湊川神社【例大祭】正式参拝(令和8年7月12日)

本日は、湊川神社【例大祭】へ。


5月25日の楠公祭に続き、7月12日の本日も湊川神社へ。

板垣退助自身も母方の方で山田家を通じて、大楠公の血縁と繋がっている話を、2年前の社報『あゝ楠公さん』で、書かせて頂きましたが、最後の決め手が分からない「ご存知の方がおられたら、ご教示を乞う」と記載しましたところ、何んと本当にご存知の方がおられ、大楠公から板垣退助に至る、続柄が判明しました。



大楠公墓所へお参り


玉串拝礼の前のお祓い


旧織田信長の家臣であった、山田孫右衛門宗重(『信長公記』では山田弥右衛門宗重)が後に、阿波徳島藩家老となりますが、その分家で徳島藩の分藩・阿波富田藩士となった山田家が土佐藩士の大庭家と婚姻。その子孫から、退助の母方の林家を通じて、大楠公の血が入っています。つまり、板垣退助は大楠公の子孫の一人であります。(この山田家は、土佐藩士山田平左衛門ら、土佐藩士の山田家の先祖でもある)ゆえに、この6月20日を以って、私も楠正浩さん(旧土佐藩医のお家柄)の推薦を得て、楠木同族会に入会することになりました。また遡れば、私の曾祖母は楠正浩さんの高祖父・楠正興さまの開業された高知の楠医院に奉職しておりましたし、私の母は大学教授でもあった垣田宗彦宮司のご尊父さまに国文学を習ったとのことで、卒業アルバムにも載っておりましたし、歴史の奇縁を感じる処です。



一同、着座して神事の開始を待つ・・・


楠同族会を代表し、楠正浩さまによる玉串奉奠



(左)髙岡功太郎理事長、(右)富永晃行先生


垣田宗彦宮司による御礼の挨拶


さて板垣退助自身も、土佐藩士の時代、現在の湊川神社となる前の大楠公墓所へお参りしてます。文久3年3月28日(1863年5月15日)、(正確には乾退助の時代ですが)状況は京都から土佐へ、山内容堂に従って帰国する途中に立ち寄っております。

この時、容堂は楠公を讃える漢詩を詠んで小笠原唯八(牧野群馬)に下賜しています。(『板垣退助君傳記(第1巻)』宇田友猪著の107頁)

傳記では日付が曖昧ですが『寺村左膳日記』と照合すると、3月28日の箇所に「(容堂公)御忍ニ而楠公ノ墓へ御参り被遊」とありこれに退助も同行してます。「お忍び」とあるのは、本来参勤交代で決められたルート以外を通るのはNGのため。この日、一行は朝五時半頃に出発し、楠公墓をお参りし、日没頃に明石に到着し一泊してます。

淤河一帯水無流 慷慨空過五百秋
欲問延元当日跡 楠公心事不平不

これがその時、容堂公の詠んだ七言絶句です。楠公精神と幕末勤皇志士に想いを馳せ、謹んで玉串を奉奠致しました。彌榮!(理事長談)


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投稿日:2026/07/12

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