令和4年は板垣退助の岐阜遭難【140周年】にあたる年です。
という事で『板垣死すとも自由は死せず』の言葉が天下に広まった岐阜の『岐阜新聞』は、『自由と刃』と題して板垣特集を毎月第1日曜版に連載されることになりました。
その第1回は、第1面にも告知記事があり、紙面第2面にほぼ全面を使っての大記事です。
記事は少年時代の逸話に始まります。伏見の合戦で『薩土討幕の密約』により参戦した土佐藩は、その後、乾退助の失脚を解いて軍の大隊司令に復職させます。
鳥羽伏見の合戦の時に乾退助自身が参戦できなかったのは、大政奉還に大反対をし、あくまで討幕を主張したからです。合戦の前夜、西郷隆盛は土佐藩の軍監・谷干城を陣営へ招き『薩土討幕の密約』の履行を促しました。当時、退助は失脚していましたが西郷は「乾退助がいないと戦さが出来ない、直ちに復職させて隊を率いて参戦させなさい」と。無理難題を谷に相談します。土佐藩京邸の山内容堂、重臣・後藤象二郎らも乾退助の入京に反対し、土佐藩兵を国許から上京させる事は了承を得たものの、「片岡健吉を大隊司令として入京させよ。乾退助は絶対に入京させるな」と言うものでした。ともかく土佐藩兵を呼びに国許へ帰る口実を得た谷干城は、従臣・森脇唯一郎を伴って早馬で駆けに駆けて土佐へ向かいます。その途中で鳥羽伏見の合戦が始まります。
土佐に着いた谷干城は、一計を案じ、京の次第を伝え、更に山内豊範公の御意を得て乾退助を復職させ、土佐藩の大隊司令に戻す許可を得ました。容堂公はあくまで老侯(御隠居様)であり、土佐藩の藩主は豊範公であると。
あと一日遅れていたら、幕府軍に甲府城を取られていたと言われ、文字通りその後の戊辰戦争の勝敗を決する一戦となりました。その後、甲州勝沼の戦いで新撰組を打倒し、日光東照宮を戦禍かから救ったこと、会津合戦への進軍路などが分かり易くまとめられており、非常に良い記事となっていおります。(※詳細は新聞をご講読下さい)
その中元崇智教授も取材に応えられており、また我々が板垣百回忌を期して編纂・出版した記念書籍『板垣精神』も参考文献として頂いております。
次回は来月の第1日曜版紙面に載ります。