武田鉄矢著『鉄矢の幕末偉人伝』に載る板垣退助の話

VISA平成29年(2017)7月号に所収の武田鉄矢著『鉄矢の幕末偉人伝』に板垣退助のことが載りました。

…が、肝心なところで間違いが。


(以下、問題の記事より)
「板垣」は(武田)信玄配下に同姓の武将がいます。高名なのは土佐民権運動家、板垣退助。土佐の人物ですが、ルーツは甲斐武田氏で、土佐では乾退助でした。戊辰戦争の折、会津攻撃の先頭に立った彼は会津の人心を少しでも懐柔しようと、この地域に多い旧姓に戻して闘ったのです。板垣とは、そんな歴史を含んだ「姓」なのです。


板垣が、会津攻略戦の大将であったことは間違いありませんが、先祖の旧姓に復したのは、美濃大垣で、これは先祖の故郷甲斐への進軍に備えてのこと。甲斐の武田家旧家臣が多く、武田信玄に尊崇の念のある民心に訴えかけようと姓を板垣に戻して「板垣正形」と名乗りました。この戦略は成功して、甲府側を味方につけ甲府城への入城を果し、続く甲州勝沼の合戦では、大久保大和(近藤勇)率いる甲陽鎮撫隊(新撰組)を撃破して大勝を得、デビュー戦を飾りました。甲斐の人々は湧きあがり、板垣を慕って甲斐の武田家旧家臣の子孫らは協力を願い出、「断金隊」を組織。(結成式は武田信玄の墓前で行われました)板垣らの隊に加わり東北の戦野を戦いました。

…なので、正しい文章としては、


「板垣」は(武田)信玄配下に同姓の武将がいます。高名なのは土佐民権運動家、板垣退助。土佐の人物ですが、ルーツは甲斐武田氏で、土佐では乾退助でした。戊辰戦争の折、甲州勝沼の合戦の時、先頭に立った彼は甲斐の人心を少しでも懐柔しようと、この地域に多い旧姓に戻して闘ったのです。板垣とは、そんな歴史を含んだ「姓」なのです。


…とならなければならない。武田鉄矢氏は「甲州勝沼の合戦」と「会津戦争」を混同してしまっているのであった。しかも前段で「ルーツは甲斐武田氏で」と書いているので、甲斐の国の話にならねば筋が通らないにも関わらず「会津」のことが唐突に出てきて、文章としての整合性も欠いてしまっているのである。

板垣に関する記述の間違いについて、指摘した書簡をお送りしたところ、編集部担当者様より速達にて、お詫びのお手紙が届いた。

武田鉄矢氏ご本人にも、お伝え頂けるとのこと。

しかし、こういった指摘は意外と大変。先方様に失礼の無いよう文脈に気を遣いながら手紙を書き、根拠となる資料を添付したので、結構時間も取られた。しかし、たかが雑誌と思っていても、誰かが指摘しないと数年前後にはいつの間にか、文庫本とかに纏められて、ちょっとづつ間違ったものが、世間に流布していくかもしれないと思うと、矢張り、気づいたものから指摘して行かないといけないのではないかと考えている。


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投稿日:2017/06/21

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