高知城板垣退助像の供出壮行式(昭和18年9月2日)

【髙知公園板垣退助先生の銅像供出す】
昭和十六年十二月八日宣戰の大詔煥發、茲に一年九ヶ月、赫々たる戰果は世界戰史に比類を絶(た)つも、敵米英の反攻勢力倍加し來り、今や愈々總力決戰段階に突入し、國運を賭し政府は金屬の非常囘収を講じ、特に銅を主要とするに至る。本會は板垣退助先生全國五基銅像中の一にして、大正十二年末、除幕した高知公園の物につき財團法人板垣伯銅像保存會と謀り、國家の要請に對應し即時供出を決した。

先生の率先主張し實行せる『一代華族論』に拠るとき寧(むし)ろ先生の銅像供出の緩怠を感ずるものである。乃(すなは)ち同上の論旨を按(あん)ずるに、明治十七年制定の世襲華族制度は、維新回天の精神を裏切り、上(かみ)御一人、下萬民平等を『立國の大本』とする帝國内に、人爵(じんしやく)を重んじ天爵(てんしやく)を輕んずる特權階級は藩籬を設けたるものにして、眞(まさ)に上下(しやうか)一心擧國一致して外侮(ぐわいぶ)を防ぎ、正義公道を世界に布(し)く所以に非ずや。

米英政治家が自國民に對しては文化の發達、世界の潮流に應じ自由平等の政策を執りながら、其の得意盛満の勢に乗じ世界の貴族たらんことを以て自ら居り、後進立遅れの東洋異民族に對しては之(これ)を植民化し奴隷臣妾視(し)するの矛盾暴戻を敢てして憚らず、我が國民が世界の面前に於て此の醜辱(はづかしめ)を受けながら之(これ)を憤る所以を解せず、維新志士が身家を顧ず進んで國難に殉じたるが如き國際危局に當(あた)るの雄魂なく、卑屈無恥、姑息偸安(とうあん) の堕風を馴致したり。

而(しか)して上層者は相胥(み)て現状維持を事とせり。「華族制度の創始者たる伊藤博文は、他に政治上の功績の稱すべきものありとするも、此の點に於て確(あきらか)に維新改革の精神目的を裏切り、國家の將來に非常なる禍根を貽(のこ)せる所と斷ぜらるゝも、決して辯解の辭(ことば)なかるべき也」と喝破してあり。吾人苟(いやしく)も恥を知ると共に先生の殷憂(いんいう)禁ぜざる愛國の至情と髙邁の識見に顧(かへり)み、曠古の時艱に念到して然(し)かあらざるを得ないのである。

由來先生の壽像は、早く東京芝公園、岐阜公園に建設されしに拘(かゝ)はらず、先生の郷里(ふるさと)土佐に記念施設のこれなきは、心ある者の夙(つと)に遺憾とし企圖(きと)せし處であつたが、大正八年薨去せられ實現の機(とき)、正(まさ)に至れるの際、偶(たまた)ま來縣せる宮城縣知事・森正隆氏の如きは特に之(これ)を心外事とし、就中(なかんづく)、先生の潮江新田舊邸址の荒廢せるが如きは土佐人忘恩の所爲(せゐ)であるかとして縣民に警告した。

翌大正九年有志相議して板垣伯銅像記念碑建設同志會を組織し、山本忠秀氏等理事二十名を置き、縣教育會長・安藝喜代香氏を理事長に推し、事端を開いた。氏逝去の不幸に逢ふや、新(あらた)に會長に髙知縣知事阿部龜彦氏を、副會長に髙知市長松尾富功禄氏を推し、同十年募金許可さるゝや、更に監事に森下髙茂氏等五氏、専務理事に弘田永清、池田永馬二氏を推薦し資金を參萬貮千圓以上とし、庶務會計の補助機關を委囑(ゐしよく)し事務所を髙知市役所内に移し、會計の進捗を圖(はか)つたが、縣下、郡市町村翕然(きふぜん)として賛同醵出し兒童また加(くは)はるに至る。

即(すなは)ち此れは現在の成人層及び青壮年諸氏の記憶に新(あらた)なるところであらう。而(しか)して東京大日本相撲協會は、板垣先生の相撲道振興の恩賚に顧(かへり)み、深甚の賛意を表(あらは)し濱口雄幸、坂本素魯哉、大石大、國澤新兵衞、竹内明太郎、水野吉太郎六代議士一致署名の板垣伯記念角力後援會成り、同十二年正月寄附興業行はれ純益壹萬五千七百餘圓を寄贈され、縣内外相合せて豫定額參萬貮千圓を超過するに至つた。

銅像原型は髙知縣出身の塑像家・本山白雲氏に託し、設置場所に付き數ヶ月検討の結果、現在の場所を選定し工事監督を理事・島崎猪十馬に委囑(ゐしよく)し、同年四月起工式を擧ぐ。既(すで)に竣成したる銅像は同年九月一日の關東大震災に何等の支障なかりしも、運送上の關係により十二月五日擧式とし、先生の令孫・板垣守正の手により除幕され會衆一萬餘に上るの盛況を呈した。

次(つい)で十三年豫(かね)て編纂中の先生の記念略傳成(な)ると共に、島崎理事監督下に第二期工事たる先生生誕地(髙野寺)、外遊歸郷歡迎地(丸山臺)、銅像由來(髙知城)、並に潮江新田舊邸址等の各記念碑を竣工し、其の生じたる餘剰金を資金とし財團法人を組織し今日(こんにち)に至る。

而(しか)して右關係髙知縣内殘存者は島崎猪十馬、池田永馬二氏のみにして二十五氏の關係者相次(つぎ)て逝けるは感慨深いものがある。這囘供出は、九月二日髙知潮江天満宮司・宮地巖(いはほ)氏により、先づ壮行式祭典嚴修、次(つい)で四日撮影、九日取外し作業、十二日解體滞(とゞこほ)りなく完了を告げたるが、壮行式は髙橋髙知縣知事を初め衞戌司令官代理大原大尉、聯隊區司令官代理髙橋大佐、井上縣會議長、宇田代議士、佐野髙知髙等學校長、大野市長、津田土佐在郷將校會長、長崎縣農會長代理、瀧石土佐髙等女學校長、相原髙知師範學校教頭、畠山髙坂髙等女學校教頭、入交髙知商工會議所會頭、小田地方課長、川田、善波、鹿取、小川、石黑、長尾、宮地、西川、檜垣、島崎、門脇、長田、寺石、吉川、山本(正)、山本、久保田、奥宮、池田らの板垣會關係者並(ならび)に谷(たに)髙野寺住職等四十餘氏、銅像下テント内に參列、午後八時十分島崎理事が開式を告げ、池田理事は板垣先生八十三年の崇髙な巨歩を顧(かへり)みると共に、吾等は自憤自勵を以(もつ)て先生の報國の大精神に生きねばならぬ所以を述て挨拶し、修祓、降神、祝詞の行事に次(つい)で、祭主財團法人板垣伯銅像保存會理事長髙知市長大野勇氏は祭文を、來賓髙知縣知事髙橋三郎氏は壮行辭をそれぞれ恭しく銅像下に進んで奉讀した。


祭 文
板垣退助先生は天分絶倫、風格崇高、思想深邃、其の韜略は西郷南洲翁も敬服する所。夙(つと)に志を勤王に效(いた)して赫々たる武勳を戊辰東征に樹(た)て、廟堂(べうだう)に立ちて大政を參畫せらる。征韓の議敗るゝや西郷翁等と共(とも)に冠(かんむり)を掛(か)く。而(しかし)て翁とは其の方途を異にし、國民の自覺喚起を基調とし、民撰議院の建白、藩閥の打破に全力を傾倒し、維新鴻謨、御誓文の實現に邁進し、遂(つひ)に憲法發布、議會開設せられ、近代國家體制の確立を見、民情の暢達、國運の隆昌、文化の向上は前古に比類なく、更に日清、日露の二大戰役を經、世界列強に伍(ご)するに至る。是れ固(もと)より御稜威の然(しか)らしむる所。先人賛襄の偉績なりと雖(いへど)も先生の獻替、亦與(またあづけ)て力あらずんば非(あら)ざる也。宜(よろしき)なるかな明治維新史に不滅の光を放つと共(とも)に、全國五基銅像の建設を見るや、而(しか)して其の薨去せらるゝや畏(かしこ)くも優渥なる誄詞の恩命を拝(はい)す。洵(まこと)に恐懼感激に堪(た)へざる也。今(いま)や決戰時下、聖戰完遂に當り先生の銅像勇躍進で供出さるゝに至る。其の全國國民に與(あた)ふる刺戟、影響、甚大にして感銘は深刻なるべし。嗚呼(あゝ)また偉なりと謂(い)ふべし。茲(こゝ)に壮行の祭典に當(あた)り謹んで欽慕景仰の誠(まこと)を捧(さゝ)ぐ。在天(ざいてん)の靈(みたま)、冀(こひねがはく)ば照鑑あらんことを。
昭和十八年九月二日
財團法人板垣伯銅像保存會 理事長 大野 勇

壮行の辭
大東亞戰争勃發以來、既(すで)に一年九ヶ月。忠誠勇武なる皇軍將兵は南に北に廣袤(くわうぼう)數千粁(キロメートル)、史上類無き戰闘に皇國必勝不敗の基礎を確立しつゝありますの秋(とき)、今日(けふ)、茲(こゝ)に板垣伯の尊き英像再(ふたゝ)び現身(うつせみ)と化し米英撃滅の第一線に立たれんとするのでありますが、其の行を犒(ねぎら)ひ、其の行を壯(さかん)にせんとする本式典に列し轉々感慨無量なるものがありますと共に、關係者各位の心情に對し衷心(ちゆうしん)感謝を捧(さゝ)げる次第であります。

熟々(つらつら)惟(おもん)みまするに、壮途に就(つ)かれんとする英像は、憲政の神として無言の中に其の曾(かつ)て殘されました偉大なる功績の榮光に包まれ、建設關係者は固(もと)より縣民、多數の師、表敬仰の的として萬世不易、郷土(ふるさと)の蒼穹(そら)に屹立(きつりつ)して居たのでありますが、東亞の空に風雲(ふうゝん)急を告げまするや、蹶然(けつぜん)起つて敵國膺懲(ようちよう)の烽火(ほうくわ)たらんとさるゝのであります。郷黨人士の思慕(しぼ)愛惜(あいせき)の情に於きまして眞(まさ)に忍び難きものゝあるは固(もと)よりの事でありますが、大いなる目的の爲に永久無限の大生命として大義に歸一せんと致(いた)しまする其の行たるや、史上類例乏(とぼ)しき壮擧(さうきよ)たるを思はざるを得ない所であります。

今(いま)や決死の眦(まなじり)に言擧げせず、七度生まれて君國に殉ぜんとされまするこの英像の雄姿精靈が、率先身を以て範を垂るゝ殉國の大號令に應(こた)へまして、我等亦(また)『撃チテシ止マム』の切々たる氣概に燃え上がりますと共(とも)に只管(ひたすら)英像凱旋の日、再び悠々たる其の雄姿を此の地に於て相見えまするの日を期(き)しつゝ、飽(あ)くなき闘志闘魂を沸(た)ぎらせ、祖國を郷土を守り抜かん事を固(かた)く誓て止まないものであります。希(こいねがは)くば安(やす)んじて此の行に就かれん事を一言(ひとこと)蕪辭(ぶじ)を述べて壮行の辭(ことば)と致す次第であります。
昭和十八年九月二日
髙知縣知事 髙橋三郎

(『板垣退助先生銅像供出録』より)


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投稿日:1943/09/02

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