湊川神社『大楠公祭』昇殿参拝(令和6年5月25日)

本日は、大楠公のご命日。楠同族会所属(NPO法人板垣会理事)楠正浩理事にご一緒して湊川神社の楠公祭へ。


青葉繁れる好日にあたり、謹んで理事長が一首詠まれました。

菊水の守りし心 八千代まで
傳へ聞かさむ 時ながれども
        髙岡功太郎


本年(令和6年)度の湊川神社社報『あゝ楠公さん』に、拙稿【板垣退助の大楠公精神】が載り、色々反響があった。中でも、板垣家の先祖と土佐藩士・山田平左衞門の先祖、山田家とは婚姻関係で繋がっており、その山田家は江戸時代初期から『菊水紋』の使用を許されており、土佐藩士・山田家自身は「大楠公の末裔である」と云うことを誇りとしていた。…ただ、これが土佐藩士山田家の伝承に過ぎないのか、小生は判断がつかない為



湊川神社「大楠公祭」


楠同族会・楠正浩さま(中央)



(左より)髙岡理事長 垣田宮司 西口本部長


大楠公のご命日



本年度の湊川神社社報(髙岡理事長執筆)


(左)阿波徳島藩譜、(右)土佐藩譜の一致


【ご存知の方がおられたら御教示を乞う】と記して筆を置いた。すると、徳島藩の山田家(※ご先祖は土佐藩の山田家と繋がっている)に詳しい方からご連絡を頂き、徳島藩の山田家も『菊水紋』の使用を徳島藩主から許されて、江戸時代初期から使用しているとのことを教えて下さった。しかも、丁寧に東京大学史料編纂所蔵の『阿波国古文書』所収の『山田家系図』に記載がある箇所まで教えて頂いた。

また執筆時には探しきれなかったが、文久3年3月28日(1863年5月15日)、板垣退助が湊川神社へお参りしていることを見つけた。(※正確には乾退助の時代で、湊川神社創建前の大楠公の墓へであるが)状況は京都から土佐へ山内容堂に従って帰国する途中に立ち寄っている。この時、容堂は楠公を讃える漢詩を詠んで小笠原唯八(牧野群馬)に下賜している。(『板垣退助君傳記(第1巻)』宇田友猪著の107頁)

淤河一帯水無流 慷慨空過五百秋
欲問延元当日跡 楠公心事不平不

と云うのがその時、容堂公の詠んだ七言絶句である。

傳記では日付が曖昧だが『寺村左膳日記』と照合すると、3月28日の箇所に「(容堂公)御忍ニ而楠公ノ墓へ御参り被遊」とありこれに退助も同行している。「お忍び」とあるのは、本来参勤交代で決められたルート以外を通るのはNGのため。この日、一行は朝五時半頃に出発し、楠公墓をお参りし、日没頃に明石に到着し一泊している。

また今回、ご一緒させて頂いた大楠公御子孫・楠正浩理事は、土佐藩御典医・楠正興さまの玄孫にあたられるが、その楠正興医師は、明治18年(1885)7月18日、板垣退助を診察している。「板垣君は本月七日より微恙あられ、高知病院長本田氏及び楠氏其他の諸名医を聘して治療を受られし所、続いて軽症麻疹となられしに、病勢緩慢、且其順序を失はれず、今日に至つては次第に快方に赴かるゝ由。今左に医師の容体書を掲く。七月七日卒然異和を覚え悪寒様の感覚を以て初まり、続て腸胃及口内加答児(カタル)を発す。日を経るに従て、熱勢漸く昇り、十一日に至て体温三十九度に至り、此日初めて顔面及び頭囲に疹を発す。十三日に至て顔面の疹漸く密発し、従て駆幹に粗ほ発疹す。病勢頗る緩慢にして十六日に至り漸く成熟の期となり、同月十七日は熱勢最も高く、発疹最も密なり。十八日は已(すで)に落層期となる。体温猶依然たり。而(しか)れども気管支及肺等の発炎するを見ず、依之予后多くは良なるべし」(『土陽新聞』明治18年7月21日)

余談ながら小生(※髙岡理事長)の曾祖母はその楠正興先生が明治時代に開業された「楠病院」に奉職しており、謹んで様々な歴史のご縁を感じる次第。(理事長談)


祭礼後の直会でも和気藹藹と話が弾み活況を呈しました。(事務局より)


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投稿日:2024/05/25

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