青葉繁れる好日にあたり、謹んで理事長が一首詠まれました。
菊水の守りし心 八千代まで
傳へ聞かさむ 時ながれども
髙岡功太郎
また執筆時には探しきれなかったが、文久3年3月28日(1863年5月15日)、板垣退助が湊川神社へお参りしていることを見つけた。(※正確には乾退助の時代で、湊川神社創建前の大楠公の墓へであるが)状況は京都から土佐へ山内容堂に従って帰国する途中に立ち寄っている。この時、容堂は楠公を讃える漢詩を詠んで小笠原唯八(牧野群馬)に下賜している。(『板垣退助君傳記(第1巻)』宇田友猪著の107頁)
淤河一帯水無流 慷慨空過五百秋
欲問延元当日跡 楠公心事不平不
と云うのがその時、容堂公の詠んだ七言絶句である。
傳記では日付が曖昧だが『寺村左膳日記』と照合すると、3月28日の箇所に「(容堂公)御忍ニ而楠公ノ墓へ御参り被遊」とありこれに退助も同行している。「お忍び」とあるのは、本来参勤交代で決められたルート以外を通るのはNGのため。この日、一行は朝五時半頃に出発し、楠公墓をお参りし、日没頃に明石に到着し一泊している。
また今回、ご一緒させて頂いた大楠公御子孫・楠正浩理事は、土佐藩御典医・楠正興さまの玄孫にあたられるが、その楠正興医師は、明治18年(1885)7月18日、板垣退助を診察している。「板垣君は本月七日より微恙あられ、高知病院長本田氏及び楠氏其他の諸名医を聘して治療を受られし所、続いて軽症麻疹となられしに、病勢緩慢、且其順序を失はれず、今日に至つては次第に快方に赴かるゝ由。今左に医師の容体書を掲く。七月七日卒然異和を覚え悪寒様の感覚を以て初まり、続て腸胃及口内加答児(カタル)を発す。日を経るに従て、熱勢漸く昇り、十一日に至て体温三十九度に至り、此日初めて顔面及び頭囲に疹を発す。十三日に至て顔面の疹漸く密発し、従て駆幹に粗ほ発疹す。病勢頗る緩慢にして十六日に至り漸く成熟の期となり、同月十七日は熱勢最も高く、発疹最も密なり。十八日は已(すで)に落層期となる。体温猶依然たり。而(しか)れども気管支及肺等の発炎するを見ず、依之予后多くは良なるべし」(『土陽新聞』明治18年7月21日)
余談ながら小生(※髙岡理事長)の曾祖母はその楠正興先生が明治時代に開業された「楠病院」に奉職しており、謹んで様々な歴史のご縁を感じる次第。(理事長談)