樋口季一郎中将の顕彰祭・記念講演(令和4年8月20日)

本日は樋口季一郎中将の顕彰祭・記念講演へ。

久野潤先生からお招きを賜り、大阪護國神社での祭礼に参列、樋口季一郎中将の令孫・樋口隆一さまの記念講演を謹んで拝聴しました。

樋口季一郎中将は、戦争末期、北海道を守り敵軍の手に落ちる事を阻止されました。そうでなければ、東北あたりまで、ロシア領となっていたかもしれません。また樋口中将は杉原千畝氏と同様に


ユダヤ人を救ったとイスラエルから讃えられゴールデン・ブックにその名が記載されています。当日、藤江正鎭宮司をはじめ、伊弉諾神宮・本名孝至宮司、近畿偕行会加賀本昭雄会長、大和心のつどひ・吉村伊平さま、先年紺綬褒章を叙勲されました岸岡コーポレーション代表の岸岡サトミさま、一般社団法人即応櫻の佐伯宗平さまともお会い出来ました。樋口隆一さまの記念講演は当日の『産経新聞』でも報道されました。



(以下『産経新聞』令和4年8月20日号記事より)「北海道守った」樋口中将の顕彰祭 大阪護国神社で 終戦後のソ連侵攻 撃滅作戦を指揮。

先の大戦が終結してもなお、北方を蹂躙(じゅうりん)するソ連軍への反撃、撃滅を命じ、スターリンによる北海道占領の野望を打ち砕いた大日本帝国陸軍の第5方面軍司令官、樋口季一郎中将(1888~1970年)を顕彰する祭典が20日、大阪護国神社(大阪市住之江区)で営まれ、関係者ら約45人が功績に思いをはせた。ロシアによるウクライナ侵攻を受け、ソ連から北海道を守った樋口中将を改めて評価する見方が強まっている。


終戦から3日後の昭和20年8月18日、千島列島最北端の占守(しゅむしゅ)島にソ連軍が大挙上陸、武装解除を進める日本側に攻撃を仕掛けた。札幌で方面軍の指揮を執る樋口中将は、守備部隊の第91師団長、堤不夾貴(ふさき)中将に「断乎(だんこ)反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」と命じた。日本側は、停戦協定によって最後は銃を置いたが、戦闘で終始優勢を保ったためにソ連軍の侵攻に狂いが生じ、最高指導者、スターリンによる北海道占領の野望を打ち砕いたとされる。関東軍のハルビン特務機関長として満州国にいた1938年には、ドイツから逃れてきた多数のユダヤ人を満州国内に受け入れたことでも知られる。


樋口中将は大阪陸軍幼年学校出身で大阪にゆかりがある。祭典には、孫で明治学院大名誉教授の隆一氏(76)らが参列。祭典の主催者として祭文(さいもん)を奏上(そうじょう)した日本経済大の久野潤准教授は「敗戦下で北海道が敵の手に委ねられず、日本の領土であり続けたのは樋口将軍と将兵の断固たる意志のおかげだ」と述べた。隆一氏による講演もあり、樋口中将はポーランド駐在武官当時から「ワルツの名人」で知られており、欧州の社交界で情報将校として各国の要人に食い込んでいたエピソードなどを紹介。ソ連の対日参戦を予期していた先見性にも言及し「祖父は世界的視野と客観的な洞察力を持ち合わせていた陸軍のインテリジェンスだった」と語った。

樋口中将を巡っては、功績を後世に伝える銅像が今秋にも、出身地の淡路島にある伊弉諾(いざなぎ)神宮(兵庫県淡路市)に建立される。(矢田幸己)


【樋口季一郎中将銅像建立に協力】(事務局より)

さて板垣退助先生顕彰会は、板垣が創った【帝国陸軍】のゆかりと【人種差別撤廃】に尽力された功績、【北海道を領土割譲から守った】という共通点から、樋口季一郎中将銅像建立に協賛しております。板垣退助が【北海道を領土割譲から守った】ということは、戊辰戦争の戦勝と共に板垣の功績の一つとして数えられています。



明治維新150年・板垣百回忌 板垣精神顕彰の扇
(会津藩の蝦夷地売却を阻止した歴史的場面)

以前にも記載しましたが、御存知の無い方の為にご説明すると、戊辰戦争の末期、会津藩と庄内藩は戦費を贖う為に、北海道をプロイセンに売却する事を提案。ビスマルクは欧州の国際情勢から日本の戊辰戦争へ関与する事を避け、一旦はこの申し出を却下しましたが3週間後、思い直して承諾書を日本へ送りました。横浜の駐日プロイセン公使マックス・フォン・ブラントが書いた外交書簡によれば、当時東北にいたプロイセン人の仲介人


シュネルに対し、軍費を会津藩・庄内藩に与える担保として蝦夷地の99年間租借権を、会津藩主・庄内藩主から全権委任を受け「100平方ドイツマイル(5.625平方km)あたり30万メキシコドルで充分であろう」と具体的な金額も提示していることが明らかになっています。

時は戊辰戦争(会津城攻略戦)の真っ最中。長期持久戦を提案する大村益次郎に対し「フランスのナポレオン軍は強豪なれど、屡々雪山に負けると聞く。我ら南国の兵(土佐、薩摩)も豈に之を教訓とせん哉」と板垣退助は『奈破崙(ナポレオン)戦記』の一文を例にして短期決戦を挑みました。その功績によりプロイセンの返書が届く7日前に会津が陥落したので、間一髪、日本領土割譲の話は有耶無耶になり事なきを得ました(ベルリン連邦文書館蔵『駐日公使発 本国向け外交書簡』より)。


もし、会津藩・庄内藩の謀略が功を奏しておれば、北海道は昭和42年頃までドイツ領になっていた可能性がありました。しかし、このことを板垣はことさら糾弾せず、降伏した松平容保が城を明け渡す時も、「降伏したる上は、我ら等しく王民(同じ日本人)」として、輿に乗ったまま堂々と城外へ出ることを許し、藩主としての威厳を保たせました。また、領土割譲の大罪によって、日本民族に軋轢が生じるのを避け、未来に向かって日本人が(国民皆兵)一致団結して国を守れるよう、むしろ寛典論(温情ある沙汰)を唱えました。結果、藩主の切腹や改易は避けられ、斗南藩への転封となりました。また、石高が減ったことにより、斗南藩士が困窮していることを知ると、板垣は士族公債の発行を働きかけ、斗南藩士族の困窮を救いました。後年『会津戦争』を著した平石弁蔵はこの事に敬意を表し、板垣に序文を請うています。この経緯は弊会理事長が、板垣百回忌記念書籍『板垣精神』や、土佐藩の会の会報に現代語訳を交えて執筆しておりますので、詳細お知りになりたい方はそちらをご覧下さい。また、東京大学、北海道大学からも会津藩の北海道売却計画に関する研究論文が発表されております。


●樋口季一郎中将銅像建立に関しては、一般社団法人 樋口季一郎中将顕彰会の
樋口季一郎中将の銅像を建立しよう』まで。


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投稿日:2022/08/20

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