板垣遭難140年特集『岐阜新聞』(令和4年1月9日号)

令和4年は板垣退助の岐阜遭難【140周年】にあたる年です。

という事で『板垣死すとも自由は死せず』の言葉が天下に広まった岐阜の『岐阜新聞』は、『自由と刃』と題して板垣特集を毎月第1日曜版に連載されることになりました。


その第1回は、第1面にも告知記事があり、紙面第2面にほぼ全面を使っての大記事です。

記事は少年時代の逸話に始まります。伏見の合戦で『薩土討幕の密約』により参戦した土佐藩は、その後、乾退助の失脚を解いて軍の大隊司令に復職させます。

鳥羽伏見の合戦の時に乾退助自身が参戦できなかったのは、大政奉還に大反対をし、あくまで討幕を主張したからです。合戦の前夜、西郷隆盛は土佐藩の軍監・谷干城を陣営へ招き『薩土討幕の密約』の履行を促しました。当時、退助は失脚していましたが西郷は「乾退助がいないと戦さが出来ない、直ちに復職させて隊を率いて参戦させなさい」と。無理難題を谷に相談します。土佐藩京邸の山内容堂、重臣・後藤象二郎らも乾退助の入京に反対し、土佐藩兵を国許から上京させる事は了承を得たものの、「片岡健吉を大隊司令として入京させよ。乾退助は絶対に入京させるな」と言うものでした。ともかく土佐藩兵を呼びに国許へ帰る口実を得た谷干城は、従臣・森脇唯一郎を伴って早馬で駆けに駆けて土佐へ向かいます。その途中で鳥羽伏見の合戦が始まります。

土佐に着いた谷干城は、一計を案じ、京の次第を伝え、更に山内豊範公の御意を得て乾退助を復職させ、土佐藩の大隊司令に戻す許可を得ました。容堂公はあくまで老侯(御隠居様)であり、土佐藩の藩主は豊範公であると。


この辺りの事情が分からないと、唐突に乾退助が登場したような印象になりますし、ましてや船中八策史観の人々は、歴史の本筋から離れているので『薩土討幕の密約』をあくまで西郷と板垣の私契約と価値を矮小化して捉えてしまいます。しかし、知野文哉氏らの研究によって『船中八策』なるものは、史実では無く大正期に創作されたフィクションである事が判明しています。史実が曲げられ、正しく評価されるべき人が評価されていないのは如何なものでしょうか。(『「坂本龍馬」の誕生 船中八策と坂崎紫瀾』知野文哉著)


さて、敵(近藤勇)が大名行列のように飲めや騒げの宴会をしながら甲府城に向かったのに対し、美濃大垣での板垣に復姓し甲府城の鎮撫へ向った退助らは、ひたすら駆け足で甲府へ向いました。その結果、土佐兵が甲府入城を果たしたことで、距離と兵力の数の圧倒的不利を解消することが出来ました。

あと一日遅れていたら、幕府軍に甲府城を取られていたと言われ、文字通りその後の戊辰戦争の勝敗を決する一戦となりました。その後、甲州勝沼の戦いで新撰組を打倒し、日光東照宮を戦禍かから救ったこと、会津合戦への進軍路などが分かり易くまとめられており、非常に良い記事となっていおります。(※詳細は新聞をご講読下さい)


従来、板垣は実は「板垣死すとも自由は死せず」とは言っていない、側近の内藤魯一(元・福島藩家老)が言った言葉を新聞記者が潤色したものだという俗説が敷衍していたが、中元崇智(中京大学教授)らの研究により、言っていないどころか、この岐阜遭難事件より数年前から、板垣は演説会で度々この言葉を発言しており、事件現場にいた利益相反する相手側からもこの言葉を聞いたという証言がある為、現在では確実視されています。(『板垣退助-自由民権指導者の実像』中元崇智著)

その中元崇智教授も取材に応えられており、また我々が板垣百回忌を期して編纂・出版した記念書籍『板垣精神』も参考文献として頂いております。

次回は来月の第1日曜版紙面に載ります。


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投稿日:2022/01/09

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