祝・門井慶喜先生の著書『自由は死せず』文庫本化。(令和5年1月15日)

令和元年(2019)、板垣退助薨去101回忌(百周忌)の年・祇園の【薩土討幕之密約紀念碑】建立の年に出版された『自由は死せず』の文庫本化です。


上巻の表紙は戊辰戦争を意識したもので、あらすじも「薩土密約」が取り上げられていて良い感じ。

帯には【日本の民主主義は土佐一の悪童から始まった】と書かれていまして、完全に目がヤバい方を向いている板垣が、拳銃片手に自由を語る構図になってて…。

まあその通りなので、何も言えません。

こう云うキレキャラでもある処が、板垣の板垣たる魅力でもあるのでねえ。

下巻は往年のお髭の板垣で、これもキリッとして良い感じになっております。紋付き袴の板垣。銅像の板垣は洋装or軍服であるが、洋装は演説会などでの演出で、普段は和装で過ごしていたし、


晩年は殆ど和装の方が多かった。そう云う意見を取り入れて頂けたのか、和装の板垣が腕を振り上げている構図。上・下巻ともそれぞれ板垣らしさが表現されております。


さて、細谷正充氏の書評が出ておりましたが、これが中々良いので『小説推理』(2020年1月号)から引用させて頂きました。

タイトルは「幕末は官軍の指揮官、維新後は自由民権運動のリーダーとして激動の時代を生き抜いた板垣退助。その骨太の生涯は、政治不信の“今”、人々を魅了する──『自由は死せず』門井慶喜」です。

幕末維新を土佐藩士として駆け抜け、明治の世になってからは自由民権運動に一身を捧げた板垣退助。彼の波乱に富んだ生涯を、門井慶喜が描き切った。『小説推理』に長期連載されていた、門井慶喜の歴史小説が、ついに単行本になった。上下二段組で、五五七頁。これだけの枚数を費やして作者が捉えたのは、板垣退助の波乱に富んだ生涯である。


土佐藩の上士の家に生まれた板垣退助(幼名・乾猪之助)。心を病んだ父親から虐待されていた彼は、札付きの悪童になった。何事もなければ天邪鬼の嫌われ者になったことだろう。しかし幕末へと向かう時代が、彼を変える。藩政を仕切る吉田東洋に見込まれ、前藩主の山内容堂に仕えるようになったのだ。上士ゆえに、土佐の志士たちと深く交わることはなかったが、倒幕の必要性を考えている退助。薩土密約を実現させ、しだいに注目されるようになる。

やがて戊辰戦争が起こると、官軍の指揮官のひとりとして活躍。だが会津戦争の最中で、戦の非合理に気づいた。そして明治政府の要職を歴任するも下野。自由民権運動に身を投じるのだった。

板垣退助は志士ではない。彼は幕末の動乱に、あくまでも土佐藩士としてかかわっていた。上士という立場ゆえのことだ。さらに時代の流れに直接介入するのは、薩土密約以後からといっていい。つまり幕末時代の退助は、主人公にしづらいのだ。

その事実を作者は、逆手に取ったようである。父親の虐待により天邪鬼な性格になった彼は、時代を見抜き倒幕を主張しながら、どこか時流と距離を置いている。土佐藩の揺れる状況を描くときは、土佐勤皇党の武市半平太などにまかせ、退助は部外者となる。これにより彼の、時流に阿らない人間性が、巧みに表現されているのだ。

そんな退助だが、戊辰戦争のときは時流に乗った。退助視点の会津戦争は珍しく、迫力に満ちた戦闘場面に興奮した。もっとも彼は、結果的に戦の無意味さに気づく。これもまた退助らしい。

しかも明治の世になると、再び彼は時流から外れる。下野して高知に戻ると、自由民権運動に邁進するのだ。ここに元士族の救済を持ってきたのは、作者の炯眼である。明治初期には、さまざまな不平士族の乱が起こるが、それと一脈通じる新政府に対する怒りが、退助の行動に込められているのだ。

土佐藩士・官軍の指揮官・自由民権運動のリーダーとして、彼は激動の時代を雄々しく生きた。その生涯を描き切った本書に、魅了されずにはいられない。(引用ここまで)


●「父親から虐待され…」は史実にはないフィクションの部分で、「板垣退助は志士ではない」の部分は誇張であり、実際には間崎哲馬(中岡慎太郎の師匠)と乾退助の書簡の交流からも分かるように、「草莽の勤皇の志士」として活動してます。

また、「土佐勤王党」を全面的にバックアップした平井善之丞の妻は、板垣退助の父の姉になりますので、武市半平太とは極めて近い関係になります(板垣退助と武市半平太とは親族でもあります)。

「土佐勤皇党の武市半平太などにまかせ、退助は部外者となる」も実際とは異なり、板垣は史実では「上士勤皇派」のトップで、武市半平太の『土佐勤王党同志姓名附』にも、上士の理解者の中に「乾退助」の名が記されています。そういった点で、小説は史実とは異なる点もありますが、板垣を取り上げた好著。ぜひご一読下さい。


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投稿日:2023/01/15

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