高知板垣山・板垣退助分骨墓完成(昭和44年4月6日)

昨年は、明治百年・板垣退助五十回忌を迎え、東京品川の板垣退助先生墓前に、佐藤栄作名誉総裁による「板垣死すとも自由は死せず」の揮毫を高知産の磐に刻んだ【板垣退助先生顕彰碑】を建立いたしました。
本日4月6日は板垣先生岐阜遭難の日、弊会は高知板垣山に【板垣退助先生の分骨墓】を建立し、慰霊法要を行いました。
(※右写真、右端の喪服女性・板垣晶子さま)



後列中央女性・板垣晶子、その左・土居音三郎


右端・寺尾豊会長、左より2人目が島田信了住職


新聞報道では・・・

【十年目、やっと完成。板垣伯の「高知の墓」あす盛大に墓前祭】
板垣退助伯の「高知の墓」が高知市薊野に出来上がった。東京・品川神社境内裏にある「東京の墓」から分骨、故郷入りして十年目。建立の中心になった板垣会(理事長・寺尾豊参議院議員)は六日午前十時から墓所で盛大な墓前祭を行なうことにしている。板垣伯は、高知市中島町(いまの高野寺境内)の生まれ。大正八年七月十六日に薨去。品川神社境内裏手(高源院墓地)に葬られたが、市内薊野の国道北側にある通称板垣山が板垣家歴代の墓所なので伯にも帰って来てもらおうという声が高まり、板垣会が中心となって十年前に分骨した。しかし資金などの事情で墓所作りは進


まず、分骨は生家跡に当たる高野寺に安置されたままになっていたが、昨年やっと百十万円の寄付も集まって板垣山への墓所作りが始まり、このほど完成したもの。墓碑は歴代のそれと並んで建っており、高さ約二メートル、幅約八十センチ、厚さ約四十センチのミカゲ石で碑文は寺尾理事長の筆。同会はこれを機会に板垣伯の顕彰事業を進めることにしており、まず伯の遺著『立国の大本』を復本して関係方面に配布する予定。(『高知新聞』昭和44年4月5日附朝刊12面より)



『高知新聞』(閑人調-かんじんちょう)コラムより

【二つの墓と五つの銅像】(閑人調-かんじんちょう)
昭和44年4月6日に板垣退助の墓が高知市薊野の通称板垣山に建てられ、その竣功式が挙行された。東京の品川墓地から分骨されたものである。建碑に骨を折った板垣会の説明によると、県外からの来客に「板垣さんの墓にお参りしたい」と呼びかけられることがしばしばあるが「お墓は東京にある」と答えると必ず客は失望した顔を見せる。


それが分骨建碑の理由だというのである。竣功式に参列して感じたのは、これまで『板垣退助妻之墓』だけがさびしく建てられていたのが、その側に板垣退助の新しい墓っが並んだのを見て、満ち足りた思いがこみあげてきたことである。板垣夫人もさぞや地下で微笑していることだろう。板垣退助先生顕彰会(東京板垣会)の土居音三郎氏から聞いたことだが、最近東京都青梅市にも板垣伯の銅像が出来たという。自由党の院外団みたいな存在だった三多摩壮士の追慕から建設されたもので、板垣の銅像は高知にも再建されたし、日光にも再建されている。戦前には東京の芝公園にもあったし、あの『板垣死すとも自由は滅びず』で有名な岐阜にもあった。前後をあわせると五つの銅像(高知・岐阜・日光・青梅・国会議事堂)があったわけで、こんなのはめずらしい例ではあるまいか。二つの墓と五つの銅像、これは『自由の権化』と評された板垣への追慕を物語るものだが、なぜかまだ板垣退助の全伝とか、詳伝が世の中に出されていない。不思議なことだと思われる。(『高知新聞』昭和44年4月12日附朝刊9面より)


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投稿日:1969/04/06

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