第13回 勉強会「板垣退助と頭山満」

平成30年(2018)は、明治維新150年・板垣退助百回忌。明治維新の精神を顕彰する勉強会を予定しております。 3月は、板垣退助の門人で自由民権の大家・頭山満先生と板垣のつながりに関する、勉強会を予定しております。


【勉強会】
●とき:平成30年3月23日(金)
   18:30~(開場)
●ところ:大阪府大阪市城東区蒲生4-7-17
       蒲生 寺子屋・久楽庵


●主催:一般社団法人 板垣退助先生顕彰会
板垣退助と頭山満 ご案内フライヤー.PDF

(裏面)板垣百回忌ご案内フライヤー.PDF


久楽庵で頭山満翁勉強会

明治維新の精神が、王政復古の大号令のもと神武肇国の基礎に立ち返って国家の枠組みを考え直し、近代国家へ転換していくことであったとするならば、私たちが板垣ゆかりの「愛国社」設立の地・大阪で勉強会を行うことはとても意義のあることではないでしょうか。

 

板垣退助と頭山満 勉強会の要点

板垣翁も頭山翁もエピソードが莫大であり語ると両手の指でも足らない位ありますので今回の勉強会は、前回の勉強会、西郷と板垣の明治六年の政変から、第一回選挙・国会開催までの板垣・頭山の足跡を辿りながらのお話しとなりました。


講師今村先生(当日・本会撮影)

始まりは、明治11年。内務卿大久保利通暗殺を聞いた頭山がまず脳裏に浮かんだ明治政府要員は、板垣退助の動向である。即座に土佐行きを決断し道中から板垣に電報を打ち土佐に向かった。そして頭山は、「板垣に挙兵の意があるかどうか?」を尋ねるも板垣は挙兵を否定し「もはや武断で政治を変える時代は終り、これからは言論を以て議会で政治を行う時代となる」と頭山に「民権自由論」を諭す。それを聞いた頭山はこれを機に自由民権運動に取り組


板垣退助・頭山満翁勉強会(本会撮影)

むことになる。頭山満が板垣退助を訪ねたのは、明治六年の政変で西郷と共に下野した板垣に対し、その思想理念を同じくする人として真意を探るが目的であった。板垣の言葉に感銘を受けた頭山は、この日より半年の間、土佐に駐留し自由民権論を学ぶ。そして板垣と共に自由民権運動に邁進する中で、明治15年、朝鮮で「壬午の軍乱」が勃発し日朝の状況に暗雲が立つ。頭山は西郷が掲げた「大アジア主義」を踏襲すべく拠点をアジアに移し、板垣は明治


板垣との関連を含めて詳しく説明

政府に対して国会開設を働きかける為、全国を遊説し岐阜で刺客に襲われることとなる。頭山は、明治17年、甲申の政変のクーデター失敗で日本に逃れてきた金玉均らを全面的に支援して亡命生活を支えた。ここで、一つ間違ってはいけないのは、興亜の精神を掲げていた頭山と、「興亜会」とは全く別で、元々の「大アジア主義=興亜精神」は、板垣退助・西郷隆盛の精神が基本となっていてその精神を頭山が踏襲することになる。板垣の「征韓論」に対

し比較される福沢諭吉の「脱亜論」は、そもそも福澤も東亜会を完全支援して生前の金玉均とも仲が良く、荒尾精設立の日清貿易研究所にも自身の腹心である猪飼麻次郎を派遣し応援しているた。日本は日清戦争で莫大な費用と多数の人命を費やし韓国を独立させた。また日露戦争では日本は甲午の20倍の損害を出しながらも、韓国がロシアの口に飲み込まれる肉になるのを助け、東洋全体の平和を維持に尽力した。李容九は、数度にわたる朝鮮の政治改革の失敗から、両班による下層階級への搾取虐待を朝鮮人自身の力で克服することを不可能と考えており、日本との合邦によって初めてこれが実現できると信じた。大韓帝国に於いて、1904年内田良平の黒龍会のバ後援で親日団体の政治結社「一進会」を李容九らが結成し、アジア主義と大東合邦論を掲げてロシア南下阻止を掲げ対抗し富国強兵を訴えた。そして1906年初めて「合邦」を唱えた。1909年、合邦に反対していた伊藤博文が哈爾浜で暗殺されると容九は、一進会の連名で韓国皇帝純宗、韓国総督曾禰荒助、首相李完用に対し声明文を提出している。頭山満は、にんじん畑塾からの盟友・箱田六輔と民権派同士の対立問題での意見対立から箱田六輔が自殺してしまった事に傷心。政治活動の表舞台から姿を消しアジアの振興に打ち込むようになる。徳川幕府を討幕して成し得た「明治維新」であるが、主軸となった「薩長」がやがて対立する事で成し得た明治維新の政府が、再び対立と分裂を繰り返し、分裂が暗殺へと急進してしまう。「自由民権」と言う崇高な思想理念に多くの支持者が集まったが、各自の思想が錯綜しそれが対立に発展し分裂をする。現代の政治を比較しても同じことを繰り返していているように思えて仕方がない。しかし明治維新を成し得た「勤王精神」が日本の主軸として揺るがないのならばどれだけ意見対立しても落ち着くところに落ちつけるはずである。板垣・頭山の主張した「尊皇」という日本の精神がややもすれば否定されてしまう現代では、日本が進む先は悲観的であると思われて仕方がない。板垣退助が山内容堂という日本の藩主の中でもまれに見る佐幕派の重鎮に仕えながらも薩長土肥として明治維新に参画出来たのは、板垣らが「勤王」を貫きその精神を基に日夜努力を惜しまなかったからであると言っても過言ではない。


前へ次へ

投稿日:2018/03/23

お問い合わせはこちら