弊会は京都霊山護國神社の「みたままつり(戦歿者慰霊祭)」へ。
例年【締め玉串】を奉奠させていただいておりましたが、本年は勤皇の志士を代表して弊会理事長が【筆頭玉串】を奉奠。嘉永六年以降、国事に奔走され散華せられた勤皇の忠臣、護國の英霊に謹しんで感謝と哀悼の洵を捧げました。
本年は沖縄の洞窟で見つかった遺品を、遺族の方へ77年ぶりに返還されることとなり、TV局の取材の方が多数お越しになっていました。新型コロナ・ウィルス蔓延防止の観点から直会はありません。
植田先生、木村宮司ならびに、関西白鴎遺族会の山田正克会長に御高配を賜り、その後、「英霊殿」で沖縄での遺骨発掘、遺品収集の現状を拝聴。さて私の家人の英霊は、ジョホール・バルで戦死しているが、8月15日を1週間も過ぎた8月22日の戦死であった。南方で終戦詔勅が伝わらず「終戦」を知らず戦い続けたのだろうか。戸籍謄本を確認すると「昭和貳拾年八月貳拾貳日 時刻不詳 マレー ジョホール方面に於て戦死」とあり「藤山朝章報告、昭和貳拾壱年五月拾四日受付」とある。終戦時の混乱の為か、死亡が確認され戦死公報が届くまで半年以上を要した。藤山朝章とは第303師団 独立混成第125旅団 第4砲兵司令部に属した藤山朝章少将のことで、昭和20年5月14日、本土決戦に備えて、司令部を台湾嘉義から鹿児島に移した。作戦本部は本土に撤退したが、前線ではそのまま戦闘が続いた。ゆえに命令が届かず「終戦」を知らなかった可能性が高い。生き残った者、散華した者、紙一重の差は何処にあったのか。その事を考えると万感胸に迫るものがある。
関西防衛を支える会の山田勇さんとは、戦艦大和の慰霊祭以来の仲。京都祇園の石碑建立の際は、記念品の一部を手配して下さった方である。コロナ禍の影響によって、SNSを通じては平素より好誼を頂いているが、お会いするのは久々。ウクライナ情勢や、安倍先生の暗殺事件を受け、世は混迷を極めている。共に今後の日本のあるべき姿を語りました。