板垣退助第103回忌命日。今年はコロナ禍の為に初めて、100年以上続いてきた7月16日の法要が延期となりましたが、三密を避けて、板垣山墓所の整備【標柱杭】の修復を行いました。
【板垣退助の功績 墓所に。板垣退助先生顕彰会が命日に合わせ標柱】(高知市)
「自由民権運動の指導者・板垣退助の命日(7月16日)を前に、板垣退助の玄孫で、一般社団法人板垣退助先生顕彰会理事長・髙岡功太郎さん(47歳)=兵庫県伊丹市=が7月15日、高知市薊野東町の板垣家歴代墓地に埋葬者名などを記した標柱を設置した。板垣退助は大正8年(1919)83歳(満82歳)で薨去。東京・品川の墓所に葬られ、明治百年・板垣第五十回忌の昭和43年(1968)に、財団法人板垣会(現・NPO法人板垣会)・板垣退助先生顕彰会の両会長を兼任していた寺尾豊(参議院議員)らの尽力によって高知自動車道高知インターチェンジ近くの通称「板垣山」に分祀された。墓地には江戸時代初期から退助の第3番目の正妻・鈴や三男・板垣孫三郎らの墓石が整然と並ぶ。乾家(板垣の旧姓)代々の墓は約30基余があるが、江戸時代初期〜中期にかけての古い墓は配置が順不同なため、埋葬者が誰が誰か後世分かりにくくなる事を懸念し、同会が浄財を募り名前や小伝などを記した標柱を作成。髙岡理事長自ら筆を執って題字を揮毫。NPO法人板垣会・島崎順也さんらの協力を得て、手分けし各墓前に計24本を打ち込んだ。板垣家歴代墓所は市内でも分かりづらい場所にあるが、今春、墓所の麓に駐車場が整備された事に呼応して墓所の整備を行った。髙岡さんは『薨去百年以上を経ても板垣の功績が色褪せない。板垣の墓が此処にある事を広く知ってもらいたい』と話していた」(高知新聞社=谷沢丈流『高知新聞』令和3年(2021)7月17日附朝刊記事より文脈を補足し引用)
今春、
板垣山墓所麓へは高知県のご好意によって駐車場が整備されました。板垣百回忌の平成30年(2021)には間に合いませんでしたが、実に10年来の地道な活動が実を結んだものです。我々は百回忌記念事業の一環として、墓所内へも標示板の設置、標柱の設置を行ってきましたが、板垣百回忌を前に設置した仮標柱杭は、風雨に晒されて傷みがあり、この令和3年春の駐車場整備を記念し、墓所内の標柱杭を新調し敷設することに決しました。墓地内へは今後も「カラー写真付き案内板」、「板垣山墓所地図」、「板垣山の由来」、「残り約10本分の標柱杭」の敷設をはじめ、「墓石修理」、「地盤強化」など取組まねばならない課題があり、引続き関係各位に御支援を請い、また本ウェブサイトを御高覧の方々へご協賛を募っております。
【高知・板垣山墓所修復の取組み】
●板垣山墓所地図 – (仮敷設済)
●標柱杭の設置(今回24柱) – 令和3年7月16日達成
●標柱杭の設置(残り12柱) – 次回
●カラー写真付き案内板 – (製作法試案中)
●板垣山の由来板 – (製作法試案中)
●墓石修理 – (修理法試案中)
●地盤強化 – (強化法試案中)
【板垣山墓所の標柱杭作製】
業者に見積りを依頼すると、設置費込みでざっと200万円とのことで、業者へ依頼するのを断念。もっとも「板垣退助顕彰の…」と説明して見積りを取ると、かえって法外な値段をふっかけてくる業者がいるため、アイミツを取らぬ段階の物はアテにはならない。
(側面に略伝などを記載し標柱を作製)
文字も印刷のような字体では無味乾燥として味気なく、書家に依頼すれば、それなりの金額を負担せねば良いものは出来ない。我々のように非営利で国家に尽した義士たちを顕彰している団体と、世間の営利目的の業者とは、ソリが合わない。…ならば、木材から発注して我々で作り「豪華ではないかもしれないが、心のこもった物を作ろうではないか」と相成った。墓所にある墓石は33柱余。隣の関連ある北原羽左衛門の墓も含めると40柱余。今回は総てには手が回らない為、とりあえず24柱分を作成。防水の為の油性ペンキを塗り重ね、乾いてはまた塗るの作業に着工したのが、令和3年5月9日。折からの梅雨で、天候を見計らい、乾燥などの期日も考慮しながら作業を進めた。結局、標柱の題字は髙岡理事長が自ら揮毫。一柱一柱、側面に略傳なども記載。
「弘法は筆を選ばず」と言うけれども細筆にペンキで文字を書くのは中々難しい。試行錯誤されながらの作業であったとのこと。標柱も一柱一柱は重くないが、24本になると結構な重さ。板垣山への運搬方法なども含めて難題山積。
【令和3年7月15日】
天気予報では11:30頃から雨が降り出し、14時頃ピークとなるはずが、幸運にも板垣山の山頂に着いた正午頃から、雨が上がり晴天に。
(標柱設置後の高知・板垣山墓所全景)
般若心経を暗誦の後、板垣退助の分祀墓(前方右)に、髙岡功太郎理事長が「初鍬(はつくわ)」を入れ一柱目の標柱を設置。その後、板垣の父、祖父と、上段部分の墓石に標柱を設置。例年、全国より支援者、協賛者さまがお墓参りにお越しになられていたが、本年はコロナ蔓延予防の観点から告知を行わず、さらに人数を制限しての作業となりました。NPO法人板垣会(高知板垣会)より島崎さまが工具を万端整えて下さり作業にあたることに
(ご協力下さった高知板垣会・島崎順也さま)
なりました。作業工程は、古い仮杭を抜いて、新しい標柱に取り替え建てる。この時点で、今朝降った雨のため、土佐初代・板垣加兵衛正信らの墓所のある下段部分は大きな水溜まりとなり下部が水没。とりあえず、水没を免れた上段部分から作業を始める。上段部分の作業を終えた頃、下段部分の水が引き、作業可能となる。途中、新聞社からの取材あり。板垣山の由来、今回の作業工程及び、板垣退助百回忌記念事業に関する内容を記者
さまへ説明。その後、作業途中の写真撮影などに応じ、記者取材の後、作業続行。作業時間12:00-16:00で完了。作業後に写真撮影。その後、般若心経を暗誦し作業完了。ちなみに今回ご協力を賜りました、高知板垣会・島崎順也さまは、明治の自由民権家・島崎寅彌さまの令孫にあたられるとのこと。島崎寅彌さまは民権結社「修立社」に所属し活動された弁士です。色々なご縁が今も続いているのを知ると面白いですね。
【令和3年7月16日】
板垣退助四女・千代子さんの曾孫(退助玄孫)にあたる浅野造史さんを高知駅でお迎えし、板垣山へ。
(板垣退助玄孫・浅野造史さま)
あいにくの雨の中でしたが、墓前で般若心経を挙げた後、退助生母・林幸子の墓石の標柱杭に「〆打ち(打ち固め)」をして頂き、昨日からの一連の作業を滞りなく完了。
下山し、比島の龍乗院へ立寄り、今も残る退助生家の門をご案内。さらに、安楽寺の板垣家土佐二代目・乾金右衛門正行夫婦の墓所へお参り。その後、高野寺へ。
(板垣退助生家・高野寺と板垣先生の御位牌)
今年はコロナ禍の為、板垣会としての命日の法要は延期となりましたが、三密を避け、会で集めた浄財の中から「志」を包んで御参りしました。
弘法大師空海さまに護られるように安置されておりました。
(板垣退助生家・高野寺)
本年はコロナ禍のため異例の法要延期となりましたが、これで、板垣薨去以来、100年以上続く【7月16日の法要は一度も欠かした事が無い】と言う伝統を一応守る事が出来ました。
雨が激しくなったので、帯屋町の明神丸に移動し「直会」。「塩タタキ御膳」を会食。
(髙岡功太郎理事長・浅野造史さま)
その後、雨が小降りになったのを見計らい高知城の板垣像をご案内。
涙雨に打たれた銅像もいつもと違って艶があって良い色に見えました。雨に濡れて西園寺公の撰文による板垣を顕彰する石碑も文字が読み易くなっておりました。
雨に打たれて、水もしたたる良い男になっちょりました板垣退助先生。
(高知城の板垣退助先生像)
この像は真正面から顔は平面的にひしゃげてあまり似ておりませんが、斜め下から見たこの角度からなら、なんとかちょっと似ています。
ちなみに、戦前の本山白雲の作った初代銅像は顔も良く似ていました。本山白雲の作による東京・芝公園の銅像や日光の銅像も良く似ていました。本山白雲は板垣先生と面識もあり、よく特徴を捉えています。その像と負けず劣らず良く似ているのが、北村西望の作による国会議事堂の板垣退助像です。流石、長崎の原爆像を作った人物だけあって、この人物作の銅像は風貌も似ているし、ポーズから滲み出る雰囲気も良く似ています。
逆に岐阜公園の銅像は戦前のものは、五頭身でバランスが悪かったものが、戦後は八頭身となり似ているかどうかよりも、最もカッコいい板垣像と言われております。
(高知城の板垣像を建立した当時の記念碑)
(※撮影者「Photo memories 1868」)
【銅像題字西園寺公望公揮毫】
「 維新の元勲、自由の泰斗、憲政の唱首、社會改良の先覺、板垣先生の偉績は史上に赫灼たり。大正九年、本會、先生の銅像建設、并誕生地、歸朝歓迎地及舊邸址に建碑を企つるや、全縣市町村、喜びて資を寄せ兒童亦、加はるに至る。且、東京角力協會の援助あり金額参萬参千圓に上り各其の工を竣る。本像は大正十二年十二月五日、盛大なる除幕式を了せる。
大正十三年五月、建設同志會建之」
この碑文によると、現在の戦後再建像の題字揮毫は、吉田茂氏でありますが、元々の像に附されていた題字の揮毫は、西園寺公望公であることがわかります。
今年は墓所の修復を兼ねしめやかに板垣を偲ぶ日となりましたが、これはこれで貴重な一日となりました。
●企画:一般社団法人板垣退助先生顕彰会
●協力:特定非営利活動法人板垣会
●取材:高知新聞社
(追記)旧土佐藩主・弟19代 山内豊功さまが名誉顧問を務められております、土佐藩の会報誌に上記内容が掲載されました。
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