大庭において明治天皇の閲兵を受け勅諭を拝す。退助に御太刀料三百両と素焼の天盃を下賜あらせらる。11月5日、高知に凱旋。致道館において藩主山内豊範より親閲、慰労の辞を賜う。11月23日、土佐藩陸軍総督御家老格を命ぜらる。29日、致道館で戊辰戦歿者招魂祭を斎行。12月2日、仁井田浜で戦歿者を弔い砲銃を連射した。