京都霊山護國神社・秋季例大祭【祭文奏上】(令和4年10月14日)

本日は『京都霊山護國神社』の秋季例大祭。
京都霊山護國神社は、毎年「大政奉還の日」である10月14日に、秋季例大祭が斎行されております。


本年は、一般社団法人昭和の杜友の会・植田善裕会長の名代として、不肖私が「祭文」を奏上する大役を拝命いたしました。

荘厳な空気の中で「祭文」を奏上するのは初めてですが、何事も経験。奏上の時の所作、お作法も分かり、良い経験となりました。


京都霊山護國神社は、嘉永6年の黒船来航以降、国事に奔走され散華された勤皇の忠臣と、それ以降、大東亜戦争に至る京都府出身の戦歿者7万3011柱を護国の英霊として奉る神社である。その起源は、明治元年(1868)5月、太政官布告を以て、護国の英霊を奉る招魂社として定められたことによる。そのため創建は「京都霊山護國神社(霊山招魂社)」の方が「靖國神社(東京招魂社)」より1年早く、わが国初の「官祭招魂社」である。


明治元年(1868)の太政官布告により、各藩は社殿を建設し、同年7月には盛大な祭典が挙行された。明治10年(1878)には、皇室より巨費が下賜されて神域が整備され、全国に建てられた招魂社の中で最も崇敬を集めた。さらに昭和4年(1929)6月には、『昭和天皇御即位大礼』の建物を下賜され、現社殿を整備。昭和14年(1939)に「護國神社」と改称して現在に及んでいる。霊山神域内には、坂本龍馬、中岡慎太郎、木戸孝允(桂小五郎)、平野国臣、宮部鼎蔵をはじめ、蛤御門の変、天誅組の義挙等に加わった志士の墓300余基があり、1356柱が合祀され、明治維新を偲ぶ大霊域・史蹟となっている。



さて、本年は色々思うところがありました。本日の護国神社の例大祭では、祭文を奏上する役を賜りました。その時、京都霊山護國神社の貴賓室のお軸を拝見した処、明治天皇の御製が掛かつておりました。崩し字ですが、崩し方が綺麗で読めそうなので浅学ながら読んでみると、

於裳不己登 津良奴可春之天 也万奴己所
大和遠乃己能 己ゝ路奈利希禮

おもふこと つらぬかずして やまぬこそ
大和をのこの こゝろなりけれ

と読めました。おそらく、

思ふ事 貫かずして 辞まぬこそ
日本男子の心なりけれ

で直訳すると「思っていることを貫かないでおれないという気持ちこそが、日本男子の精神である」となると思います。さらにこれを深読みすると、

一心に思いを貫こうとする日本男子の心の結集が今の日本を形成してきたのだ。

その「心」とは尊皇の精神である。

…と非常に奥ゆかしい表現で表された歌となるのではないでしょうか。

崩し字、古文書が読めると世界が広がります。そして日本語の奥深さ、日本精神が分かります。日本精神の真髄は「総てを語らない」けれど「その行間(言わない部分)に本質がある」のではないでしょうか。「分かる人」どうしの「精神性」の世界です。本日は、尊皇の志厚い皆様と共に、護國の大神をお奉りする例大祭に臨むことが出来、感無量です。「大君の辺にこそ死なめ、顧みはせじ、長閑(のど)には死なじ」。すめらみこといやさか、すめらみくにいやさか。(理事長談)


追記、令和4年12月1日発売の『昭和の杜』に髙岡功太郎理事長の祭文奏上の記事が掲載されました。(事務局)


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投稿日:2022/10/14

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