読売新聞『維新の記憶』大阪会議 (平成30年3月6日)


本年は明治維新150年・板垣退助百回忌となる節目の年。『読売新聞』では『維新の記憶』と題する特集記事を組んで下さっており、今回は大阪会議に関しての記事となりました。

「国をよくする、首尾一貫・板垣退助の玄孫・高岡功太郎さん」と題し、弊会理事長のインタビューが載


っております。この特集は毎回、明治維新の元勲のご子孫にも取材し、子孫の目から見た「あのときの出来事」はどうだったのか、どんなエピソードが伝わっているかなども含めて特集記事となっていて、中々読み応えがあります。また、世代が下がるに従って薄れゆく記憶となってしまう為、今しか聞けない貴重な話もあることでしょう。


明治6年の征韓論争に敗れて、西郷らと共に下野した板垣は、翌年正月、『民撰議院設立建白書』を左院に提出。日本に帝国議会を創ることを政府に要求しました。結果は時期尚早と却下されます。それで、皆それぞれ、国許に帰って足場を固め、中央から日本を変えるのではなく、地方から日本を良い方に変えようではないかと話合います。(主として旧土佐藩の武官は、山内容堂の墓前で誓い海南社を作り、文官らは銀座の倶楽部に集まって幸福安全社を作りました)その結果、板垣らは高知に戻って立志社を創ります。また「地方で足場を固めるまでは、東京の土は踏まない」と盟約します。


しかし、こんな意見もありました。「征韓論争に敗れて、参議を辞し、下野(官職を離れて民間人となること)してから、政府に意見書を提出して却下されるぐらいなら【参議を辞めず、官職に就いたまま民撰議院の設立】を行えば良かったのでは?」これは尤もな正論でした。
明治8年、板垣はその可能性を試すため、参議に戻ることを決意します。…そして条件を提示しました。第一に西郷さんも同時に参議に復職することです。これは是(承諾)されます。そこで、早速、板垣は西郷に書簡(手紙)を出して、自分の意を伝え政府に戻ることを伝えます。しかし、手紙は西郷に届かず返ってきてしまいました。板垣は使者に手紙を持たせ西郷に、政府復帰を呼びかけます。しかし、西郷は居留守を使ってでも、その使者を追い返し政府に復帰することはありませんでした。【参議に復帰して民撰議院の設立を進める】か【西郷との約束を守って下野したまま】かの究極の選択を迫られた板垣は、涙を飲んで政府に復帰することを決めました。そして、矢継ぎ早に自分の思い描いていた政策を進めました。明治天皇より明治8年(1875)4月14日、「立憲政体樹立の詔」が発せられるなど、一定の成果はあったものの矢張り【民撰議院の設立】はハードルが高く、それに至るまでに政権は分裂し、板垣は再び野に下ることになったのでした。


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投稿日:2018/03/06

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