話は文明開化の前夜ころに遡る。当時の藩主・山内容堂公が高知市潮江新田に浦戸湾に面して建てた釣り御殿を(明治10年頃)国事に奔走していた板垣伯に贈った。喜んだ伯は長くそこに住んで、時の自由を唱える幾多の天下の名士たちと夜を徹して「自由民権」の理想を談じた。
伯の亡きあと、薫陶を受けた故湯原甚太郎氏が邸の在りし姿をそのまゝに桟橋に移し、料亭・見晴亭を経営した。その頃県内を二分していた政友、憲政両会の争いを円くするため両派の首脳たちで川島猪之助、下元鹿之助、森淳太郎、橋田早苗、水野吉太郎、大西正幹、野中楠吉の七氏が結束した大松クラブが料亭のさまは見るに忍びないとして水野氏が発起人となり、昭和十年ごろ東九反田棒堤にある水野氏の土地五百余坪を同氏の提供を受けて見晴亭を移し板垣伯の住んだ当時そのまゝに再建した。
この土地は、そのむかし板垣伯、西郷隆盛、木戸孝允の三巨頭が会談した古歴を秘めるいわれの地で、それ以来水野氏が大事に管理、自由の育ての親の在りし日が、ほうふつとしのばれていたが、同氏の死亡後、未亡人千鶴さん(五九)が公共施設にすればよく保存され先人たちの意思も生かされるとの考えから昭和十七、八年ごろ高知市(当時の市長は川淵洽馬)に寄附した。ところが戦後の住宅難から市は二十二年はじめのこと、転用住宅として引揚者、戦災者たちを住ませたもの。
その後、四ヶ年余り。いまは十一世帯三十五名の大人数が約六十畳を十一室に区切った部屋にあふれ、かつての「自由の歴史の家」は面影をも止めていない。オムツの干され、そのうえ南海震災で二階は吹き飛び伯が愛したと伝えられる階下十五畳の大広間や豪壮を極めた一つ一つの建具の枠され見当らず、ことに画人たちが垂涎する金粉を散りばめた竹模様の襖もわずか五枚を残すのみ。それでも高知市観光課では平気で突っかい棒を使い干物の並ぶ同邸を「これが『自由は死せず』の板垣邸です」と県外観光客に案内している。
過日訪れたある外人は「これが民主主義に憧れる日本人のすることなのか」と嘆いたという。
【水野千鶴さん談】
高知市ならば、完全に保存してくれると思って寄附したのに現状はまるで木賃宿です。余りにもひどいので先人たちの守り育てた精神にも反するからと幾度も市長さんに抗議したいと考えつゝ過ごしていました。
【岩川真澄助役談】
震災で随分傷んでいたものを市が手入れしたが、戦後の住宅難からやむを得ず住宅にあてたものだ。
(『高知新聞』昭和26年(1951)7月21日附朝刊より)
相当広い家のようだが四年間も転用住宅に提供され十一世帯三十五人もが住めば荒れるのも当然である。しかし、「当然」なのは「荒れること」であって「荒れさせた」のは「当然」とは言えない。歴史ある「自由の家」を集団住宅に提供することの当否はしばらくおき、山の神のホコラでもほしい住宅払底のあの頃のことなら、やむを得なかったものと仮りに認めよう。しかし、それならそれで原形保存のための管理人を置くとか監視を厳重にするとか適切な方策を講ずべきなのに何もしていない。それに四年間というのはあまりに長すぎる。というのも要するに文化財に対する認識の問題である。「自由は死せずの板垣邸。それをこのように壊わすのも民主主義的自由の本領である」とでも高知市の観光課は説明しているのだろうか。
責任の所在は違うが寺田寅彦邸の場合だってそうである。酔ったあげくの乱痴気騒ぎはまだしも押入れから糞尿が発見される始末には遺族から「寺田の名前を返せ」と要求されても馬耳東風。世話役は依然として「貸席業」の黒字を自慢げに報告しているそうだ。
かつて土佐に来た総司令部のコーフ大尉は土佐人の文化財に対する無関心を指摘したが、有光次郎氏の渡米土産にもアメリカ人の文化財尊重の気風を賞揚していた。「破壊主義と民主主義とは両立する」などクレムリンの主だって言わないだろう。
(『高知新聞』昭和26年(1951)7月21日附朝刊(1面)より)