板垣特集『血染めのシャツ』(令和4年4月6日号)

令和4年は板垣退助の岐阜遭難【140周年】にあたる年です。

『岐阜新聞』は『自由と刃』と題して板垣特集を毎月第1日曜版に連載されています。そして、本日、令和4年4月6日に140周年を迎えました。


本日は『板垣死すとも自由は死せず』の言葉が発せられた日。『岐阜新聞』では、事件の証拠品である「血染めのシャツ」をお持ちの村雨さんへの取材記事が掲載されました。(詳細は記事をご講読下さい)

我々は板垣退助百回忌にあたり、板垣退助のDNAの解析を試みました。当初考えたのは、この「血染めのシャツ」か「凶器の短刀」からDNAを採取するか、板垣退助の遺骨を掘り出して…。いや、どれも現在あるものの一部を傷つけてしまう虞があり、会議の段階で却下されました。(当然ですよね)
そこで、最終的に決議されたのが「板垣退助の子孫からDNAを採取する」という方法でした。


板垣退助の子孫は板垣退助自身ではないですが、できるだけ多くの子孫に協力を頂くことで、その共通部分を特定することが可能です。また、各子孫とのDNA鑑定も出来るので一石二鳥となり、検体はテキサス州のヒューストンに送られ解析ました。今から百年後、二百年後、板垣退助の子孫たちが世代を経て交流が疎遠となってもこの解析は彼らを結び付ける絆をつくることになるのではないでしょうか。(解析の結果は記念書籍『板垣精神』に収められています)


短刀が自由民権記念館に寄託された経緯

高知県の自由民権記念館には、この時、事件に使われた凶器の短刀が、板垣守正(板垣退助令孫)の前妻・外子さんの実家である旭家から寄託され保管されています。

旭家がこの短刀を保管していた経緯は、板垣守正氏が満洲へ赴任するにあたり、貴重な遺品を外地へは持っていけないとのことで、妻の実家に託していた為です。(経緯を省きますが)満洲で守正氏は次の妻・桃子さんと婚姻。その後、大東亜戦争の終結に乗じてソ連軍が満洲に侵攻。今のウクライナを見るような、大混乱の中、一家は内地へ引き揚げます。ところが、守正氏は鶴巻の温泉で間もなく亡くなりました。命日は奇しくも祖父の退助と同じ7月16日。この時、守正さんの子・正明さんは一歳ぐらいだったと記憶しています。

鶴巻で仮通夜を行い、遺体を火葬し本葬は菩提寺である東京の青松寺で行うことになりました。

そのような理由から、凶器の短刀は前妻の実家・旭家に残されたままになりましたが、旭家は青森に移られた守正遺族の家へも、山口へ移られた守正の弟で板垣家の家督を継いだ板垣正貫(正貫さんも鉾太郎さんと同じ年に亡くなられ)遺族の家へも連絡手段が無かったため、貴重品の隠滅を防ぐため、後に高知県の自由民権記念館へ寄託されるに至りました。


岐阜遭難記念日を祝賀した理由

さて、板垣の生前は、板垣の誕生日に近い、この「4月6日」を、「岐阜遭難記念の日」として、自由民権活動家らが集まって、祝賀しました。

刺されたのに祝賀?

と思われる方もおられるかもしれませんが、当時、ともすれば「反政府的な活動ではないか」と見る人もいた時下にあって、明治天皇は「板垣は国家の元勲である。捨て置くにあらず!」と発せられ、勅使を差し向けられ、見舞金三百円を、御下賜あらせられました。

明治維新の功労者として「元勲」という言葉が定着するのは、もっと後の時代ですが、明治天皇が板垣に対して「元勲」という言葉を使用されたのが最も古いと言われています。

これによって「自由民権運動は、国家のことを思って活動している愛国者たちの運動である」ということが天下に周知されるに至りました。板垣は明治天皇が天神地祇と皇祖皇宗に誓われた、五箇条の御誓文の第一條「広く会議を興し万機公論に決すべし(多くの人々の中から代表者を決め、会議をして総て国家に関する事を決めていこう)」という趣旨を体現した国家を創るらねばならないと考え、行動していたのでした。

つまり、この岐阜遭難事件によって、板垣は戊辰戦争の時に御下賜あらせられた「錦の御旗」と同等のお墨付きを得たのでした。板垣にとって、人生第二の「錦の御旗」であったと言って過言ではないでしょう。

そのため、板垣の誕生日に近いこの日に皆が集まって祝賀をしたのです。


板垣退助の誕生日はいつか?

ところで、現在の人名辞典等では、板垣退助の誕生日に関して「4月17日」と記すものが多く「4月16日」と書いてあるのは稀(明治時代のものには「4月16日」と書かれているものがある)。

これに関して、板垣退助の戸籍謄本(除籍謄本)では「4月16日」なので、こちらが正しいはずなのですが、状況は少々複雑です。一番古い明治5年に編成された、本籍地「高知市中島町」(所謂「壬申戸籍」)では「4月16日」です。ところが、「潮江新田」へ転籍して作られた戸籍では「4月17日」となり、以後ずっと「4月17日」となります。ゆえに「4月16日」が間違いで「4月17日」に訂正されたのだろうと(一部の高知の研究者らは)解釈してきました。ところが、東京へ転籍して編成された、東京の「愛宕町」の戸籍では再び「4月16日」に戻っています。そして、薨去の大正8年に至るまで、ずっと板垣は戸籍上の誕生日は「4月16日」なのです。

ゆえに、「4月16日」が正しいのに「潮江新田」へ転籍した時に「4月17日」に間違えられたので「4月16日」に戻したのではないかと、現在では考えられているのです。

本人なら間違う筈はありませんが、板垣は多忙で「転籍届け」などは、どうやら本人が出向いて行った訳では無さそうですね。秘書か家人が行ったのでしょうか。

また、板垣本人のみならず、家族の生年月日も、各戸籍謄本には微妙に書き違いと思われる箇所があります。

なお、地元高知では新暦に変換した5月に、生誕地の天神橋通商店街で板垣の生誕祭を毎年挙行しております。

当日は板垣の百円札がお釣りとして貰えるイベントを行っていたりもするので、また足をお運び頂ければ幸甚です。


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投稿日:2022/04/06

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