板垣退助百回忌の準備と墓前の誓い。(平成30年2月16日)

昨日は東京における有力者の方に板垣退助百回忌に関するご協力をお願いし、また日本の憲政の中心である国会を傍聴、国会議事堂を見学させて頂き、国会議事堂に建つ板垣退助像と対面することが出来た。


本日は板垣の墓前に、百回忌の斎行にあたって東奔西走していることを報告をするため品川へ。本来なら真っ先に足を運ぶべき場所であるが、諸般の事情から翌日となってしまった。御許しを乞う。


百年前に建てられた墓石は、所々角が欠けている。この大きな墓は竹馬の友・後藤象二郎と全く同じ形に作られている。
板垣と後藤は幼少の頃からの親友。青年時代、後藤は親族でもある吉田東洋の塾に通った。板垣は東洋が自ら誘


いにきたにも関わらず東洋の塾には通わなかった。のちに板垣は、吉田東洋の推挙で免奉行になったので「新おこぜ組」の一人と称せられる。「新おこぜ組」は吉田東洋の少林塾出身者で占められていたので、板垣のことも吉田東洋門下と勘違いしている人が多いが、板垣は例外で少林塾出身者ではなく、吉田東洋門下生でも無い。そのことを説明するとよく驚かれる。世の中の人の知識はそんなものである。

百回忌を期に、世の中に広まっている誤解を一つ一つ解いていきたいと思う。「武市瑞山を殺したのは板垣じゃないか説」などもそうである。そうでなければ故人が浮かばれない。

「板垣死すとも自由は死せず」とは実は言っておらず内藤魯一の言葉を新聞記者が間違えたのだ等の類を平気で語る人がいる。こういう人が出現する限り、我々は存在せざるを得ない。欠席裁判のような状況で一方的に故人の名誉を毀損して楽しむ人。我々が証拠をたたきつけて、故人を弁護せねば、誰が反論してくれるというのだろう。百回忌を前に故人の霊の安らかならんことを祈るのみである。


品川の墓前にある「板垣死すとも自由は死せず」の碑は、正式名称は【板垣退助先生顕彰碑】と云う。建てたのは我々の大先輩、50年前の板垣退助先生顕彰会の面々である。


当時、「板垣死すとも自由は死せず」とは実は言っていないと云う説を信じ、岡本都與吉の探偵調書以下、詳しい資料ならびにその文言を聞いた多数の証人がいるにも関わらず、虚偽をまき散らす人がいた。このままでは、こんな明白な事実も、やがて無かったことにされ、板垣の功績も名前も忘れ去られてしまうのではないかという危惧である。それゆえ、我々の先輩は【石に刻んで残そう、板垣先生の精神を絶対に滅びさせてはならない】という決意のもと、この石碑を建立したのである。


それから50年経って、事態は好転しただろうか。歴史小説は、小説ならフィクションは何でも許されると言わんばかりに、板垣を悪辣非道に描いてきた。また、左翼主義者の一部には、板垣の功績からつまみ食いするかのように、自説に都合の良い部分だけを抜き出して利用し、史実と全く異なる板垣像を創作し、板垣をその隠れ蓑のように使っている例も、かなりの数、見受けられる。このような偽装利用を許してよい訳がない。様々な思いを胸に品川神社さまに50年前の御礼と、本年百回忌を迎えるため、しばし裏側が騒がしくなるかもしれない旨をお話しし、予め御了解を願った。宮司のお母さまは、50年前のことをよく憶えておられ、時を忘れるほどであった。

明日は、いよいよ東京菩提寺の高源院へ百回忌の法要をお願いに行くことになるのだが、その前に青松寺と清岸院にお参りすることに。板垣家(乾家)の東京での菩提寺は元々この青松寺で、江戸時代、この青松寺は、土佐藩士、長州藩士、津和野藩士らの菩提寺であった。板垣退助や孫の守正さんもこの寺で本葬を行っている。板垣退助の戒名を授けたのもこの寺の北野玄峯住職である。板垣退助はこの寺で葬儀を終えたあと、遺体は高源院の墓地に運ばれて荼毘に伏された。青松寺に葬られなかったのは、青松寺は都心部の寺のため、充分な墓域が確保できなかった為である。高源院は明治26年に一旦、無住職の寺となり、充分な墓域があった。

しかし、高源院の墓地に埋葬された以上は、以後の法要は高源院で行うべきこととなった為に、板垣退助に関しての法要はこの寺が受け持つこととなったのである。

さて、もうひとつは青松寺に隣接する「清岸院」である。これは、板垣正貫さん以下、現在の板垣家の墓がある。NHK放送博物館や出版社の光文社のすぐ横である。ここにもお参りし百回忌の準備を行っている旨、墓前に報告した。


その後、靖國神社に参拝。板垣の軍に属して散華せられた英霊が御祭神として奉られている。明治・大正の板垣があるのも、彼等御祭神の御蔭である。みたまの安らかならんことを御祈りしました。

靖國神社でお参りの後、タイミング良く、大平洋セメント販売株式会社の浅野一(はじめ)さまから入電があった。浅野家は、板垣退助の四女・千代子さんが嫁いだ家で、浅野一(はじめ)さまは板垣退助の曾孫にあたる。ちょうど東京に居る旨を伝えると、急ではあるが品川プリンスの品川グースでお会いすることに。品川プリンスは旧薩摩藩邸で、その後、後藤象二郎の邸宅となったが、その後藤邸に板垣も同居していたという縁の場所である。

浅野さまは50年前のことを良く憶えておられた。当時19歳であったという。私の母は学生時代とのことで、私の母や祖父ともその時に面識があるとのことであった。当時の写真を御見せしながら、お話しを伺った。7月16日の高知での百回忌法要ならびに、9月29日に行う予定の東京品川の百回忌墓前祭にもお越し頂ける旨、ご了解を賜り、本日は有意義な一日となった。


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投稿日:2018/02/16

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