板垣退助第96回忌 (平成26年7月16日)

本日は板垣退助薨去第96回忌。

高知の7月は暑い。かと思うと颱風接近で大豪雨の時もある。本日は炎天下。来るべき百回忌に向けてSNSのグループなどを使って協賛者に訴えようと考え、板垣山へお参りを済ませた後、高知市内の史蹟を回ることに。丸山台を眺望する場所に建つ『板垣退助帰朝記念の碑』や『板垣退助先生邸址』の碑、山内神社の社前に建つ『近衛兵之碑』など。


板垣が江戸で幕臣より、近代式兵術(オランダ式)を学び、その帰路の慶応3年5月21日、中岡慎太郎の仲介で京都で、小松帯刀、西郷隆盛らと会して【薩土討幕の密約】を結んだ。翌日、山内容堂にこれを稟申して承認を得ると、谷干城、中岡慎太郎に命じて、大坂でアルミニー銃300挺を購入させた。財源は藩費から出ているので、俗に「薩土討幕の密約は、板垣と西郷が私的に結んだ約束で、山内容堂は知らなかった」等の説は正確では無い。板垣は土佐に戻って北條流弓隊を廃止して、銃砲部隊を作り軍事練兵を行った。この部隊は戊辰戦争で、迅衝隊として出陣。甲州勝沼で新撰組の近藤勇を潰滅させ、会津城を落城に導いた。会津城の落城があと一週間遅れておれば、会津藩、庄内藩によって北海道はプロイセンのビスマルクに売却されてしまっていたと言われる通り、板垣は領土割譲を防いだ。戊辰戦争の後、かつての敵将・沼間守一を教官に招いて、これをフランス式に練兵しなおし、「御親兵」として天皇陛下に献上した。「御親兵」が「近衛兵」となり「近衛師団」となり、これが基礎となって「日本陸軍」が創設された。ゆえに板垣は「日本陸軍」の生みの親の一人としても数えられている。


戦前はこういったことをキチンと教えていたが、戦後史観では「自由民権運動の指導者…」としか言わなくなった。「自由民権運動」も「征韓論争」が発端であることを教えなくなって「薩長の専制政治に対抗して…」などと言われるようになってしまった。

NHKの『その時歴史が動いた』では「外交問題でこじれた板垣は…」とナレーションで済まされてしまって、このNHKが「外交問題」と呼んでいるのが「征韓論争」のことだと、何人の人が理解してくれるのだろうかと、暗鬱たる気分となった。板垣百回忌を行うにあたって、このような戦後史観で捻じ曲げられた解釈を一層し、真の板垣退助の姿を伝えねばならないと思う。法事だけ行って、その精神を継承しないような、形骸化したものにしてはならないと思う次第である。


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投稿日:2014/07/16

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