令和4年は板垣退助の岐阜遭難【140周年】にあたる年です。
『板垣死すとも自由は死せず』の言葉が天下に広まった岐阜の『岐阜新聞』は、『自由と刃』と題して板垣特集を毎月第1日曜版に連載されることになりました。最終回の今回はいよいよ高知へ。弊会理事長が岐阜新聞の記者さまを高知へ御案内しました。
【自由と刃】板垣退助岐阜遭難140年
「自由」の志を今につなぐ。板垣子孫ら「言葉だけではなく実像の顕彰を」
7月16日、板垣退助の命日。土砂降りの雨の中、高知市郊外にある板垣家歴代墓所に読経が響いた。関西から駆け付けた玄孫の髙岡功太郎さん(48)は、静かに手を合わせ、自由民権運動のために尽くした高祖父の人生に思いをはせた。
土佐藩の武家に生まれた板垣は、幕末から大正の激動期を駆け抜け、1919年に83歳で亡くなった。
その生涯を象徴するのは、1882年に岐阜で暴漢に襲われた際に発した「板垣死すとも自由は死せず」の名言。
髙岡さんは「命を懸けて取り組んでいることが直感的に伝わる言葉だったからこそ、人々の心を動かした」と力を込める。一方で「文言は広く知られていても、どこで、どんな状況で生まれたのかを説明できる人は少ない。それが子孫として悲しい」と、ため息をつく。
髙岡さんは、板垣の実像をもっと知ってほしいと、一般社団法人板垣退助先生顕彰会(事務局・大阪府)の理事長を務める。「たとえあの名言がなかったとしても板垣の功績は揺るがない。岐阜事件後も暴力に屈せず、日本のために志を貫いた板垣の生き方や精神こそ語り継がれてほしい」と望む。
高知を中心に板垣の顕彰活動が続いている。翻って、名言の“発信地”は―。命日翌日の7月17日、岐阜遭難事件の現場である岐阜公園(岐阜市大宮町)で、事件から140年を記念した集いが行われた。可児市の歴史研究家、板垣國和さん(77)の呼びかけで実現。同様の催しを、岐阜市の有志団体が毎年開いてきたが、新型コロナウイルスなどの影響で、ここ数年は開かれなかった。企画者として奔走した板垣さんは「もっと地元で関心が広がってほしい」と願う。岐阜の集いにも足を運んだ髙岡さんは、高祖父の銅像を前に「板垣にとってもゆかりのある地。岐阜の方々とも一緒に顕彰活動をしていきたい」と話した。
銅像は洋装だが、写真の板垣退助当人は紋付きはかま姿。手元にはボーラーハット(山高帽)が置いてある。子孫の髙岡功太郎さんは「土佐桐の家紋は、江戸期に土佐藩主の副紋として使われたもので、戊辰(ぼしん)戦争の功労で使用を認められた。板垣はこの紋をとても気に入り、大事な時は紋付きを着用していた」との裏話を紹介する。(1918年、岐阜公園での板垣退助像除幕式に参列し、銅像を前にあいさつする板垣退助。髙岡功太郎さん写真画像提供)
写真をよく見ると、板垣銅像は「両手を下ろして胸を張り正面を見据える」ポーズ。現在、岐阜公園に立つ「右手を上げたスタイル」の銅像とは違うことに気付く。“初代”銅像は、戦時下の1943年に兵器の原料とするため供出された。現在ある銅像は戦後に再建された“2代目”。
板垣死すとも―。その志は銅像となって、今も事件の地「岐阜」から日本の自由と民権の行方を見守っている。