本日は板垣退助の誕生日(令和5年4月16日)

本日は板垣退助のお誕生日です。


板垣退助の生年月日と本籍地に関するお話。

板垣退助の生年月日に関しては、現在【4月17日生】と人名事典などに定説かのように書かれ異論がないかのように思われているが、板垣退助の東京転籍後の戸籍謄本では【4月16日生】と記載されている。しかし、一方で「4月17日生」と書かれた戸籍謄本も存在する。ここでは、どの時点でこの齟齬が生じたのか、時系列に従って述べたい。

戸籍制度が開始された明治5年、板垣本人は参議として東京にいたが、その時に編成された本籍地『高知市中島町44番屋敷』の戸籍謄本では【4月17日生】となっている。そして、その後、屋敷番変更に伴って再編された本籍地『高知市中島町69番屋敷』の戸籍謄本でも【4月17日生】となっている。


明治5年といえば、板垣退助は、征韓論争で世間を賑わしていた頃で、金春芸者の「小清(こせい)」を気に入り落籍して権妻とした。「小清(こせい)」は「せい」と名乗り、当時の戸籍制度では「権妻(妾)」欄もあったため、「せい」は板垣の戸籍に入籍したが、その時既に、板垣の子を妊娠・出産しており、その時に生まれた娘「猿(えん)」と同時に入籍している。

征韓論争で下野した板垣は、『民撰議院設立建白書』を左院に提出するが、容れられざるを知ると、「志」を果すまでは東京の土は踏まぬと同志らと誓いをたてて、東京を去り高知に帰った。ところが、その後、東京に残った「せい」が危篤となり、上京しようとする板垣と山地元治との間で、大論争となった逸話はよく知られている。

その後、明治8年の大阪会議を経て、参議に復帰したが、間もなく辞任し、明治10年、再び高知に帰った。その時に居を定めたのが、高知県土佐郡潮江村潮江新田1番地である。

戸籍謄本では、本籍地『高知市中島町69番屋敷』から『高知県土佐郡潮江村潮江新田1番地』に転籍したのが明治10年10月31日である。

そして、この潮江新田に転籍した時に編成された戸籍に記されたのが【4月16日生】であり、東京に転籍後の戸籍謄本でも【4月16日生まれ】が引き継がれ、薨去するまでの長きに亘って戸籍には【4月16日生】となっている。

要約すると、【4月17日生】と書かれた戸籍は存在するが、「明治5年~明治10年」までの僅か5年間であり、板垣が東京にいる間に作られたもので、明治10年になって誤りに気付き訂正したのではないかと思われる。一方で断言は出来ないが、この僅かな期間だけ「4月17日生」と記されていた戸籍謄本を根拠に、伝記などが書かれ「4月17日生」説が引継がれたのではないだろうか。


…ところで、偶然かもしれませんが、板垣退助の誕生日の前日にあたる昨日の4月15日、岸田文雄総理が襲撃されるという事件が起きてしまいました。

「テロ容認派」の意見に左右され、安倍元総理暗殺事件に祈念碑をも建てず、「テロ行為を絶対に許さない」という毅然とした対応を採らなかった奈良県と奈良市の無責任な態度が模倣犯を生み出したのであれば、その代償は極めて大きいと言わざるを得ません。

速やかに奈良大和西大寺に殉難碑を建立し、テロ行為は絶対に許さない態度を示すべきであると考えております。


前へ次へ

投稿日:2023/04/16

お問い合わせはこちら