台湾をフランスへ売却しようとした乃木希典と、それを激怒して乃木を更迭した伊藤博文。
戊辰戦争の末期、戦費を贖う為に会津藩と庄内藩は、北海道をプロイセンに売却する事を提案。ビスマルクは欧州の国際情勢から日本の戊辰戦争へ関与する事を避け、一旦はこの申し出を却下したが3週間後、思い直して承諾書を日本へ送った。
横浜にいた駐日プロイセン公使マックス・フォン・ブラントが書いた外交書簡によれば、当時東北に居たプロイセン人の仲介人シュネルに対し、軍費を会津藩・庄内藩に与える担保として蝦夷地の99年間租借権を、会津藩主・庄内藩主から全権委任を受け「100平方ドイツマイル(5.625平方km)」あたり30万メキシコドルで充分であろうと具体的な金額も提示している。
時は会津戦争の真っ最中。長期持久戦を提案する大村益次郎に対し「フランスのナポレオン軍は強豪なれど、屡々雪山に負けると聞く。我ら南国の兵(土佐、薩摩)も豈に之を教訓とせん」と板垣退
もし、会津藩・庄内藩の謀略が功を奏しておれば、北海道は昭和42年頃までドイツ領になっていた危険性がある。この経緯は板垣百回忌記念書籍『板垣精神』で取り上げたが、また土佐藩の会の会報に現代語訳を交えて詳細を書いた処である。
当時、総督であった乃木希典が「ロシアによる米国へのアラスカ売却」を例に台湾についても売却しようと考えていた。実際に明治30年(1897)の帝国議会で台湾をフランスに1億元で売却すべきという『台湾売却論』が登場している(戴國煇 『臺灣總體相』 )。
しかし当時総理大臣であった伊藤博文は乃木希典を更迭(手続上は「能力不足による」辞職扱い)し【台湾は軍事的にかなりの価値がある日本南部の防衛線であり、今後もよく経営すれば欧米列強に日本も植民統治能力があることを誇示する機会だ】と主張し、台湾に国家予算を投じて開発にあたった。
乃木大将の台湾経営は失敗に終ったが、人間得て不得てはある。乃木大将は軍人として7年後の日露戦争で華々しい武功を立て皇国の地位を向上させた。徳川幕府が結んだ不平等条約が改正出来たのは、これらの功によるものが多い。
日本による台湾経営が軌道に乗るのは、事実上は後藤新平の頃からではないか。
『福建省不割譲』とは、中国が福建省を欧米列強に割譲する事の無いよう促すものであり、伊藤はこの事を聞いた時【良くぞその事を教示して下さいました】と膝を叩いて喜び、板垣に礼を言い、後日、実際にこの条約が締結されたのである。
しかし「そんな事があったんですか?」と自国の歴史も知らない日本人が多くなった。
偶々、韓国の新聞で関連する記事があったので所懐を附してリンクする次第。
http://korea-economics.jp/posts/21120605/