樋口季一郎中将銅像建立除幕 (令和4年10月11日)

本日は樋口季一郎中将の命日。

弊会は本日は樋口季一郎中将の銅像建立除幕式の為、伊弉諾神宮へ。

樋口季一郎中将は、戦争末期、北海道を守り敵軍の手に落ちる事を阻止されました。そうでなければ、東北あたりまで、ロシア領となっていたかもしれません。また樋口中将は杉原千畝氏と同様にユダヤ人を救ったとイスラエルから讃えられゴールデン・ブックにその名が記載されています。

しかも、杉原千畝氏より樋口中将の方が2年も早く、しかも、当時の文書から明らかになったことは、自らの意思を以てユダヤ人保護の観点から行動されていました。救ったユダヤ人の数は2万人を超えるとも言われています。この点から杉原氏より樋口中将の方を評価する専門家が多いです。


『産経新聞』等で報じられた為、御来賓、ご列席者多数に見守られての除幕式となりました。TV局の取材もございました。さて板垣退助先生顕彰会は、板垣が創った【帝国陸軍】のゆかりと【人種差別撤廃】に尽力された功績、【北海道を領土割譲から守った】という共通点から、樋口季一郎中将銅像建立に協賛しております。板垣退助が【北海道を領土割譲から守った】ということは、戊辰戦争の戦勝と共に板垣の功績の一つとして数えられています。以前にも記載しましたが、御存知の無い方の為にご説明すると、戊辰戦争の末期、会津藩と庄内藩は戦費を贖う為に、北海道をプロイセンに売却する事を提案。ビスマルクは欧州の国際情勢から日本の戊辰戦争へ関与する事を避け、一旦はこの申し出を却下しましたが3週間後、思い直して承諾書を日本へ送りました。


横浜の駐日プロイセン公使マックス・フォン・ブラントが書いた外交書簡によれば、当時東北にいたプロイセン人の仲介人シュネルに対し、軍費を会津藩・庄内藩に与える担保として蝦夷地の99年間租借権を、会津藩主・庄内藩主から全権委任を受け「100平方ドイツマイル(5.625平方km)あたり30万メキシコドルで充分であろう」と具体的な金額も提示していることが明らかになっています(ベルリン連邦文書館蔵『駐日公使発 本国向け外交書簡』より)。もし、会津藩・庄内藩の謀略が功を奏しておれば、北海道は昭和42年頃までドイツ領になっていた可能性がありました。しかし、このことを板垣はことさら糾弾せず、降伏した松平容保が城を明け渡す時も、「降伏したる上は、我ら等しく王民(同じ日本人)」として、輿に乗ったまま堂々と城外へ出ることを許し、藩主としての威厳を保たせました。また、領土割譲の大罪によって、日本民族に軋轢が生じるのを避け、未来に向かって日本人が(国民皆兵)一致団結して国を守れるよう、むしろ寛典論(温情ある沙汰)を唱えました。


結果、藩主の切腹や改易は避けられ、斗南藩への転封となりました。また、石高が減ったことにより、斗南藩士が困窮していることを知ると、板垣は士族公債の発行を働きかけ、斗南藩士族の困窮を救いました。後年『会津戦争』を著した平石弁蔵はこの事に敬意を表し、板垣に序文を請うています。この経緯は弊会理事長が、板垣百回忌記念書籍『板垣精神』や、土佐藩の会の会報に現代語訳を交えて執筆しておりますので、詳細お知りになりたい方はそちらをご覧下さい。また、東京大学、北海道大学からも会津藩の北海道売却計画に関する研究論文が発表されております。

人道的観点からユダヤ人の身命を助け、また北海道をソ連の侵攻から守った樋口中将。国産みの処・淡路島の伊弉諾神宮から、日本精神が解体されないよう軍服姿の樋口中将の銅像が日本の未来を見守って下さっています。


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投稿日:2022/10/11

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