第6回 勉強会は「板垣退助と兵法学」

来年・平成30年(2018)は、明治維新150年であると共に、板垣退助百回忌をむかえる年となります。


今回は、退助の学んだ兵法学の内容と武士道精神に関する勉強会を行います。知っているようで、知らなかった板垣退助の生涯をわかりやすく解説します。


【大阪会場】
●とき:平成29年9月24日(日) 13:00(開場)
●ところ:大阪府大阪市北区太融寺町3-7
              太融寺本坊
●記念講演:明治維新の元勲・板垣退助に学ぶ

●テーマ:『板垣退助と兵法学』

●主催:一般社団法人 板垣退助先生顕彰会
板垣退助と兵法学ご案内フライヤー.PDF


板垣退助ゆかりの大阪・太融寺で記念講演を開催

板垣退助を「社会運動家」や「思想家」だと思っている人々がいます。それは間違いではありませんが、それは、一つの側面から見たとらえ方にしか過ぎません。退助の人格が形成され思想が成熟する過程を知るには、彼の軍略家であった面を掘り下げ、「兵法家」であった根底を顕彰する必要があるのではないでしょうか。板垣の勤王精神は、その後、頭山満先生をはじめとする自由民権運動家たちに多くの影響を与え今に至っております。

 

テーマは『板垣退助と兵法学』

今回は、『板垣退助と兵法学』そして『板垣の武士道精神』に的を絞って講演を行いました。


板垣退助顕彰講演(太融寺本坊・本会撮影)

当日、沢山の方々がお集まり頂きました。
また、前回同様、お手伝いに駆けつけて下さった方々も多数おられました。
奈良県や神戸市垂水からご来場された方々などあり、出版物や他の板垣関連の講演会などでは聞けないような、話も詳しく解説されました。

 

「板垣関連の歴史には、今までそれほど詳しくなかったのですが…」という方も参加されていました。


板垣退助顕彰講演(太融寺本坊・本会撮影)

前回の講演会は時間一杯となってしまった為、今回は30分開場を早くして、講演時間を長く取れるようにいたしました。
講演後は質疑応答などもあり、充実した内容となりました。「板垣が現代に生きておれば、まず何を行おうとすると思いますか?」という核心をついた質問も飛び出しました。講演を熱心にお聴き下さり、講演後に法人会員となって下さった、会社の経営者さまなどもおられました。


「国会期成同盟」石碑前にて(太融寺中庭)

講演後、太融中庭へ移動。

 

前回同様、天候にも恵まれ「国会期成同盟」石碑前にて記念撮影を行いました。記念撮影の後は、大阪梅田・東通りに席を移して懇親会を行いました。叱咤激励と今後の提案など多数ご意見を頂き恐縮です。


明治維新150年・板垣百回忌 板垣精神顕彰の扇子

来年(平成30年)は、明治維新150年・板垣退助百回忌。様々なイベントがされることが予想されますが、本会では特に板垣退助と土佐藩の勤王精神について焦点をあてた講演を行いました。高知県では今、【維新博】が行われていますが、戊辰戦争で本当に戦われた方々、板垣退助、谷干城、片岡健吉、山田平左衛門をはじめとする、本当に戊辰戦争で本当に戦われた方々への顕彰は、あまり成されていないのが残念です。


板垣退助と兵法学レジュメ       (板垣退助先生顕彰会編)
1.はじめに
板垣退助は、『孫子』は、丸暗記できるほど覚えていたと言われる。また武田流軍学や、山鹿流軍学の素養があり、のちには洋式騎兵術を学んだと云われているが、具体的には何を学び、いかに活用したのかを考察する。
2. 武田流軍学
板垣退助の先祖・板垣駿河守信方は、甲斐武田家の親族衆で、武田信玄の傅役を務め、また武勇の誉れ高く、武田二十四将の一人に数えられる名将であったと云われている。特に曾祖父の乾正聡は、武田流軍学の稀覯書を多数蒐集していた。そのため板垣退助も幼少の頃から武田流軍学に慣れ親しんだ。家には歴代相伝した武田武将を描いた掛軸があり、それら名将の活躍を聞いて育ったものだから、少壮気鋭といえば聞こえが良いが要は腕白盛りに育った少年であった。『森復吉郎回想録』によれば、退助は、幼少時代、土佐城下京町の小笠原家の塾に通ったが『経書』には興味を示さなかった。しかし兵法学は非常に好きで、朋友の家で軍学書を見つけると直に借りて熱心に読んでいたという。
3. 山鹿流軍学
山鹿流は、山鹿素行(1622-1685)が播磨国赤穂藩へお預け身となった時に赤穂藩に伝えられた。赤穂藩改易の後もこの兵学は伝えられ、幕府が開設した講武所の頭取兼兵学師範役に窪田清音(くぼた すがね, 1791-1867)が、就任したことにより、幕府兵学の主軸となった。窪田清音から若山勿堂(わかやま ぶつどう, 1802-1867)に伝えられた。窪田清音の兵学門人は三千人と云われ、退助の他に、谷干城、勝海舟らの逸材が学んだ。清音の先祖も退助と同じく、甲斐武田家の旧臣であり、甲州流軍学、越後流軍学にも精通していた。清音は、山鹿流の伝統的な武士道徳に重点を置いた講義に加え、幕末の情勢に対応した練兵の必要性を唱え、『練兵新書』、『練兵布策』、『教戦略記』などを著している。

【赤穂山鹿流伝系】『山鹿素行兵法学の史的研究』によれば、赤穂山鹿流の伝系は、
∴山鹿素行→大石良重(大石内蔵助の叔父)→菅谷政利→太田利貞→岡野禎淑→
清水時庸→黒野義方→窪田清音→若山勿堂→板垣退助となる。

4. 呑敵流小具足術(竹内流小具足組打ち術)
1)板垣退助は、呑敵流小具足術を土佐藩士・本山団蔵重隆から学んでいた。本山団蔵の先祖は、山内家土佐入国以前より土佐北部を領し「土佐七雄の一」に数えられる家柄。
2)明治15年(1882)4月6日午後6時半頃、板垣は帰途に就こうと岐阜中教院の玄関を出た時、短刀を振りかざした暴漢・相原尚褧に急襲されたが、この「呑敵流小具足術」で身をかわした。これによって本山団蔵から免許皆伝を贈られた。
3)「岐阜遭難事件」が有名だが、その後も暴漢に襲撃されている。ステッキの形をした仕込み杖を所持していたとされ、「国会議事堂」の板垣退助銅像はその姿と言われる。
5. 英信流居合術
高知県の「英信流居合術」は、始祖・林崎甚助重信より第七代・長谷川主税之助英信に至って一大進歩を遂げた為「長谷川流」、「英信流」、「長谷川英信流」などと称せられた。

始祖・林崎甚助は、出羽国楯岡の人で、近世流伝した抜刀流の一派であった。第七代・長谷川主税助英信が、その技に磨きを懸け、新たに「長谷川流」と呼ばれる流派を創流した。この流派が第十代・林六太夫守政によって、土佐藩に導入され「御留流(おとめりゅう)」として、藩外不出の居合術として保護され藩内で継承された。幕末になると、第15代藩主・山内容堂がこの剣術に熱中した。容堂の側近をつとめた板垣退助は、「七日七夜の間休みなしの稽古を続けた。数人の家来がこれに参加したものだが、あまりの烈(はげ)しさにみな倒れて、最後まで公のお相手をしたものは、わずか二人か、三人にすぎなかった」(『史談速記録』)と、容堂の稽古ぶりを証言し板垣もまた、この剣術の修業に励んだ」

とある(『板垣退助と英信流』広谷喜十郎著(所収『高知市広報 あかるいまち』2007年7月号))。この流派は、現在は「長谷川英信流」の外、「大森流」、「無想直伝英信流」、「夢想神傳流」等とも言われているがすべて源流は同じである。
この居合術が、明治維新以降の「廃刀令」のあおりを受けて、断絶の危機にあったが、岡林九敏、岩田憲一らの著によれば、「此の危機を救うて呉れたのが故板垣退助伯である」としている。同氏らは

「明治25、6年頃、大日本武徳会創設前で、殊に帯刀禁止令発布後数十年を経過している事ではあり、真剣を打振う居合の如きが、文明開化を追うに急なる国民に顧られそうな筈は無く、五藤正亮、谷村樵夫、細川義昌等の達人が伝統を受継いで現存して居り乍ら、殆ど之を執心修業せんとする者は無く、又、之等の先生も唯単なる余技として死蔵せるに止り、或は神職として、或は政界の人として時勢に従ってゐた。其の内に段々居合を知る人も物故し、今にして後継者を造らざれば高知藩門外不出の此の武技も遂には世に之を伝える者が無くなるであろうと非常に痛惜慨嘆されていた時、板垣伯の尽力によって、明治26年、高知市新堀(材木町)にある竹村與右衛門氏邸内に道場「武学館」が建てられ、五藤正亮をその師として聘せられ、一般教授の任に当られたのである。それが縁となって五藤先生は当時の第一中学校(現 高知城東中学校)の校長にして居合家の渋谷寛といふ人に委嘱され、のち同校の居合教師となり、また、他中学校にも招聘せらるゝ事となった。明治31年、其の歿せらるゝや、谷村樵夫先生が之に代り、同36年、谷村先生の歿後、大江正路先生が之に代はらるゝ事となった。五藤・谷村・大江の三先生に依り居合の命脈を継ぎ、又、県外での第一人者である中山先生もこの五藤先生の門下の森本兔久身先生に手解を受けられ、更に細川先生に就て修得された。これらも板垣伯の斡旋で中山先生に伝授せらるゝに至った聞き及んでいる。以来、中央では中山先生、土佐では大江先生の努力に依って居合術が全国的に普及し、今日の隆昌を見るに至ったが、危機を救ふて此の基礎を固めて呉れた恩人は板垣伯である。実に板垣退助伯は、舌端火を吐いて「自由民権」を提唱され、高知県をして「自由」発祥の地たらしめられたが、更にこの土佐居合術の恩人が「自由の神」として知られる板垣伯であったことを知ってもらいたいのである」

と記している。参考文献:『英信流居合術と板垣伯』岡林九敏著、(所収『土佐史談』第15号)『英信流居合と板垣伯』(所収『土佐の英信流 旦慕芥考』岩田憲一著)『板垣退助と英信流』広谷喜十郎著(所収『高知市広報 あかるいまち』2007年7月号)
6. 孫子の兵法
安政3年(1856)、四ケ村禁足の処分を受けた退助のもとに、同じように謹慎処分を受けた吉田東洋が来訪し学問を説く。退助は東洋の塾に通うことはなかったが、『孫子』を読んで独学し、暗記できるほどであった。
7. 大坪流馬術
はじめ大坪流馬術・馬工郎(馬喰)乗りを学ぶ。その後、要馬術(ようばじゅつ)を学んだ。要馬術とは鞍上で槍刀を使用し、かつ敵騎と組打ちを行うもの。
8. 源家古流「調息流」馬術
馬を疲れさせず、遠駆けさせる馬術で、のちに西洋式騎兵隊創設にこの素養が役に立ったと言われる。『田村久井談話筆記』によれば、明治初年に騎兵を置いたのは幕府(静岡藩)、紀州藩、土佐藩のみで、のちに桂太郎が陸軍次官の時、板垣に面会し土佐騎兵編成の時のことを尋ねた時

「土佐は三面山を負い他国より侵入を受くる事容易なれば、国境に騎兵を置き伝令などに必要なれば国に事あらんと察し、斯く早く置きたり」

と答えている。その数は最初、三十騎ばかりであったが、要馬術を訓練させたためその動作は甚だ優れていたという。明治4年(1871)、薩摩、長州、土佐へ御親兵要請(近衛師団の前身)の際、騎兵の献上が出来たのは土佐藩だけで、板垣の功績によるものが多い。
9. オランダ式騎兵術
退助は、元治2年(1864)4月、江戸へ兵学修行へ出て、江戸で幕臣・倉橋長門守(騎兵頭)や深尾政五郎(騎兵指図役頭取)からオランダ式騎兵術を学んだ。はじめは私費で留学し、慶応元年(1865)1月14日から藩費での留学となった。オランダ式と云っても当時、ヨーロッパでは「ナポレン流軍学」に基づくフランス式が盛んでそれをオランダ語に翻訳したものが、長崎の出島経由で日本にもたらされたもの。幕府は、慶応3年(1867)シャルル・シャノワーヌ大尉らを軍事顧問に招聘し、兵制をフランス式に変更するが、退助が江戸で学んだ頃は、オランダ式であった。兵制変更は、用語がオランダ語からフランス語に変った程度で大きな混乱はなかったといわれる。
10.土佐藩の軍令改革を行い近代的部隊を創設
1)土佐藩は退助を藩の軍令改革の主導者として抜擢。大監察(大目付)、土佐藩軍備総裁となる。退助は、兵制を改革し、北條流弓隊を廃止して、銃隊を作り武力討幕に備う。慶応3年8月20日、アメリカ留学を命ぜられる(実現せず)。
2) 迅衝隊の創設。板垣退助が編成した迅衝隊は近代的軍隊であった。

●迅衝隊は給料制であり、毎月棒給が現金で支給されていた。
●迅衝隊は病気欠勤が認められており、従軍医師の診断書と隊長の印を受け「欠勤願」を提出することが出来た。
●迅衝隊には「野戦病院」があり、従軍医師団が同行していた。
●洋式の軍服は京都出発前に個人が注文して作った。
●迅衝隊には「砲銃局」があり、スペンサー七連銃を販売していた。
●迅衝隊は、小隊を左半隊・右半隊に分け、半小隊で行動することができた。
●迅衝隊には「軍事郵便」といえる飛脚便があり、土佐と往復して留守宅に届いた書状を転送して戦地で読むことができた。

などがありこれら部隊の創設には板垣の智略に富んだ計算が成されている。これらの内容が戊辰戦争の勝敗を決したものであると考えられている。参考文献:『宮地團四郎日記(土佐藩士が見た戊辰戦争)』小美濃清明編
11. フランス式兵学
明治2年、退助は日光で自らが戦い打ち負かした相手である、旧幕府伝習隊士官・沼間慎次郎(沼間守一)や、松浦巳之助、中條昇太郎、後藤武三郎を、正式に土佐藩の教官に任じて、フランス砲兵少尉・アントアンヌを招聘して、歩兵・砲兵・騎兵を全てフランス式兵制式に一新し、これを学んだ。特に旧伝習隊の沼間などは、敵ながら天晴れな戦いぶりに感じ入り、敗戦後に苦労をしているだろうと特に板垣が探させて出仕を促したもの。板垣は、勝っても驕らず、正々堂々と戦った敵に対しては情けをかける武士道精神があった。沼間は、教官、新聞記者などを経て、板垣に師事し自由民権家となった。
12. 御親兵の献上
木戸孝允が、柏原数馬へ宛てた手紙によれば

「(明治4年)翌18日板垣大参事来訪。彼(土佐)藩近来大改革、既に昨春も知事公わざわざ薩州へ御出なされ候次第にて、ひとへに両藩に従ひ今一層朝廷のため盡力仕りたき趣旨にて、今日の大勢を想察仕り候ては前途の處いかにも切迫に存じ畢竟。御一新と申すも皇国御維持の目的相立たずては元々幕政に異なることなく、従来の勤王も何の故たらずと存じ奉り、甚だ長歎罷在り候處、此度薩州の主意等も承知、土州一藩の幸にこれなく天下の為め大賀し奉り候。さり乍ら一応知事にも申すべくとの事にて二十日までに相運び板垣も東行と相決し申し候」

とある。
13. 立志社の寸志兵
板垣の創設した「立志社」は、戊辰戦争で戦功をあげ維新後、陸・海軍に出仕したものが多くいたが、大半が明治6年の政変で下野してしまった。台湾出兵に際して「立志社」は、義勇兵を組織してこれを「寸志兵」と名付け国家の国難の際に備えようとした。
14.子供の命名
兵法学に熱心に取り組んでいた退助は、長女・兵、次女・軍、長男・鉾太郎、次男・正士と戊辰戦争前後に生まれた子供たちには、皆、軍事に関連する名前をつけた。
15.一君万民・四民平等
板垣が四民平等に取り組んだ理由は、国防の要となる建軍に向けて戦時の勲功を世襲するのではなく、軍隊の階級と同じく一個人の勲功とすべきであるという主張によるもの。今日では、当たり前の概念であるが、封建社会では勲功は世襲できるものと考えられていた。板垣は近代的軍隊を配備するには、身分制度が障壁となると考え、一君万民・四民平等を提唱し、上下一心となって苦楽を倶に享受しなければならないと考えたのである。


高知護国神社に建つ【迅衝隊】や【胡蝶隊】の奉納した石灯籠や、手水鉢は多くが毀損したままです。嘉永6年黒船来航以降、国事に奔走し忠義を尽くされた方々の礎のもとに、今の【日本】があることを、忘れてはならないのではないでしょうか。


前へ次へ

投稿日:2017/09/24

お問い合わせはこちら