戊辰戦争西軍墓地、鶴ヶ城を訪ねて。(令和5年10月30日)

戊辰戦争西軍墓地、鶴ヶ城を訪ねて。

郡山市制100年を来年に控え、安積疏水を築いた功績を讃え郡山市に「大久保神社」が建立された縁などをもとに、市主催のシンポジウムが開かれ、その前日にあたる10月28日、福島県にはじめて足を踏み入れた私は「母成峠古戦場跡」と「東軍墓地」にお参りした。

「東軍墓地」にお参りしたのにこのまま素通りして帰る訳には行かず、向かった先が会津若松市にある「西軍墓地」である。板垣が率いた迅衝隊の戦歿兵士たちが眠る場所に、私は向った。

色づき初めた美しい木々に囲まれて「西軍墓地」はあった。



薩摩藩戦歿者慰霊碑


長州藩戦歿者慰霊碑



土佐藩戦歿遺族・福岡氏奉納の灯籠


大垣藩戦歿者慰霊碑



土佐藩戦歿者奥都城


肥前藩戦歿者奥都城


我々は京都霊山護國神社で月一度(第3日曜日)に開催されてきた、墓所の清掃奉仕に13年以上にわたって参加活動をしてきたが、まさにその奥都城の本当の埋葬墓がこの地にある。初めて見る奥都城だが、我々が長年目にしてきた芳名が並んでいた。はじめて見たのに懐かしいこの不思議な感覚。万感胸にせまるものがあった。管理してくださっている東明寺こども園にお願いし、扉を開けて頂いた。聞けば毎年10月23日に慰霊祭を営んで頂いているとのこと。涙なしにこの地に足を踏み入れることが出来なかった。謹んでお参りをし、護國の柱石となられた神霊に感謝と哀悼の洵を捧げた次第。


【献歌】会津若松市「西軍戦歿者墓地」に参りて詠みたる歌。

みちのくに 散る皇軍(みいくさ)の あと訪(たづ)ぬ
紅(くれなゐ)そむる 山をあふぎて

 令和五年十月三十日  髙岡功太郎

※和歌は引用フリーです。


※「東軍墓地」へお参りした時の歌はこちら。



会津若松の鶴ヶ城


天守から眺めてしみじみ思う


先祖が全力をもってこの広大な城を攻めたのか。板垣もこの同じ景色を見たのかと思うと、私は目頭が熱くなった。…そして、その落涙を止めることが出来なかった。敵方から言えば「全力で守った城」となるのであろう。板垣は母成峠を越え、馳突して一瀉千里に会津城下に攻め登り、この城を落すことで日本の未来を切り開いたのである。一般市民はこの攻防戦を傍観し「われ関せず」の態度であった。(その経験が彼を自由民権運動に駆り立てることになる)


【献歌】初めて会津若松市「鶴ヶ城」を訪ねて詠みたる歌。

鶴(つる)の名を 號(なづ)くる城(しろ)に 訪(たづ)ね來て
 われ落涙(らくるい)を 止(とゞ)む あたはず

 令和五年十月三十日  髙岡功太郎

※和歌は引用フリーです。


板垣は松平容保が降服して城を出る時、藩主としての威厳を保って「輿」に乗って堂々と城から退下することを許した。

罪人のように「素衣面縛」して城を出るよう要求されるのではないかと恐れた会津藩士らは、この寛大な措置に感激した。


…しかし、城内の展示は「会津の悲劇」だけが強調されていてこのような解説は総てカットされていた。平石弁蔵著の『会津戊辰戦争』の初版本のレプリカが、ガラスケースの中に入って展示されていたが、その序文を板垣が書いたことなども一切触れられていない。


会津藩は「恭順しようとしたが、一切拒否され攻められた」かのように解説が成されていたが、新政府は当初戦闘を避け、恭順を受け入れようとしていたにも関わらず、姉歯武之進らが暴走して世良修蔵を惨殺し、さらに「奥羽皆敵と書かれていた」とのデマを飛ばして問題を複雑化させたこと。勤皇を奉じ「不戦恭順」を唱えた神保修理亮を切腹に追い込み、新政府側との和平恭順のパイプを、自ら壊したことには触れられていない。

さらに軍費を賄うために代理人・シュネル(日本名・平松武兵衛)を通じて、プロイセンに蝦夷地売却(書面上は99年租借)した件も一切書かれていない(※証拠文書はベルリンのドイツ連邦博物館の外交文書に実物が現存している)。(※ビスマルクが承諾書を日本に送ったが、板垣が母成峠を越えて一瀉千里に会津城下に攻め登り、これを陥落して阻止したことにも当然触れられていない)

その一方で、『早期埋葬令』が出され学術的には否定されているにも関わらず「西軍が東軍戦歿者の埋葬をさせなかった」かのような言説や説明板が随所にあり、現地ではそのように信じている人が実際にいた。(※これらを公平中立な視点からの解説と言えるであろうか。甚だ疑問が残った)


フィクションを信じて事実から目を背け、幻しの遺恨を懐かせるようなことで、金銭を稼ぐ歴史小説家たちの罪深さを改めて問わずにはおれない。


「関ヶ原の合戦」は遠い歴史上のことに思えるけれど、戊辰戦争は、我々遺族にとっては歴史上のことではなく、いまだに身内の戦争のことである。他人にとっては面白ければフィクションでも構わないのかもしれないが、我々にとって、フィクションによって誹謗中傷されるのがどれほど辛いことなのか、彼等は理解しているのだろうか。遺族は戊辰戦争のことを今日まで片時も忘れたことは無い。そのことを感じて展示に努めて頂きたいと切に願う。


ここまでお読み頂いて、私と真逆の意見をお持ちの方もおられるだろう。私の意見に反感を持つ方もおられるであろう。…しかし、何故、私はそうと知りつつこれを書くか。それは、私は自分に嘘をつけない人間であるからである。己の意見を殺して自由に世渡りをする。かくの如き人物は、世間の受けが良いかもしれない。支援者も多く集まるだろう。しかし、私は自分の意見に忠実でありたいと願う。それが私の生き方であり、板垣退助の生き方でもあるからである。


護國の柱石となられた英霊に改めて感謝と哀悼の洵を捧げ、日本が一丸となって和を成す、より良い未来の構築を模索する次第である。(理事長談)


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投稿日:2023/10/30

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