湊川神社社報『あゝ楠公さん』(令和6年1月号)

湊川神社社報『あゝ楠公さん』(令和6年1月号)が上梓。


拙稿【板垣退助の大楠公精神】も掲載。

板垣の湊川神社参詣の新聞記事から始まり、板垣が大楠公をどう見ていたかを、板垣の著書『神と人道』より実際の言葉として抜粋し紹介。

板垣が天狗党浪士を土佐藩邸に匿っていた「土佐藩邸水戸浪士隠匿事件」から、戊辰戦争の発端となる伏見合戦への経緯と、その戊辰戦争のキーマンとなる2人の【大楠公の末裔】の活躍を軸に板垣の大楠公精神に迫る。

そして、大楠公の勤皇討幕精神が、幕府を瓦解させ、明治維新を成し遂げた成果について詳述。

新春是非『湊川神社』へ御参詣ください。
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板垣退助の大楠公精神


板垣と大楠公の関係を詳述


板垣退助の大楠公精神
一般社団法人板垣退助先生顕彰会 理事長
             板垣退助玄孫 髙岡功太郎
大楠公と板垣退助
板垣退助は大楠公をどう見ていたか。明治二十九年(一八九六)六月十八日附『神戸又新日報』一面二段に「湊川神社と板垣伯」という記事があり、内務大臣の板垣が神戸へ視察に訪れ、湊川神社へお参りする予定であるため、地元では歓迎準備が整えられていると報じている。この時板垣は拿破翁帽に大礼服の正装で参拝予定であった。ところが、時を同じくして東北では三陸地震と大津波が発生、甚大な被害を齎した。海路神戸に着岸した板垣は、祝砲がわりの花火と数千名の群衆による大歓迎を受けたが、その後、一転して視察の規模を縮小し東北被災地の視察へ向わざるを得なくなった。『東京朝日新聞』六月二十三日附では「板垣内務大臣は(中略)三陸災害の詳報に接し大(おおい)に驚愕せられ、神戸に於ては湊川(みなとがわ)附替工事の視察及び大阪京都に於ける(中略)労働視察等を見遂げん筈なりしも、是等は凡(すべ)て後日を期して巡視することゝなし、直(すぐ)に直行列車にて出張せん」とせられ「急行列車にて廿二日午前八時十分帰京せられた」とある。その後、三陸災害の紙面に圧(お)されて、板垣が参拝したのか記事が見当たらない。板垣が神戸に着いたのが十七日で災害を知ったのが二十日と考えられる。参拝したが記事にならなかったのか延期したものか。もし、ご存知の方があれば御教示を願うところである。しかし、板垣退助の遺著『神と人道』には、板垣が大楠公をどう見ていたかを類推可能な記述がある。同書で板垣は西洋思想の過度な流入による日本人の精神性の変化に危惧し、欧米社会の思想の根底にある基督教を徹底批判した。板垣は日本は世界に勝(まさ)る優位性を持つ精神性を備えた文化を持つことを述べ、それは、日本の國體と武士道精神によって培(つちか)われたものであるとしている。その中で板垣は、「惡を爲せる者は、其惡の報を受け、善を爲せる者は、其善の酬(むくい)を受けざる可らず、則ち支那に於て秦檜の墓碣が百代の後ち猶(な)ほ土民によりて溺せらるゝに反し、岳飛の廟は神位として祭られ、我邦に在ても足利尊氏は其木像を梟(きょう)せられ、極端なる侮辱を受くるに反し、楠木正成の碑(いしぶみ)は其忠魂義膽を景仰する所の幾多凴弔(ひょうちょう)の客の涙痕を留むる」と述べ、「生を捨てゝ義を取り、身を殺して仁を爲(な)せる所の志士、仁人は永遠無窮に社會、民心の渇仰てふ實在の天堂に生きる」とし「社會に功勞ある(中略)實在の英雄偉人を追遠紀念して其恩を謝し、之に(己の生き方を)肖(かたどら)んことを求め」ることや「民族の優者、人類の冠冕(かんべん)(※最も優れている者)として之(これ)を崇拝」することは重要で意義のある文化だと述べている。板垣の考え方は次の如きものであった。欧米の拝する基督教は「唯一神」のみを崇めるように特化し、先祖祭祀すら疎(おろそ)かにしていることを批判。「我民族は祖宗たる皇祖皇宗を祀り、之(これ)を小にしては各自の家廟に拝し、更に歴史上の偉人、傑士を神として崇拝」して已(や)まない。これこそが人間として自然に湧き立つ思いであり、これらによって精華された文化が日本人の特質であるとした。そして、日本精神の中枢として大楠公の名を挙げ、欧米社会には無い日本の優れたるものとしているのである。

板垣退助の生い立ち
板垣退助の曾祖父・乾正聡は軍学に秀で、古今東西の軍学書、軍記物語を蒐集したが、退助は幼少の頃より、その蔵書を読み耽った。父方の遠祖は武田信玄の傅役(もりやく)・板垣駿河守信方で、そのため『甲陽軍鑑』、『武田軍記』などの軍記物から読書が始まったが、そのうち上杉側から編纂された戦記と読み比べて、双方の文脈の誇張・矛盾を校訂し、机上に布陣図を描いて自(みずか)ら戦略を練ることに没頭した。戦国期の軍記物をあらかた読み終えると、時代を遡(さかのぼ)り『太平記』を熟読した。退助は特に大楠公の忠勇無比な姿に魅了され、以後、彼の精神の骨格を形成することになる。現代の我々の眼から見ても、大楠公と板垣退助の共通点は多い。大楠公は皇居に銅像があって、板垣は国会議事堂に銅像がある。高知城にも板垣の銅像があって、その高知城には、大楠公の末裔で土佐藩の御典医を務められた楠(くすのき)正興(まさおき)先生の石碑がある。大楠公は五銭紙幣に、板垣は五十銭と百円紙幣になり、ともに国民から愛された。勤皇討幕一筋に邁進し、決して揺るがなかった精神も共通している。余談だが板垣退助の父の名は「正成」という。退助は否が応でも「大楠公」意識して育ったのであろうことは想像に難くない。また退助の孫の名は「正貫」と言う。漢字は違うが「まさつら」と読む。

近代日本陸軍創設者の一人として
さて、語呂合わせでは無く、実際に板垣退助(乾退助)は、土佐藩の中で上士勤皇派の頂点であった。昨今の歴史小説史観では、土佐藩は上士が佐幕派で、下士・郷士が勤皇派だと思い込んでいる人がいるが、史実を紐解けばそれほど単純ではなく、上士に勤皇派もいたし下士に佐幕派もいた。退助などは上士勤皇派の首魁で、文久二年(一八六二)には間崎哲馬(中岡慎太郎の師)と好誼を結んでいたことを示す書簡も現存している。中岡から呈せられた『時勢論』を精読し一藩勤皇への策に奔走した姿もその証左となろう。慶応二年(一八六六)冬とも、慶応三年(一八六七)春とも云われるが、江戸築地の土佐藩邸(中屋敷)の惣預役(そうあづかりやく)(総責任者)であった退助のもとに、幕吏に追われた水戸筑波の勤皇浪士が保護を求めてやってきた。彼等は天狗党として挙兵したが敗れて四散した。江戸は危ないとこれを忌避した者が大半の中で、その逆をついて秘かに江戸に潜伏したのが中村勇吉、里見某らで、相楽総三もいた。退助は彼等を見捨てるに忍びず独断で藩邸内に匿(かくま)い、その管理を同志の山田喜久馬らに任せた。のちに刀匠・左行秀の密告により露顕し、政敵・寺村左膳らによって退助が切腹寸前の所まで追いやられる「土佐藩邸水戸浪士隠匿事件」の発端である。この浪士たちと直(じか)に交わることで退助は水戸学による尊皇精神と、その中枢たる大楠公精神を心に浸透させた。

中岡慎太郎の仲介により、慶応三年(一八六七)五月二十一日、京都の小松帯刀寓居で、退助は西郷隆盛らと「薩土討幕の密約(薩土密約)」を結ぶ。翌日、これを山内容堂に稟申して了承を得ると、谷干城・中岡らに命じて大坂でアルミニー式銃三百挺を藩費で購入させた。その武器を同船し退助は容堂に扈従して土佐に戻る。そして、藩の軍制を刷新し近代式軍隊を組織した。この部隊が、のちに戊辰戦争で投入された「迅衝隊(じんしょうたい)」の前身で、上官から兵卒に至るまで尊皇の志の高い者を選別して編成された部隊であった。退助はその総督となり、陛下より御下賜あらせられた錦の御旗のもと、東征の途につき維新回天の業を成し遂げることになる。戊辰の後この部隊の精鋭が「御親兵」として天皇陛下へ献上せられた。それが近衛兵、近衛師団となり、近代日本陸軍となったため、板垣退助は近代日本の陸軍創設者の一人としても数えられる。これは誇張ではなく、実際に明治三十七年(一九〇四)、陸軍創設功労者として退助に感状が贈られている。

勤皇討幕を勇猛に主張
戊辰の義挙が稔る直前、退助は「大政奉還」に猛反対して失脚した。理由は「大政返上の事、その名は美なるも是れ空名のみ。徳川氏もと馬上にて天下を取れり。しからば、馬上に於て之(これ)を覆して王廷に奉るにあらずんば、いかで能く三百年の覇政を滅するを得んや。今時に於て断乎たる討幕の計に出でず、徒らに言論のみを以て、将軍職を退かしめんとするは迂闊を極まれり」とするものであった。当時の土佐藩は後藤象二郎の進言による「大條理」に耳を傾け、慶応三年(一八六七)五月に結ばれた「薩土密約」を蔑(ないがし)ろにした。土佐藩は「薩土密約」の一ヶ月後、坂本龍馬、後藤象二郎らによって結ばれた「薩土盟約」に基づき「大政奉還」の策を用いようとしたのである。「薩土密約」と「薩土盟約」は、どちらも「薩土同盟」と呼ばれる場合があるので両者を混同する人が絶えないが、真逆の内容の軍事密約で、当時、土佐藩と薩摩藩はこの性格の異なる二つの軍事密約を重複して結んでいた。そのため退助は藩の重臣会議で唯一「大政奉還」に反対し、その結果、過激派と見られて罷免され、土佐藩の軍事を与(あずか)る全役職も剥奪され失脚したのである。土佐藩としては、武力討幕路線をつき進む退助を藩政から遠ざけ、穏便な「大政奉還」へ舵を切るつもりだったのであろう。土佐藩は退助が築地の土佐藩邸に匿(かくま)っていた前述の武力討幕派水戸浪士の処遇に持余した。これは「薩土密約」の締結の際、退助と西郷が「適切な時期を見計らって、薩摩藩へ身柄を移管する」と約していたもので、一応その密約の通り土佐藩は同年十月初旬、水戸浪士らの身柄を薩摩藩へ移管した。これにより土佐藩の「大政奉還」派らから見れば、「武力討幕派の勤皇浪士」を藩邸から厄介祓いすることが出来たと考えたであろうし、藩内勤皇派(武力討幕派)から見れば「薩土密約」を履行したことになり、両者は真反対の思惑を抱きながら、皮肉にも利害が一致することとなり実現することとなったのである。

伏見の開戦
慶応三年(一八六七)十月十八日、失脚した板垣を土佐に残して土佐藩兵は上洛。江戸では薩摩藩に移管された水戸浪士たちが騒擾活動を活発化させ、庄内藩による江戸薩摩藩邸焼討事件に発展した。この事件に伴い瀧川播磨守が『討薩表』を持って上洛し、徳川慶喜を鼓舞したことが鳥羽伏見開戦の遠因となる。慶応四年(一八六八)正月三日、鳥羽方面より砲声が空に轟き、次で伏見でも合戦が始まった。この時、山内容堂は中立を貫き「此度のことは薩長と会庄の私闘」との見解を示して土佐藩兵の参戦を禁じた為、藩兵の去就は分かれたが、翌正月四日、「薩土密約」に基づき参戦したのが、退助と気脈の通ずる山田喜久馬の率いる第一別撰隊と吉松速之助の部隊であった。これに二川元助(阪井重季)、山地元治、北村重頼の各隊が次々と加勢したことにより、幕軍は崩れて退却した。さらにこの合戦の始まる前の十二月二十八日、西郷の本陣に呼び出された谷干城は既に薩・長・芸の三藩には討幕の密勅が下っていることを告げられ「薩土密約」の履行を求められた。ところがその密約の条文「乾退助を盟主として藩兵を率いて参戦する」はずの肝心の退助が失脚したまま不在では話にならない。谷は大仏智積院の土州本陣に戻りこれを報せた後、正月元旦、従者・森脇唯一を伴い京都から早馬で土佐を目指した。谷が土佐に着いたのは正月六日で、既にその間、鳥羽伏見では戦闘が始まっていた。すぐに第二の早馬が着き、戊辰の開戦と土佐藩の参戦、幕軍の敗走を国元に伝えると、土佐藩はただちに退助の失脚を解いて藩軍の大隊司令に復職させ東征の軍に送り出した。結果として土佐藩は、緒戦での参戦と退助の復職が功を奏し、当初の圧倒的不利な戦局を撥ね退け、怒濤の快進撃を開始することになる。戊辰の開戦は、実に板垣が独断で藩邸に匿(かくま)っていた水戸浪士たちが、薩摩藩邸に移管後、幕府を挑発して成し遂げたもので、失脚当時の退助は土佐に居ながらにして、同志を用いその討幕の策を成功させたことになる。事実、戦後の論功行賞の席で、退助と西郷隆盛が再会した時、西郷は「板垣さんは怖いおひとよ。あんな物騒な浪士を薩摩藩にかつぎ込んで大戦争をおっぱじめさせるとは…」と恍(とぼ)けて見せた。また、西郷は「板垣さんは失脚した中から、この大戦争を惹起(じゃっき)し大功を立てられた。戊辰の役に死したるもの少なからざれど、之(これ)が爲に生を得たるもの唯一人、君(退助)のみ」と語り高く評したという。明治六年の征韓論争の頃、有馬藤太が西郷隆盛に「今、二十万の兵を授けて海外(とつくに)に派し、能く国威を発揚し得る者は誰か」と尋ねた所、西郷は即座に「それは板垣の他にはおらぬ」と答えたと。これは有馬藤太著の『維新史の片鱗』という回顧録に記されている。

二人の大楠公の子孫
さて、この歴史を大きく変えた土佐藩伏見参戦者の中に、大楠公の末裔が二人いた。「独眼龍」と呼ばれた隻眼の陸軍中将・山地元治子爵は、その名を「山地忠七橘元治」と称し、先祖は大楠公であった。正成の五世孫・元弘が「山地」を名乗り、その子孫が山内氏に仕へて代々百五十石を食(は)んだ。山地の母は、幼少の頃から教育を施す時に「楠木正成はかうであった、お前はその正成の子孫である。ゆくゆくは先祖に恥ぢぬ立派な侍にならねばなりませぬ」と諭(さと)すのを常とした。これは、戦前に高知県女教員会が編纂した『千代の鑑』に記されている。
そして、もう一人は、土佐藩第一別撰隊を率い土佐兵の参戦を決断した隊長・山田喜久馬橘清廉その人である。山田家の先祖・山田去暦の父は、徳川家康幼少期の手習いの師であったが、のちに石田三成の家臣となり、近江で知行三百石を食んで彦根に住した。慶長五年(一六〇〇)関ヶ原合戦の結果、石田方の敗北が濃厚になると籠城してこれに抗したが、攻め手の田中吉政は去暦を討死させるには惜しいと感じ、秘かに矢文を城に放った。その文には「明日には貴殿の城は落城するであろう、しかし去暦殿の父君はかつて家康公の手習いの師匠であったので、殺すに忍びない。今宵一刻の猶予を与(あた)えるので逃げるなら見逃がそう」と書かれていた。去暦は夜陰に紛れて城壁から梯子を降ろし盥(たらい)を舟にして濠(ほり)を渡り、家族とともに脱出した。その後、近江以来の知己で、のちに山内一豊の家臣となっていた雨森氏康(九太夫)を頼り土佐に来住。去暦の嫡子・山田助丞は藩士として仕えた。助丞の妹「おあん」は雨森氏康の子で氏慶の三男・氏行に嫁し、老境になって昔話を孫たちに聞かせたが、これが土佐では『おあん物語』として残されている。おあんの兄・助丞の子孫が山田喜久馬である。山田家は橘姓で、室町時代後期の時点で、既に「大楠公の末裔である」という伝承を有していた。家紋は初め「丸に橘」を用い、のちに「菊水」に戻した。山田喜久馬はのち平左衛門を名乗り、晩年は「土居」姓を名乗ったので墓石には「土居平左衛門之墓」とあるが、そこには「菊水」の紋が刻まれている。彼の幼名「喜久馬」も「菊水」から命名されたもので、山田家が大楠公の末裔であるという伝承に誇りを持っていたことが分かる。さてこの山田家と板垣退助は親族で、退助の姉(勝子)の娘・信子が、山田喜久馬の後妻として嫁いでいる。そしてこの山田家とは近代ばかりではなく、先祖の代でもつながっているのである。(系図参照

系図では「山田宗純」から「板垣退助」までの血縁を辿ることが可能である。これが可能なのは、土佐藩、阿波徳島藩ともに江戸時代に御国替えが無く、両藩に照合可能な公文書が残されているからである。ところで、本稿で小生があえて「大楠公の末裔である伝承」と書いたのは、現時点で「大楠公」と「山田宗純」を結ぶ確実な系図を未見だからである。御存知の方がおられたら、御教示を乞う。伝承が正しければ、板垣退助も大楠公の末裔であることになるし、小生も更にその末裔の末席となる。…と書けば、楠木同族会の方々から「そんな漠然とした言い伝え如きで」お叱りを受けるかもしれない。それゆえ、これ以上踏み入ったことを書けないが、日本の歴史に大きな足跡を残し、今もなおその精神性が日本人の規範の中に息づく大楠公の血が一滴でも小生の中に入っていると知ったならば、また歴史の見え方が変わってくることは確かである。平成三十年(二〇一八)、明治維新百五十年・板垣退助百回忌の年、東京品川の板垣墓前で遺族や政治家、宮内庁関係者さま、板垣ゆかりの方々が参集され記念法要が行われた。勤皇精神の中枢・大楠公の御子孫を代表し来賓出席された楠正至(まさちか)さまは次のような和歌を献じられた。曰く「湊川 散りし男(をの)子の跡享(う)けて 君また七度 生(あ)れし人かも」と。小生も世代を越え、大楠公精神を受け継いでゆきたいと考えている。


本年もよろしくお願い申し上げます。


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投稿日:2024/01/01

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