高知縣護國神社の創建150年例大祭に参列のため、帰高。大祭の前日、女性自由民権家の嚆矢である楠瀬喜多のお墓へお参りしました。
女性自由民権家の嚆矢である楠瀬喜多の家は、右翼の源流とも言われる頭山満が来髙して板垣退助に会いに来た時に宿泊した場所。 当時、頭山は血気盛んな若者で、政府の横暴に怒り心頭、板垣に武力での政府打倒を訴えるが、板垣は【今やその時に非ず】と諫めた。
天皇を蔑ろにして300年の政権を築いた幕府と違い、大政奉還によって政権を天皇へ戻し、更に反対する者たちを武力で討伐して政権が成り立った今、たとえ不満があったとしても、武力でこれを解決するのは間違いである。ひとたび、鎮圧の兵を差し向けられたら、此方にどれだけ義があっても【賊軍】となってしまう事は避けようが無いと。
生活費の足しにと幾許かの資金を送ったが「生きてる内には世話にはならぬ」と固辞された為『…では葬式と墓石代に宛てて下さい』となった。
福島三春藩の勤王志士であった河野廣中は、戊辰戦争の際、板垣退助率いる官軍に折衝に向かい、三春藩は勤王派である事を説いて容れられ、賊軍の汚名を被る事を避けられた。
河野廣中がそれが縁で、板垣退助の自由民権活動に協力し、東北での自由民権の拠点を築いた。 河野廣中も楠瀬喜多に世話になった縁で、墓碑の揮毫を行った。
そんな訳で、楠瀬喜多の墓石の碑陰には、【河野廣中書、頭山満建之】と刻まれている。 昭和12年4月6日、高知の板垣退助の生家に板垣会館が建てられた時、頭山満は板垣門下の第一人者として、来賓として臨席し、更にこの筆山の楠瀬喜多の墓に参った事が当時の新聞記事でも報じられている。 このエピソードは藤本尚則著の『頭山精神』や戦前に財團法人板垣會が出版した『憲政と土佐』でも語られているし、拙著『板垣精神』の中でも記載したが、多忙によって、その実物を見れずにいた。 筆山の山道、こちらも見つから無いと諦め掛けた時に発見。 「この道を頭山先生も歩いたのか」としみじみ感じながら、謹んでお参りした次第。