板垣會館落成式(昭和12年4月6日)

昭和十二年(一九三七)四月六日朝、天下の豪傑・頭山満は一泊した野村茂久馬邸を出て高知公園、高知城に遊び、入口の廣場に向つて立てる板垣伯の銅像前で記念の撮影をなし、それより山内神社と潮江天満宮とに参拝、午後一時からいよいよ板垣會舘落成式が擧行された。

その模樣は大阪朝日、大阪毎日、高知新聞、土陽新聞の各日刊新聞に掲載されたが、それらによれば、明治時代に自由の本山として憲政創始の魁をなした土佐の大先覺板垣伯逝いて十有九年、其高遠な理想と雄大な氣魄を追慕し、又其の典型的土佐人たる遺烈を後世に傳ふべき記念のもと、豫(かつ)て高知市中島町・高野寺境内の伯生誕の趾に建設中の板垣會館は、此程竣工したので、奇しくも議會解散の旋風裡に、いよいよ六日午後一時から伯と親交のあつた頭山滿翁を始め、伯の岐阜遭難の時、身を挺して犯人相原を逮捕した内藤魯一氏の長男・愛知縣農會技師農學士・内藤乾藏氏、東京から伯の外孫・宮地茂秋氏や、宮崎宣政、佐々木武行、藤本尚則の諸氏、岐阜市の松尾市長、縣内では陸軍中將坂本政右衛門氏、前代議士大西正幹氏、上村縣學務部長、縣會市會各議員、齋藤市會議長、濱田町村長會長外各町村長、高知市各町總代ら約六百名參列した。

「板垣會舘」の壁間には頭山翁揮毫の額、祭檀の両側には「板垣雖死自由不死」、「精誠奉公終始不渝」と同じく頭山翁揮毫の聯が懸つて居る。午後一時開式、建設後援會評議委員谷流水氏が開會の辭を述べ、高野寺住職・谷信讚(しんさん)師以下衆僧に依り、佛式を以て荘嚴なる式典を執行。頭山翁來賓總代として拝禮、終つて建設發願者として谷信讚氏、後援會代表者池田永馬氏式辭を朗讀、後援會員西川壽惠吉氏工事報告をなして後、大蔵、逓信、農林各大臣の祝辭(大西正太郎氏代讀)を始め望月圭介氏(水野吉太郎氏代讀)、小林高知縣知事、川淵洽馬高知市長、第三百九十世高野山真言宗隆心管長(草繋全宣氏代讀)、縣會議長(淺井茂猪氏代讀)、學校代表石倉高知高等學校長、政友會、民政黨各支部長等の祝辭あり 、祝電約五百通披露の後、頭山翁の發聲により「聖壽萬歳」を奉唱、山本正心氏閉會の辭を述べて盛會裡に無事式を終り、引續き午後四時から祝宴を開いた。

尚、餘興として投餅を行ひ、また高知城公園の故伯銅像下に集合した稚兒百五十餘名が市中を練り歩いて大賑ひであつた。翌七日は、午前十時から板垣會館講堂に於て【憲政功勞者慰靈祭】が、神式及び佛式の両樣式で擧行せられ、頭山翁も有志百餘名と參列。十二時に式を閉ぢ、公園北側廣場における【板垣會館建設記念相撲大會】を見物、同日午後六時から得月樓本店において、高知市長川淵洽馬、民政黨高知支部長・高原伊三郎、政友會高知支部長・森淳太郎、高知商工會議所會頭・野村茂久馬 、板垣會館後援會代表・池田永馬 、高野寺住職・谷信讃の諸氏發起の下に頭山翁歡迎會が開催せられた。翌八日、頭山翁は、藤本尚則の母校高知縣師範學校を訪問せられ、この後、翁一行の海路歸京乘船に先だち、野村氏は翁一行を請じて浦戸灣の舟遊を試み灣内)の風光を賞した。宮崎宣政氏は漢詩人であり舟中で一詩を詠んで曰く「歴々山川感慨多。曾遊五十九年過。畫舫誰載英雄去。烟雨春深湖上花」と。出帆汽船の時刻が近づき一行は船中の人となり滯高僅かに數日、多大の感銘を、われ等に與(あた)へた老國士を乘せた汽船は、汽笛一聲長煙を曳いて太平洋上にその影を沒した。

(以上、藤本尚則著『頭山精神』より拔萃、誤脱訂正済)


【板垣伯の長女兵子刀自】
板垣會舘落成の日、展覧會場を巡覧中の頭山満翁の前へ、石黑正子氏が、顔立ちの上品な小柄のお婆さんをつれて來た。石黑氏が「板垣伯の長女兵子(ひやうこ)さんでございます」と紹介するや、其場のゐる人々の中には、伯の長女の存在を知らなかつた人もあつて驚いたが、それにも増して驚いたのは頭山翁だ。「白頭是れ昔紅顔の美少年、洛陽の女兒顔色を惜む。行くゆく落花にあひて長嘆息す」の詩そのまゝ、頭山翁も五十九年前來縣した時は二十四歳の靑年であつた。板垣伯が「これは九州第一の色男ぢや」と云つて紹介する。頭山さんが相撲をとる。そこへ小政といふ十九歳の藝妓 がこれも飛びついて二人が大勢の前で相撲をとつたといふ。さて其の頃板垣伯の長女、この兵子さんは花も恥らう十八の乙女であつた。今約六十年目に頭山翁の前に出た片岡兵子刀自(土陽新聞營業部に勤務した片岡熊之助光房氏の未亡人)は「御達者でお目出たうございます。その節は…」と聲が詰つて出なかつた。頭山翁は「あ!」と一聲唸つたのみで、凝視やゝ久しうして後「お幾つになりました」「七十七でございます」、翁はたゞジツと兵子さんを見詰めて、昔の美しかつた面影を探し求めるやうに兵子さんの赤黑い顔、しかし苦勞の跡を止めぬ皺のない、老媼にしては艶々しいその顔を見まもるのであつた。やがて頭山翁は「血色が非常によろしい」の一語、それからまた沈黙、前後通じて数分間まばたきもせず兵子刀自の顔を見詰めてゐたのであつた。(『週刊新高知』より)


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投稿日:1937/04/06

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