清廉潔白にして信念の人

板垣退助-清廉潔白にして信念の人- 孫・板垣正貫夫人板垣晶子
板垣家の遠祖・板垣駿河守信方は武田信玄の傅役であり、武田家二十四武将の総大将として「知将」と謳われた人物です。甲府の在には板垣村、茅野には板垣館跡の板垣平、討死した信州上田には板垣神社が今でも残っています。信方が上田原で討死した後、嫡子・板垣信憲が跡を継ぎますが間もなく、ゆえあって改易。信憲の遺児・正信は、老臣らに養せられ、後に掛川で乾和三という侍を介して、山内家に仕えました。この乾和三が、山内家の家老で、正信はその姓を許され乾正信と名乗り、関ヶ原合戦の後、土佐に移って代を重ね祖父に至りました。 幕末、戊辰戦争に際し、祖父は官軍・東山道先鋒総督府参謀を拝命。東征の途上、先祖の故地甲府を目指して進軍する中で、武運長久を願い、三百二十年前に討死した先祖・板垣駿河守信方の名にあやかって復姓し板垣退助と名乗りました。 祖父の生き方は、すべて武士道精神に端を発しているように思われます。寝室では真白な羽二重の布団で休み、枕の下には帯刀が置かれ、万一の刺客に備えて警戒を怠りませんでした。長女は兵子、次女は軍子、長男は鉾太郎、さらに次男は正士と命名しております。 その生活は財産物資に拘泥せず、すべてに潔く自己の所信を貫いて来たのは、その血がなせる業ではないでしょうか。ただ維新の傑出した方々のように経済的に辛酸をなめて出世したのとはひと味異なり、武士の家に生れ、生活の苦労を知らずに育った祖父は無類の正直者でお人好しであり、それが長所でもあり欠点でもあったような気がいたします。 そんな祖父が明治十五年、仏国憲法の研究を主目的としてフランスへ外遊した際の洋行費のことで非常に立腹した一件がございます。世上では、今なお洋行費の出所について何かやかましく、清廉潔白に終始した祖父のただ一つに汚点のように誤り伝えられていることが残念でなりません。当時、財界との癒着を嫌悪した祖父は、奈良の山林王・土倉庄三郎からの援助で洋行できたのですが、財界より金品を受領したのではないかという噂に尾鰭が付いて一波万波を呼び、自由党総裁の辞職を党員より突きつけられるという険悪な状態に陥ったのです。これに激怒した祖父は、「もし自分が不正をしていたならば、この場で割腹する。しかし、指摘が誤りであった場合は提議者が切腹せよ」と対決を迫るに至ったのでした。さしもの提議者もその剣幕に驚き、秘かに再調査した結果、自己の非を認めたというのが真相です。現代の価値観と比べることは出来ませんが、政治家として切腹してまで潔白でありたいという姿勢はとても大切ではないかと思います。 祖父のこのような姿勢は、一生涯変わりませんでした。裕福であった先祖の財産はすべて政治に費やし、最後は自分の家も別荘も何一つ残らず、貧乏の代名詞になった政治家でありました。『一代華族論』もそんな祖父の姿勢を象徴するものです。爵位(伯爵)の授与を辞退し続ける頑固な祖父に、畏くもご叡慮あらせられた明治天皇におかせられましては、その爵位拝辞の書状を勅許されませんでした。祖父はご叡慮に感涙、ついに一代限りの爵位として拝受し、祖父身罷りこれを返上その遺志を貫きました。 現在、祖父に縁の深い高知城、岐阜公園、青梅市、日光市、そして国会議事堂の五カ所に銅像がございます(衆議院憲政記念館の胸像を加えると六カ所)。なかでも日光市のものはとても嬉しく思っております。 それは戊辰戦争の折、日光の山に籠る敵将・大鳥圭介に、「徳川家の祖廟を守る心情があるならば速やかに山を降り、野に出て勝敗を決しよう」と呼びかけ、東照宮を戦火から救ったことに対し、地元の人々が感謝の念を表したものだからです。私どもは今なお日光東照宮と親しくおつきあいをいたしております。 祖父身罷りましてより六十有余年、祖父の遺品の多くを収めておりました高知の板垣会館は、南海大空襲で灰燼に帰し、また東京でも度重なる戦災やその他の事情によって、散逸してしまった、貴重な遺品が幾多もございましたが、古来、「人は死して名を残す」といわれます。祖父を思うとき、真にこの言葉がぴったりいたします。物は失われても折にふれ人々の口の端に、また活字として有形無形に語られることを只々有難くもまた驚嘆しております。
(昭和59年(1984)8月板垣晶子筆記) ※板垣正貫は守正の実弟。板垣守正隠居の後、弟正貫が家督を相続した。

清貧に甘んじた古武士

清貧に甘んじた古武士-板垣退助を語る          曾孫・板垣退太郎
板垣退助は、武田信玄の知将とうたわれた板垣駿河守信方に端を発し、約380年余も連綿と続いてきた武士階級の出である。31歳で官軍の総大将となって戊辰の役に活躍したことは有名であるが、この戦乱の時代にもうけた子女に、長女兵子、次女軍子、長男鉾太郎、次男正士と命名したので知られるが如く、時代の背景と退助の趣向が偲ばれる。 退助は自由民権の祖と言われるが、その発端は、会津落城を目前にして、兵のみ頑強でも農工商を軽薄にあつかったむくいで平民皆四散して城を助けるものなく、わずか一ヶ月で落城したことに、深く政治を改める必要を痛感し、ここに四民平等の思想が萌芽したのである。 しかし、退助の一君万民・四民平等の思想は、士農工商と区別されていた諸階級に、みな等しく愛国心を養い、士分の精神に向上させることを目的としていたもので、今日のような精神不在の自由平等ではなく、まさに「武士道」をその根本に置いたものであった。 その精神は終生変わらず、大正3年(1914)軍艦購入にさいして軍人がコミッションを受けたシーメンス事件に、退助は大いに失望し、農工商を引きあげてことごとく士とする考えであったのに「今日すべてなり下って何事ならん。こんなことならむしろ士のみ残しておくべきであったか」と側近に語ったという。 ところで、退助のもっとも尊敬できる点は、一片の私心なく、無類の正直者であったことである。 男子ひとたび政治を志した以上、一人の夫、一人の父ではなく、国家国民が我が家、我が子であるして、一切の御下賜金・寄付金を私物化せず、皆国民に与え、あまつさえ先祖代々の武家屋敷は寺院に寄付し、その他の土地も公共の用に供したのである。そして自ら居住する屋敷は、竹内代議士の寄贈によったものであるが、その荒廃は目をおおうばかりで、訪れた外国の使臣も見かねて応接間を寄贈したと言うし、二十数部屋ことごとく雨もりし、下盥まで雨受けに使用する有様で、電話などが取りはらわれるのは再々のことで、まったく板垣は貧乏の代名詞と言うにふさわしいものであった。 我が祖先ではあるが、一人の人物としてみた時、終始一貫、名利を追わず、俗権に屈せず、清貧に甘んじ、まこと古武士の風格をもった退助の生涯は高く評価されて然るべきであると思われる。とりわけ昨今、政治を志す人は、退助の政治姿勢に学ぶべきではなかろうか。願わくば第二の板垣退助出でよと切に念ずるものである。
(板垣退太郎『日本人の100年(4)自由民権運動』世界文化社より抄録) ※板垣退太郎は、板垣正貫の長男

板垣退助の住所の変遷

江戸時代

①高知城下中嶋町で生れる。(天保8年4月17日~)
  ※現在地・高知県高知市本町2-3-10(高野寺)

②土佐国土佐郡神田村に謫居(安政3年8月8日~)

③恩赦により高知城下中嶋町の自宅に復帰。

④江戸留学

⑤高知城下中嶋町の自宅に帰郷。

⑥江戸に兵学留学
土佐藩中屋敷(築地藩邸)※天狗党を匿った頃
  ※現在地・京橋図書館

⑦高知城下中嶋町の自宅に帰郷。
  ※帰郷の途中、京都で薩土討幕の密約を結ぶ
  ※土佐で藩兵を率いて軍事演習

⑧戊辰戦争従軍

 東京家族引外輪住居勝手次第被仰付(明治2年10月6日~)

明治4年廃藩置県以降

①高知市中嶋町44番屋敷(明治4年~)※板垣自身は東京府木挽町(銀座邸・築地邸とも称す)に寄留。
  ※現在地・高知県高知市本町2-3-10(高野寺)

②東京府(第1大区10小区)木挽町1丁目24番地(明治4年頃~征韓論争の頃)
  これは東京寓居で本邸は高知のまま)
  ※現在地・東京都中央区銀座1-24(銀座タワー、万安楼)
  明治5年9月16日、三女猿が誕生。

③高知市中島町69番屋敷(※44番屋敷と同じ場所だが区画整理による屋敷番。下野して立志社を作った頃)
  明治7年9月21日、側室・清女が東京木挽町邸で死去。(東京・高源院に埋葬)

④明治8年、参議に復帰し自身は東京へ。

  明治9年6月13日、井上覚之進三男栄三郎が板垣退助の養子となった後、分家し板垣栄三郎と名乗る。
  明治9年6月15日、長女兵が板垣栄三郎と婚姻。

⑤高知県土佐郡(第九大区一小区)潮江村新田1番地(明治10年10月31日、参議を辞めて高知に戻った頃)
  ※以後しばらく板垣自身は高知本邸に住す。

  明治12年12月2日、長女兵が板垣栄三郎と離別復籍
  明治13年8月1日、長女兵が谷重中と婚姻
  明治14年3月5日、長女兵が谷重中と離別復籍
  明治15年4月6日、岐阜遭難事件(板垣暗殺未遂事件)起きる。
  明治15年     板垣洋行。パリでルイ・ヴィトンの鞄購入。髭を伸ばし始める。
  明治16年1月29日、次女軍が宮地茂春と婚姻
  明治16年7月31日、長女兵が片岡光房(熊之助)と婚姻

⑥東京府芝区芝金杉町(明治17年4月~  )※絹と同居開始

  明治17年5月頃、「明治17年板垣暗殺未遂事件」起きる。
  明治18年1月12日、高知県土佐郡(潮江村)第九大区一小区潮江村新田1番地へ戻る。

  ※明治18年1月12日より絹を同伴して高知へ帰郷。当時の戸籍には「妾」欄があるため、
  同日側室・絹を「妾」として入籍
  ※長崎県西彼杵郡下長崎村小島郷(長崎恵美須町13番屋敷)荒木伊三次の長女・絹。
   板垣は二階寝室、一階は鉾太郎寝室で就寝。
   明治18年6月28日、寄留地(高知・唐人町の別宅)にて正室・鈴子病死(板垣山に埋葬)
   明治18年10月、絹が孫三郎を生む
   明治19年7月2日、孫三郎が病死(板垣山に埋葬)
   明治20年1月11日、側室・政野と離別

⑦東京府麻布区麻布今井町35番地(明治20年5月頃)
  ※現在地・東京都港区六本木4-2-20(パークサイド六本木)附近
  板垣授爵の沙汰を拝辞し、授爵論争が起きる。

⑧明治20年8月20日、東京府芝区高輪南町18番地華族後藤象二郎方へ同居寄留
  (別籍(※法務局の副本)では明治20年12月14日より寄留と記され役所の正本と差異がある)
  ※高輪3丁目(品川プリンスホテル、グランドプリンスホテル高輪、京急EXイン品川駅前)

⑨東京市麻布区麻布材木町63番地(明治25年3月20日~明治29年10月10日)
  ※東京都港区六本木6-4-1附近(長府藩毛利家上屋敷跡、ハリウッド美容専門学校、六本木ヒルズノースタワーの向い附近)

⑩東京市芝区愛宕町2丁目1番地(明治29年10月10日~明治44年10月13日)
  ※現在地・東京都港区西新橋3-1-10附近

⑪東京市芝区芝公園第7号地8番(明治44年10月13日~薨去)
  ※現在地・東京都港区芝大門1-10-11附近(芝大門センタービル)

※現在地特定協力・伊藤璃佳
参考文献『地図と愉しむ東京歴史散歩』竹内正浩著、中公新書、2015

失われつつある清貧の心

失われつつある清貧の心      曾孫・尾崎正
甲斐・武田信玄の重臣筆頭・板垣信方(別に駿河守と称す)より数えて十一代目にあたる乾正成(土佐藩・馬廻役、三百石)の嫡男が板垣退助である。退助はもと乾姓を名乗り戊辰戦争の時に旧名に復した。この時、土佐迅衝隊を率いて勲功があり一躍名を挙げる。その東征の途上、日光東照宮を尊重して、因州鳥取藩兵が焼討ちも持さずとの強攻論を抑止。兵火による焼失から守った。その功績を讃え、日光神橋脇に銅像が建立された。その姿は国会議事堂、高知城、岐阜公園に建つ憲政期のものと異なり、若き戊辰戦争当時の雄姿となっている。 明治維新後は、土佐立志社を中心とする「自由民権運動」のリーダーとして本邦初の政党「自由党」を結成し、総理に就任した。明治十五年、全国遊説の途次、岐阜で刺客の兇刃がため暗殺されんとした際「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだ言葉が有名。このとき駆けつけ手当をした医師は、後に東京市長となる若き日の後藤新平であった。 大東亜戦争終戦の後、暫時廃止された華族制度は、伊藤博文が英国の貴族制度を見習って我が国に導入せられたものであるが、退助は、その世襲が特権階級の再構築となるならば、維新の理念に反するものとして、綬爵を二度までも辞退した。しかして勅許あらせ賜わず、三顧の礼を諭す人があって伯爵の位を綬爵するに至ったが、もとより一君万民・四民平等の理念を主張して止まず『一代華族論』を著し、世に問うたのである。大正八年七月十六日薨去。享年八十有三歳。遺言によってわが父守正は爵位を返上しその遺志を貫いた。 近代化による新たな価値観と引き替えに、古き良き武士道精神は急激に廃れ、栄華を享受し新たな特権階級となることを憚らなかった維新の元勲たちがいた中で、清貧に甘んじ、自らの信念を貫き生きた清廉潔白の人であった。 先の大戦による敗戦の結果、我々は国土の荒廃を復興すべく、経済成長を最優先課題として努力をした結果、日本は稀にみる大躍進を遂げたが、一方、失ったものも多く、「清貧」という無私の心は我々が全く省みなくなってしまったものではないだろうか。物・金 中心の価値観が横行するようになって久しい。その挙句、日本社会の美風である、倫理・礼節・人情などの精神が失われつつある現今の社会風潮は、何とも嘆かわしく、見るに忍びないものがある。板垣退助のように、今日、社会各層の要職に在る者たちには、所謂「ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)」を果たすべく、無私に徹した身の処し方を心掛けて欲しいものである。 今にして品性・人格を尊重する価値観を取り戻し、人倫・社会・国家それぞれ襟を正さなければ、此の国の将来に明るい展望は得られないと思う。同時に晩年に至った我々には後に続く若い人たち居ることを忘れてはならない。かく次世代の人たちの未来を案ずるとき、私たちは日本人と日本社会に、良心と聡明さを伴った自浄能力があることを確信し、必ずや我が国が国際社会で、より高い信頼と尊敬を得られ日が訪れることを期待し切望して已まない次第である。
(尾崎正『東京府立一中(旧制中学校五年制・現 都立日比谷高校)昭和十四年入学同期会・傘壽記念号』掲載前原稿より抄録) ※尾崎正は、今幡西衛の媒酌によって板垣家より尾崎家へ養子

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