特集【薩土討幕之密約紀念碑】デジスタイル京都(令和5年1月27日)

昨年末『薩土討幕之密約紀念碑』特集の取材があり、記事作成にご協力致しました。本日(令和5年1月27日)附で公開されました。本文に関してはデジスタイル京都を御覧ください。こちらでは、特集記事で紹介しきれなかった内容などを補足しながら、さらに深彫り解説して参ります。


●「薩土討幕の密約」を結び、土佐藩の軍備を近代化した板垣退助。明治の自由民権運動以前の幕末の活躍とは?

京都の繁華街・祇園にあるビルの前にたつ「薩土討幕之密約紀念碑」の石碑。「薩土密約」を見て、「薩長」では?と思った方もおられるかもしれません。慶応2年(1866)、薩摩藩と長州藩によって結ばれた「薩長同盟」は、一度は耳にしたことがあると思います。

…ですが今回は、「薩長」ではなく「薩土」のお話。え?知ってるよ「薩土盟約」のことでしょ?…と中にはストレートに「薩土盟約」と「薩土密約」勘違いしている人も多いはず。

かつては、「薩土盟約」も「薩土密約」も定まった名称が無くどちらも「薩土同盟」と呼ばれたり


したため、勘違いされやすい両者。薩摩藩と土佐藩が結んだ「薩土討幕之密約」成立の中心人物である乾退助(のちの板垣退助) と中岡慎太郎を軸に詳しく解説していきます。

板垣退助といえば、明治初期の自由民権運動の先頭に立った人物。憲法の制定や国会開設のために尽力しました。「板垣死すとも自由は死せず」の言葉が有名ですよね。実は幕末には、土佐藩士の一人として、幕府を倒すべく活動していました。一般社団法人板垣退助先生顕彰会の理事長で、板垣退助の玄孫にあたる髙岡功太郎さんに詳しい話を聞きました。


●オランダ式兵学を学ぶため江戸へ。築地の土佐藩邸で水戸浪士をかくまう

乾退助は天保8年(1837)、土佐藩馬廻(うままわり)役・乾栄六正成(えいろくまさなり/まさしげ)の嫡男として、高知城下の中島町(現在の高知県高知市)に生まれました。馬廻役とは、土佐藩のなかでも身分の高い上士にあたる家格です。また、退助は勤王派で、開港問題などに対する幕府の弱腰の姿勢を批判していました。吉田東洋が暗殺された後、その取調べに附随して土佐勤王党の獄が起きます。当時、町奉行の職にあった乾退助は、後藤象二郎と取調にあたりますが、土佐勤王党に友好的な退助と後藤象二郎は真っ向から意見が対立。武市瑞山の取調べを2度しただけで退助は「下士取り立てにつき不念の儀あり」という罪科を負わされて役職を罷免され失脚してしまいます。


謹慎が解けた土佐では武市瑞山が獄中にある頃、元治2年(1865)4月、謹慎が解けた退助は当時最新のオランダ式兵学(※当時幕府はフランス式兵学を採り入れる以前であったため)を学ぶため、江戸へ留学しました。ちなみに退助は以前にも江戸へ留学しており、今回は2度目ですが、以前は学問全般を習うためであったのに比べ、2度目の留学は、当時最新の西洋流兵学を学ぶためでした。彼に兵学を教えたのは幕臣の倉橋長門守(騎兵頭)や、深尾政五郎らです。つまり、退助は討幕のための兵学を幕臣から堂々と習っていたのでした。(※ちなみに「オランダ式」と言ってもフランスのナポレオン式兵学をオランダ語に翻訳した教材をもとにしたもので、訳語の違いがあるものの、フランス式と似たものであったそうである)

髙岡さんによれば「退助が最新の西洋流兵学を学ぼうとしたのは欧米列強に立ち向かうため」であり、さらに武力討幕を主張していた退助は、その幕府の懐に飛び込んで幕臣から「討幕のための技術」を学んでいたことになります。これらは、孫子の兵法を読んで応用したもので、蔣介石が帝国陸軍の高田連隊で教練を受けながら、対日戦略を練ったのと同様の発想を髣髴させますとのこと。


そして当時30歳の退助は、この時、江戸で兵学を学びながら、同時に築地の土佐藩邸の惣預役(総責任者)も務めることになります。その後、土佐では武市瑞山に切腹処分が下され、勤王派が追い詰められる中、慶応3年(1868年)春、藩邸に逃げ込んできた勤王派の水戸浪士たち(中村勇吉、相楽総三、里見某ら)を退助は独断で藩邸内にかくまいます。彼等は水戸筑波の浪士で天狗党の残党ですが、挙兵に失敗して幕府から追われる身となっていました。これが「築地土佐藩邸水戸浪士隠匿事件」と呼ばれるもので、後々この事件が非常に重要になっていきます。



●討幕派の志士たちと、料亭「近安楼」で密談

慶応3年(1867)5月、京都では、公議政体論のもと四侯会議が開かれ、土佐藩の前藩主で藩の実権を握っていた山内容堂は、朝廷と幕府を結び付けて、幕藩体制の立て直しを図ろうと考え、幕府擁護の発言を行っていました。この容堂の中立的な姿勢に危機感を持った討幕派の中岡慎太郎は、江戸の退助へ手紙を送ります。これを受け取った退助は、江戸留学を中断してすぐさま上京を決意。慶応3年(1867)5月18日に京都に到着した退助は、京都・東山の料亭「近安楼」で土佐藩の中岡慎太郎、福岡孝弟(ふくおか たかちか)、安芸広島藩の船越洋之助らと武力討幕の密談を行います。この場所が現在「薩土討幕之密約紀念碑」の石碑がたっているあたりになります。翌19日、退助は容堂に討幕論を説くため面会を願い出ますが、容堂とは病気のため会うことが出来ませんでした。(この時、容堂は「四侯会議」も病欠しています)そこで退助は21 日、再度中岡慎太郎と話し合い、中岡が仲介して西郷隆盛と退助を直接対面させることにします。この時、中岡慎太郎が西郷隆盛に送った手紙の実物は、現在、駒沢大学禅文化歴史博物館が所蔵しています。


●「薩土討幕の密約」を締結し、薩摩・土佐両藩の軍備強化などを約束

「近安楼」での密談を経て、慶応3年(1867)5月21日、薩摩藩家老・小松帯刀の寓居で「薩土討幕の密約」が結ばれます。この場所は「薩長同盟」が結ばれたのと同じ場所で、中岡慎太郎の日記『行行筆記』によれば、薩摩藩からは小松のほか、西郷隆盛、吉井友実(よしい ともざね)、そして土佐藩は乾退助、谷干城(たに たてき)、毛利恭助と中岡慎太郎が同席したと書かれています。その時、両藩が交わした密約は次のような内容でした。

・土佐、薩摩の両藩は、藩論を武力による討幕で統一する。
・両藩は軍備を強化し、幕府に立ち向かえるような兵力をつける。
・薩摩藩が幕府と戦うことになれば、土佐藩は乾退助を盟主として、軍勢を率いて薩摩側に加勢する。 この時、もし土佐藩の藩論が武力討幕に統一出来ていなかったとしても、乾退助が有志らを率いて脱藩し、一ヶ月以内に討幕の兵に合流する。
・現在築地の土佐藩邸にかくまっている水戸浪士たちは有用の者(時が来れば役立つ者)であるため、彼等の身の安全を確保するため、時機を見計って薩摩藩邸へと移管させる。

翌日(5月22日)、退助は容堂に謁見し、薩摩藩の重臣と武力による倒幕を話し合い、密約を結んだことを報告。容堂は驚き言葉を失いますが、さらに退助は築地の藩邸内に水戸の勤王派浪士(天狗党)をかくまっていることを告げ、もはや土佐藩は後に引けない状況にあることを説明。容堂に起居を促します。結果、容堂は水戸浪士を藩邸に留め置く(隠匿する)ことを「苦しゅうない」と発言して容認。さらに密約を了承して、退助を土佐藩の軍事部門のトップに据えます。これを受けた退助は、谷干城、中岡慎太郎に命じて大坂でアルミニー式銃300挺を藩費で購入させ、6月2日、容堂とともに土佐へ帰国。また薩摩藩側も5月25日、重臣会議を開き藩論を武力討幕に統一することが確認されます。この時、中岡慎太郎はただちに土佐の勤王党の同志に手紙を送り、薩摩と土佐の間で討幕の密約が交わされ事を知らせます。退助は6月13日、藩の大目付に復職し、獄中にあった土佐勤王党の安岡正美、島村雅事らを釈放させ、これらによって旧土佐勤王党300余名の支持を得ることになります。退助は土佐藩内で銃を用いた近代式の軍隊を組織していきます。…しかしこの後、事態は意外な方向へ進みます。


●「薩土盟約」で土佐藩は大政奉還へ藩論を統一。反対意見の退助は失脚へ

乾退助らの密約が容堂に承認された一ヶ月後、入れ違いに長崎から京都へやってきたのが、坂本龍馬と後藤象二郎でした。この二人は退助と慎太郎とは違う戦略を持っていました。徳川慶喜に政権を返上させる「大政奉還」です。 そして、同年6月、坂本龍馬、後藤象二郎、福岡孝弟、寺村左膳(日野春草)、薩摩藩の小松帯刀、大久保利通、西郷隆盛らによって「薩土盟約」が締結されます。これは、武力討幕を回避して大政奉還を実現させようとする内容です。退助たちより一ヶ月遅れて、7月、土佐に戻った後藤象二郎によって「薩土盟約」が山内容堂にも伝えられます。これに真っ向反対した人物が乾退助でした。

髙岡さんによれば「武力によって幕府を討つ『薩土討幕の密約』と、武力衝突を回避し、大政奉還をもって幕府を解体させようとする『薩土盟約』。どちらも同じ薩摩藩と土佐藩の約束ですが、この二つは性質がまったく異なるものでした。つまり薩土は一見矛盾する同盟を二重に結んだことになります。しかし見方を変えれば、後の盟約によって先の密約が更新されたともとれますし、一方がダミーで一方が本物ともとれます」と。確かにそうです。では実際に歴史を動かしたのは、はたしてどれだったのでしょうか?時系列を辿っていきましょう。


●密告により「薩土密約」が露見し、寺村左膳は退助の失脚を狙う

慶応3年(1867)9月9日、土佐藩お抱えの刀鍛冶・豊永久左衛門(左行秀)が、乾退助が中村勇吉に宛てた手紙の写しを証拠として、退助が水戸浪士を藩邸にかくまい、討幕を策していると藩庁に密告し、後藤象二郎、寺村左膳らは驚愕します。彼らはこの時まで「薩土密約」の存在を知りませんでした。土佐勤王党の清岡公張(半四郎)は、退助の身を案じ島村寿太郎(武市瑞山の妻・富子の弟)を通じて退助を脱藩させることを提案。しかし、退助は「『薩土密約』は、容堂公は御存知であり、了承を得ていると取調の役人に答えます。寺村左膳は、「容堂公が御存知のはずがない」と、これを材料に退助の失脚を目論み、容堂へ言上します。ところが、容堂の回答は「余は存じている」というもので、さらに「退助は過激な行いが多いけれど、すこしも邪心なく私利私欲の為に動いているのではない。皆がたとえ退助に切腹を求めようとも、私は退助に処分を課すつもりはない」というものでした。(「容堂のこの判断も後々土佐藩を救うことになります」と髙岡さん)

退助は切腹の処分を回避できましたが、居所の悪くなったのは密告した豊永久左衛門(左行秀)でした。そのため、この一件以降、豊永久左衛門は江戸を去って、土佐の種崎に引き籠り作刀に励みます。

結局、容堂は過激な武力討幕論よりも、平和的に幕府を解体する方が良いと考え、藩論を大政奉還へと転換します。『寺村左膳道成日記』によれば、藩の重臣会議で、最後まで反対した人物が乾退助だったと書かれています。この時、退助は「大政奉還とは名は美なるも、その実は空名に過ぎない。徳川300年の覇政は戦争で勝ち得た秩序である。戦争でできた秩序は、戦争でしか取り返すことができないということは古今東西の歴史が証明している」と言上しますが、容堂は「退助はまた暴論を吐くか」と笑って相手にしませんでした。そして、藩論に背く退助は軍事のトップから外され失脚してしまいます。ところがこの後、大きな歴史のどんでん返しが起きます。


●ついに約束が果たされる! 鳥羽伏見の戦いに土佐藩が参戦

慶応3年(1867)10月初旬、大政奉還を目前に土佐藩邸に匿われていた水戸筑波の勤王浪士が薩摩藩へ移管されます。髙岡さんによれば、この移管は大政奉還を進めるにあたって、大政奉還派にとっては過激な浪士を厄介払いする意図があり、武力討幕派にとっては「密約の内容の通り、彼らの身柄を安全に薩摩藩に移管する」という趣旨に沿ったもので、はからずも両者の利害が一致したために実現したものでした。そして、同月14日には大政奉還の意思を表明する文書が朝廷に提出され、翌日に徳川慶喜が御所に参内して許可されますが、佐幕派の立場から大政奉還を快く思わなかった京都見廻り組によって、11月15日、坂本龍馬、中岡慎太郎は襲撃され暗殺されてしまいます。

同年12月に開かれた、小御所会議によって徳川慶喜の辞官納地が決定します。慶喜と会津・桑名といった幕府側の勢力は、これに反対し慶喜は二条城から大坂城へと退去。京都を掌握した薩摩・長州などと一触即発の事態へと発展していきます。さらに、江戸では土佐藩から薩摩藩に移管された水戸浪士らが、幕府を挑発する活動を開始。そのため江戸では、幕府側で市中を取り締まる庄内藩が、薩摩藩邸を放火する「江戸薩摩藩邸 焼き討ち事件」が発生。結果、瀧川播磨守具挙が『討薩表』を持って上京し、鳥羽伏見で両軍が武力衝突するきっかけとなります。

この戦いの発生する直前の12 月28日、京都では土佐藩の軍監であった谷干城が、西郷隆盛の薩摩陣営に呼び出されます。西郷は谷に「薩摩には既に討幕密勅が下された。よって、まもなく合戦が始まる。貴藩にもついにあの時の約束(薩土討幕の密約)を履行してもらう時が来たぞ」と告げられます。京都の土佐藩邸に戻った谷はこれを重臣に伝えますが、あくまで大政奉還を進めようとする在京の土佐藩重臣たちは「急ぎ藩兵を上京させよ。しかし、乾退助だけは絶対に上京させるな」との指示を出しました。年が改まって1月1日、谷は不本意ながら、この命令を伝えるため、急ぎ早馬で土佐へ向かいます。その途中、慶応4年(1868年)1月3日、鳥羽伏見で合戦が始まり、翌1月4日、在京の退助派の土佐藩士は密約を履行して参戦します。しかしこの時、容堂は静観中立の立場をとり参戦を禁じたので、去就に迷い参戦しなかった部隊もありました。しかし、その内に錦の御旗が翻り、山内容堂は動揺します。

1月6日、土佐に着いた谷干城は京都の状況を伝え、更に谷を追いかけて土佐に着いた第二の早馬の伝令から「既に京都で戦闘が始まった」ことを知ります。土佐にいた藩主・山内豊範は、容堂は隠居した前藩主であり、藩主は私であるとして、京都からの「乾退助だけは絶対に上京させるな」の指示の部分を反故にして、急ぎ乾退助の失脚を解き、軍の大隊司令に復職させ土佐藩兵を率いて出陣させます。その進軍の途中京都より錦の御旗が伝奏され、官軍(新政府軍)として行軍を開始。京都に到着すると退助はすぐさま山内容堂を説得し、土佐藩の藩論を武力討幕へと統一。在京の土佐藩兵を加えて部隊を再編成し、2月14日、土佐藩士約600名からなる「迅衝隊(じんしょうたい)」を率いて京都を出陣しました。

ちなみにこの京都を出陣した2月14日は、乾退助の先祖で甲斐の名将・板垣信方の命日にあたることから、先祖の地・甲府進軍に備えた美濃大垣で2月18日、退助は名字を「板垣」に復姓。板垣退助と名乗るようになったのはこの時からです。退助は先祖の力を借りるかのように、慶応4年(1868)3月6日、甲州勝沼の戦いで、近藤勇率いる甲陽鎮撫隊を撃破。その後も東北へ転戦し、会津攻略戦で新政府軍参謀・迅衝隊総督として勝利を収め、結果として薩土討幕の密約は総て履行されることになったのでした。



土佐柏の陣羽織を着た後ろ姿の人物が板垣退助


馳突して会津城へ進む板垣ら官軍諸兵


戊辰戦争後の論功行賞の席で、板垣と西郷隆盛が再会した時、西郷は「板垣さんは怖いおひとよ。あんな物騒な浪士を薩摩藩にかつぎ込んで大戦争をおっぱじめさせるとは…」と言ったとされ、板垣は「それはどうもおかしなことを言う。土佐藩邸にいた時は大人しかった浪士に物騒なことをさせた人物こそ怖いおひとと思うが。いずれにせよ我々の策が実って良かったではないか」と。

●戊辰戦争・会津攻略の経験を自由民権運動に

明治時代に入ると、板垣は自由民権運動を展開。これには、退助が戊辰戦争で経験したある出来事が影響しています。新政府軍として会津に攻め入ったとき、板垣の目に映ったのは、城に立てこもる藩士と、逃げ出す民衆の姿。この光景に、今後は武士だけではなく、四民平等の制度で国家と人々が苦楽を共にしていかなければならないと考えるようになったといわれています。自由民権運動の原点が、戊辰戦争にあったのですね。

「薩土討幕之密約」を結び、武力討幕を主張し続けた退助。この石碑からは、日本のあるべき姿を模索する土佐藩の幕末のワンシーンが目に浮かびます。



●要点
1.「薩土盟約(薩土同盟)」と「薩土密約(薩土同盟)」は同じものではない。
2.時系列としては「薩土密約」が先で「薩土盟約」が後。
3.「『薩土密約』は板垣と西郷の個人的な約束で藩を代表したものではない」とする意見への反証。
 1)板垣と西郷の会見の翌日、容堂に報告されている。
 2)容堂が密約を承認して板垣を軍事部門のトップに据え、軍制改革、近代式練兵を指示している。
 3)上記の武器調達の資金は藩費から支出されており、容堂が知らないなどあり得ない。
 4)中岡慎太郎の日記『行行筆記』に、時系列が詳述されている。
 5)中岡慎太郎が板垣と西郷を会わすために書いた手紙の実物が現存している。(駒沢大学禅文化歴史博物館蔵)
 6)慶応3年(1867)9月9日、豊永久左衛門(左行秀)が、水戸浪士隠匿事件を密告し、板垣が窮地に立った時、容堂自身が「余は存じておった」と発言し、板垣の切腹を回避させた。
4.「『薩土密約』は、藩主も容堂も知らぬ間に結ばれたもので、事後承諾である」とする意見への反証。
 →『薩土盟約』も、藩主も容堂も知らぬ間に結ばれたもので、事後承諾である。
5.「『薩土密約』は、文書も何もない口約束で、『薩土盟約』は文書が交わされた」とする意見への反証。
 →『薩土盟約』も、文書も何もない口約束であり、間違いがないかの書面は、後に送られた手紙しかない。
6.「薩土密約」が結ばれたあと「薩土盟約」が結ばれたことで「薩土密約」は上書きされた。
 →そう勘違いした人物がいたことは確かであるが、歴史の時系列を追えば、「薩土密約」の通りに進行している。「薩土盟約」は2ヶ月半で空中分解した。
 →もう一つの見立てとしては、「薩土盟約」自体が(龍馬の思惑も含めて)、幕府を弱体化して解体するための計略(ダミー)であり、両者は対立するものではなく「薩土密約」が本当の軍事同盟であるとも言える。
 1)慶応3年(1867)12 月28日、西郷隆盛が谷干城に言った発言で上記が裏付けられる。
 2)坂本龍馬が木戸孝允に送った手紙の中で「芝居(ダミー)」と表現。
 3)坂本龍馬は「大政奉還」策を献じながら、板垣と同様に武力討幕のための武器を調達。
 4)坂本龍馬が武器を招来して土佐に着いた時、真っ先に板垣に会おうとしていた文面の手紙が現存。
 5)戊辰戦争後の論功行賞の席で、板垣と西郷隆盛が再会した時の西郷の発言。
 6)板垣が坂本龍馬を顕彰する石碑に寄せた碑文でも、「大政奉還」の策によって、幕府を解体する好機を得たことが記されている。
 7)『大政返上建議前、予(板垣退助)が西郷君に於ける討幕の密約』板垣退助著(所収『史学雑誌(第19号)』19-9、19-20頁)における板垣自身の発言内容。
7.板垣が兵学留学のため江戸へ出たのは、武市瑞山が切腹した後ではなく前。板垣自身が、「武市瑞山の切腹を知ったのは(失脚後)江戸軍学留学の最中…」と証言している。
8.その他よく間違えられる箇所は、板垣を「吉田東洋門下生」とするもの。
 →吉田東洋の門下生で、吉田東洋の抜擢によって藩の要職に付いたものを「新おこぜ組」と称した。板垣は「免奉行」となる時、吉田東洋の抜擢を受けた為、「新おこぜ組」の一人に数えられるが、「新おこぜ組」の中で、板垣退助のみは例外であって、吉田東洋が誘いに来たにも関わらず断り鶴田の少林塾には通わず門下生ではない。明治期の取材でも「一切関係ござらぬ」と発言している。



■参考文献
中元崇智『板垣退助』中央公論新社、2020年

■板垣退助先生顕彰会 参考文献
『大政返上建議前、予(板垣退助)が西郷君に於ける討幕の密約』板垣退助著(所収『史学雑誌(第19号)』19-9、19-20頁)
明治功臣録刊行會編『明治功臣録』明治功臣録刊行会、1915年
平尾道雄『無形板垣退助』高知新聞社、1974年
横田達雄編『寺村左膳道成日記 1~3』青山文庫後援会、1978年
林英夫編『土佐藩戊辰戦争資料集成』高知市民図書館、2000年
宇田友猪『板垣退助君伝記 1』原書房、2009年
尾崎卓爾『中岡慎太郎先生』マツノ書店、2010年(復刻版)
『維新前後経歴談』(所収『維新史料編纂会講演速記録』)マツノ書店、2011年(復刻版)
平尾道雄『子爵谷干城伝』マツノ書店、2018年(復刻版)
板垣退助先生顕彰会編『板垣精神』板垣退助先生顕彰会、2019年
※デジスタイル京都のサイトでは「倒幕」の表記が使われていますが、弊会では「倒幕」は同じ意味ではなく、ニュアンスが違うことに注目し、本来の意味に近い「討幕」の表記で統一しました。
※日付は旧暦、年齢は数え年で表記しました。


前へ次へ

投稿日:2023/01/27

お問い合わせはこちら