
「土佐藩ゆかりの会」は、旧土佐藩主・山内豊浩さまを最高顧問に戴く土佐藩旧士族、学識研究者らを中心とする会です。
隔年で会報誌を発行しており、最新号が上梓されました。五藤会長の挨拶に始まり、第20代山内豊浩さまのこと、昨年の総会のことなど盛りだくさんの内容となっております。
土佐藩御典医・楠正興さんのことや、林家の武道免状のお話に並んで、髙岡理事長の筆による『土佐藩のゆかりを巡る旅と献歌』も所載されております。
会報と言いながらもしっかりとした製本でオールカラー(…しかも文字数制限なし)。
土佐藩の会の良い処は、みんな姻族関係で繋がっていて、確実に遠い親戚関係にあることの安心感。士族ではなくても同時代に土佐藩にいたことで、連名での書状があったり、何らかのゆかりが必ずあること。幕末に至っては、殆どが板垣率いる土佐藩迅衝隊に加わり、戊辰戦争を共に戦っていることなど。けれども、こういう発表の場が無いと、「お爺ちゃんは詳しかったけど聞いた内容忘れた」とかなってしまいがちな土佐藩政期のエピソードや子孫の近況などが余す事なく書かれていて、非常にマニア心を擽ぐる一冊となっております。(事務局より)
郡山市は旧二本松藩の領域にあたる。江戸時代までは荒涼たる地であった処に、明治新政府が地元の人々と協力して安積疏水を建設したことにより、肥沃な水田地帯に生まれ変わり、のちに市町村合併で新潟県の魚沼地域に抜かれるまでは、日本一の米の生産量を誇ったと云う。
そんな訳で「安積疏水」は町のシンボルであり、疏水建設に尽力した旧薩摩藩士の大久保利通公は「水源の神」として慕われ「大久保神社」が建立された。地元ではこの神社を維持すべく「大久保利通公顕彰会」も組織されている。同日のシンポジウムは、安積疏水の建設や開拓事業を通じて明治維新の功績を顕彰するもので、明治新政府に携わった人々の末裔が招聘された。大久保公の玄孫・大久保洋子さま、同上顕彰会会長・鈴木英雄さま、山本権兵衛閣下の玄孫・山本盛隆さまとならび、私にもお声が掛った次第である。
さて、このシンポジウムの前日に、初めて福島県の地に至った私が、真っ先に向った場所は「母成峠(ぼなりとうげ)古戦場」である。「板垣は母成峠で進軍を阻む賊を猛戦して討破り、十六橋(じゅうろくきょう)を突破し、馳突して会津城下に攻め下った…」と戦記で語られる名所。敵は十六橋を壊して官軍の進路を阻もうとしたが、板垣らの進軍は予想以上に速く、八月二十二日にはこの橋に辿り着き、日橋川を渡った。板垣はこの時「会津城下を己(おのれ)の奥都城と思え、立ち止まる者は味方とて斬り捨てる。大小便も走りながらせよ」と命令を発して急いだ。これだけを聞けば、板垣は何と無茶な男だと思われるかもしれない。板垣が会津攻略を急いだのには訳があった。江戸で大村益次郎が発した指令では「枝を刈って幹を枯らせ」というものであった。即ち「会津の顔色を伺い、協力せざるを得ない状況に陥った東北諸藩を掃討してから、本命の会津城を攻めろ」との趣旨である。しかし、『奈破翁(ナポレオン)戦記』を読んでいた板垣はこの作戦に懸念を示した。「仏国(フランス)は強国なれども、しばしば雪山に敗けを知ると聞く。吾等、薩土の兵もまた南国の育ちなれば、今は優勢たりといえど、奥羽の冬を越すに如何…」と私見を述べ「幹を根本から斬らば自(おのづ)と枝も枯れる」と返書し、本命の会津城攻略に的を絞った。薩摩、土佐の兵を御(ぎょ)する板垣は、長期戦となることを徹底して避けたのである。
この時、軍資金に欠乏した会津藩と庄内藩は、ヘンリー・シュネルという代理人を通してプロイセンに対し、蝦夷地を「九十九年間の租借」すなわち、北海道の広大な土地を事実上、売却する提案をしていた 。戊辰戦争ではフランスが幕府に助力し、イギリスが薩摩に協力的であったものの欧州諸国はつとめて「局外中立」の立場を採りこの内戦を静観した。…と云えば聞こえは良いが、要は欧州が全面的に加勢することで日本列島が欧州の代理戦争の舞台となることを避け、また勝った方と与(くみ)する打算、即ち「勝ち馬に乗る」思惑によるものであった。プロイセンの宰相・ビスマルクは日本の内戦に関し「局外中立」の立場から提案を一度は断ったが、三週間後に考えを改め「承諾書」を日本へ送った。プロイセンからの返書が届いたのは会津が落城して一週間後のことで、そのため、この契約は有耶無耶となった。「たった一週間」と思われるかもしれない。しかし、同時期に榎本武揚がポルトガルと結んだ「ガルトネル開墾条約」の例と比較して欲しい。この条約は五稜郭落城の一週間前に発効されてしまった為に、蝦夷地の一部が治外法権の領土となってしまい、明治政府がその後苦心して違約金を払い買い戻している 。幕末には鎖国をやめるべきかの「開港問題」で「勅許の有無」が大問題となったが、この広大な領土の割譲は、もとより勅許の有無など完全に無視した両藩の独断。いかに切迫した理由があったにせよ、勤皇の立場からは許し難い大罪であった。しかしながら、板垣はその罪を糾弾せず寧(むし)ろ藩主らの助命を嘆願した。それは来るべき日本を列強の侵略から守るにあたって日本国民の思想的分断を招いてはならないと判断したからである。北海道の広大な土地が海外の領土とならずに今あるのは、土佐藩兵が急ぎに急いで会津を落城させた尽力によるものであることは言を俟(ま)たない。そんな経緯があって私は感慨深いこの合戦の地を目指したのである。
最寄りの磐梯熱海駅からタクシーで北上、錦秋映ゆる山並みが眼前に広がる。安達太良山である。板垣退助が官軍諸兵を率いてこの地を鎮撫したのは、明治元年八月二十一日。…八月と云えば暑い盛りかと思えば、さに非(あら)ず。実はこれは旧暦であって新暦に直せば十月六日。奇しくも私が足を踏み入れたのと同じ季節であった。
「あれが母成峠です」と運転手の差し示す方に角柱型の石碑が見え、間も無く眺望の優れた峠に着いた。嗚呼、ここが百五十年前に、われら土佐藩兵が一命を懸けて馳せ上り戦った場所なのかと思うと、私は奮い立つものがあり、感極まり涙が込み上げた。母成峠の碑(いしぶみ)はその時の両軍の勇戦を讃えるものである。地元の人のお話によると、この碑(いしぶみ)の眼下に東軍戦歿兵士の墓(おくつき)があるとのこと。「せっかくここまでお越しになったのだから」と快くその場所を案内してくださった。こうして人生初めて福島に着いたその日に、私は導かれるように東軍戦歿兵士の墓に参ることに。不思議な運命の縁を感じながら謹んでお参りをした。顧みれば私は東軍兵士の仇方(かたきかた)となる西軍大将の子孫である。…しかし、そこは静寂として毫も怨みの念を感じなかった。寧(むし)ろ「よくここまで来てくださった」と泉(せん)下(か)の戦歿諸士たちが優しく語りかけてくれているようにすら思えた。この場所を初めて見るのに、懐かしい思いを感じたのである。
さて戊辰の話になるとよく「官軍が遺体埋葬を禁止した」という怨み節を述べる人がいる。実際私が東北へ赴いた時も、随所にそれが事実かのように喧伝されている立て札を目にした。しかし、土佐藩の名誉のために申し上げると、これは、通俗の歴史小説をもとにしたフィクションであって史実ではない。平成二十八年(二〇一六)十二月、会津若松市で発見された『戦死屍取仕末金銭入用帳』によれば、明治新政府は会津藩降伏の十日後にあたる旧暦十月二日に埋葬を命令しており、翌日の十月三日から同十七日にかけ、会津藩士四人が指揮し、会津城(鶴ケ城)郭内外などにあった五百六十七体の遺体を発見場所周辺の寺や墓など市内六十四カ所に集めて埋葬したこと、埋葬経費は七十四両(現在の約四百五十万円)、のべ三百八十四人が動員され、一人当たり一日二朱(同七千五百円)が支給されたこと、発見当時の服装や遺体の状態などが克明に記されており、「戊辰戦争で戦死した会津藩士の遺体が半年間、野ざらしにされた」という禁止令があったという話は史実ではないことが学術的に確定している。
福島県・母成峠古戦場跡と、その眼下にある東軍墓地に参りて詠める歌
陸奥(みちのく)に 散る身(み)戦(いくさ)の跡訪ぬ
くれなゐ染むる やまを仰ぎて 髙岡功太郎
めくるめく想いを胸にその日は過ぎ、投宿して翌日のシンポジウムに備えた。明けて早朝、会場入りする前、私は出演者の方々と共に、大久保利通公顕彰会の鈴木会長に案内頂き「大久保神社」にお参りをした。
福島県郡山市にある「大久保神社」に参りて詠める歌
みづ神と讃へられたる偉業(いさをし)は
東西(とうざい)人の心潤す 髙岡功太郎
さて会場となったのは郡山女子大学建学記念講堂。丹下健三氏の設計による二千人収容可能な大ホールであった。志學館大学・原口泉教授が基調講演を行い、錦心流一水会・鎌田薫水先生の演奏による薩摩琵琶が会場を盛り上げた。私は『板垣退助と河野広中の勤皇精神・五箇条御誓文と億兆安撫國威宣揚御宸翰を軸とした東北に於ける展開』と題した講演を行い、シンポジウムは好評を博して幕を下ろした。懇親会では美味しい東北の郷土料理とお酒で大歓迎を受け、その後、二軒、三軒と地元の方々とはしご酒を重ねた。
シンポジウムの翌日、お世話になった方々へ謝辞を述べて別れたあと、「せっかくここまで来たのだから」と郡山から足を伸ばして、会津若松へ赴くことにした。シンポジウムに来たつもりが、図らずも導かれるように、百五十五年前、板垣が進軍した道を辿(たど)る旅となった。会津若松に着いて、先ず初めに私が目指した場所が「西軍墓地」である。東北まで来て「東軍墓地」にお参りしたのに「西軍墓地」へ参らずに帰る訳にはと云う思いがそうさせたのか、道すがら墓参の花を用意して墓所前に辿りついた。…ところが墓所は固く施錠されて中へは入れない。近くにある歴史資料館に聞こうにも、あいにくその日は休館で鍵の管理者が分からない。「何ということだ。せっかくここまで来て」と思いながら時計を見ると時刻は昼前。滞在時間を考えると一刻も無駄にはできないが、どのみち何処かで午餐を取らねばならない。気を取り直して偶々入った食堂の店主と話すうち、東明寺の管理するとうみょうこども園がこの墓所を管理してくださっている事をご教示頂いた。これまた運命の導きか、かくして念願の西軍墓地へも無事にお参りが叶ったのである。
福島県会津若松市にある西軍墓地に参りて詠める歌
みちのくに散る皇軍(みいくさ)のあと訪ぬ
紅(くれなゐ)そむる 山をあふぎて 髙岡功太郎
聞けば、ちょうど先週の十月二十三日、西軍墓地では年一回の慰霊祭を斎行されたとのことで、墓所は静謐清浄に保(たも)たれていた。しかし、年々ゆかりある人々のお参りが減り維持管理していくのは困難を極めるとのこと。墓所の被葬者は土佐藩の戦死者が最多であるが、皮肉にも土佐藩ゆかりの方々の参詣は絶えて久しく、薩摩の方はまばら、長州の方は今も襟を正して香華を絶やさず、また東軍ゆかりの方々もお参りして下さっていること等々お伺いした。その後、とうみょうこども園内にある西軍戦歿者の祭壇、位牌にお参りさせてもらった。「牧野群馬」の名で東北の地に散った小笠原唯八の貴重な遺影写真も掲げられていた。乾(板垣)退助と小笠原唯八は刎頸(ふんけい)の友。志操を堅固にして退助と勤皇の盟誓を結んだ仲であった。唯八は戊辰開戦の後、江戸を鎮撫した総督府から治安維持を命ぜられ、町奉行として奉職していたが「奥羽では板垣をはじめ同僚諸士が身命を擲って戦っているのに、私だけが閑職(平和な職)に身を置いて良いのか」と葛藤。盟誓を守るため奉行職を辞して従軍を懇請し東北に散った傑(おとこ)である。
余談ながら別図に掲げるように、小笠原唯八の男系先祖は奥平氏で松平氏とも浅からぬ縁がある。唯八と退助とは親友でもあり遠縁の親族でもあった。万感の思いを胸に感謝と哀悼の洵を捧げ、私は土佐藩の霊魂とともに時を過ごした。気づけば私は三時間以上この西軍墓地で往昔を回想していたのである。ここでも初めて訪れるのに何故か懐かしい想いがした。しかしこれには理由があった。私はここ十五年以上、京都霊山護國神社の清掃奉仕に従事してきたが、その本殿脇の霊山にある奥都城に彫られた芳名と、ここにある奥都城の芳名が同じなのだ。当たり前だが、これまで掃苔してきたのは、御霊をお祀りしている霊標で、ここが本当の埋葬地。私はここでも東軍墓地で感じたのと同じ温もりを感じた。強大な敵に果敢に立ち向かい、この地に散った土佐の男たちの最期の場所がここにある。維新回天を成し遂げた偉大な郷土の先人を想い、次に来る時は是非ともこの慰霊祭に参列せねばと心に誓いを立てたのである。
●第二章 土佐のシンデレラ・寿性院のお墓に参りて
昨今の歴史小説では「土佐藩は身分制度に厳格であった…」と書かれるのをよく目にする。また掛川時代以前に召抱えられた家臣を重用し、長曾我部旧臣らは疎外されたと信じている人も多い。しかし、史実をひもとけば必ずしもそうとは云えず、藩政三百年の間に長曾我部旧臣らが多く土佐藩に召抱えられている。確かに浦戸一揆のあった一豊公の御入国当時は、警戒心から限られた者が重用されていたが、逆にこの時期、長曾我部旧臣の多くは伊予今治藩主・藤堂高虎に召抱えられ、その後、藤堂家の移封に従って四国を離れ伊勢国藤堂藩士となった。藤堂藩は津藩と久居藩からなり三十二万三千九百五十石。召抱えられた者たちも高禄を得て幕末まで存続している。さて板垣退助は戊辰の砌、会津の身分制度の厳格さを奇異に感じ、近代日本がこうなっては駄目だと反面教師にした。「会津落城と芋」の話に代表されるように、会津藩のように身分が上下間隔するのではなく、万民が国家と休戚を俱にする仲でなければならぬと感じ、彼の人生に多大な影響を与えた。太政官の許可を得て「人民平均の理」を日本で初(はじ)めて布告したのは、他ならぬ土佐藩であった。「ならぬものはならぬのです」と理由を排除し思考停止させた会津藩とは隔世の感がある。
藩政期に会津藩のような親藩譜代とは違う道を歩んだ土佐藩は、幕末明治に多くの人材を輩出した。その思想を醸熟させた遠因には、土佐のシンデレラ「寿性院」の存在があったのではと感じる。私は東北でのシンポジウムを終へて帰路についたが、席温まる暇もなく「土佐藩ゆかりの会」の会合で高知へ。コロナ明けの再会を祝いつつ、久しぶりに会の方々と忘年会を兼ね盃を交わした。土佐のお酒と料理に癒された私は、翌日「寿性院」のお墓を訪ねた。場所は、現在高知市三ノ丸と住所表記される小高い山で、その頂上附近に寿性院のお墓はあった。訪れた日は秋晴れの蒼天。謹んで墓所を清掃。草をむしり花を献けた。
「寿性院」は一般庶民の生まれでありながら、土佐藩主・山内忠義公に深く愛され、その側室となった女性である。安芸郡安芸町の出身であったとされ、高知城の「三之丸」に住したことから実名を忌避して「三之丸様」と呼ばれた。忠義公の正室は光照院(阿姫(くまひめ))であり、阿姫(くまひめ)は征夷大将軍・徳川家康の養女である。そのため「三之丸様」は一般庶民の生まれでありながら、家康公とも義理の親族(姻族)となるに至った。俗に「土佐のシンデレラ」と呼ばれる所以である。余談ながら阿姫の実父は松平定勝、生母は奥平貞友の娘・辰姫で、慶長十年四月十七日(一六〇五年六月三日)、阿姫が忠義公へ入輿の際、附家老として共に土佐へ赴任を命ぜられた辰姫の従姉弟の奥平義政(貞友の弟である奥平貞政の次男)が、小笠原唯八の男系先祖にあたる。
「三之丸様」はやがて懐妊した。これがもし男子であったなら、あるいは藩主となっていたかもしれないが、果して生れた子は女子であった。名は「佐与」と云う。佐与姫は、家老・山内将監信勝に嫁いだ。「山内」は称号で本姓は「乾」。一豊公の時代、播磨国で召抱えられた「播磨衆」で、播磨、近江、掛川と一豊公の移封に扈従し土佐に来住した山内家の股肱の臣である。当時の乾将監信勝の屋敷は高知城の南方。今の「ひろめ市場」の場所にあった。のちの深尾弘人屋敷となる以前のことである。知行地は南国市比江を中心とする領域で四千五百石あった。菩提寺は永源寺で「乾の大墓」で知られ巨大な墓石が立ち並ぶ。その中でひときわ大きな墓が、この「佐与姫」の墓石である。そもそもは家老となって土佐藩の黎明期を支えた山内(乾)備後和三の墓石が大きく造られたのだが、その孫が藩主の娘を妻に迎えたため、さらにその墓石より大きく造ろうとした。それゆえ、はからずもこの巨石群が誕生することとなったのだが、その最上座に立つのがこの「佐与姫」の墓石となっている。
佐与姫は三男三女を生んだ。承応二年十一月二十九日(一六五四年一月二十九日)、長女・松子を出産。承応四年三月五日(一六五五年四月十一日)、長男・乾信和(猪之助、市正(いちのかみ)、彦作と称す)を出産。(のち乾家当主を継ぐ。信和の長女の名も同じ「佐与姫」)明暦二年十一月十二日(一六五六年十二月二十七日)、次男・乾成勝(信宜(のぶよし)、丹六、作兵衛と称す)を出産。明暦三年十二月二日(一六五八年一月五日)、次女・与祖を出産。寛文二年九月十四日(一六六二年十月二十五日)、三男・乾三次を出産。三次は七歳で夭折。寛文三年十二月七日(一六六四年一月五日)、三女・菊子(幼名「乙松」)を出産。菊子は宿毛領主・山内(伊賀)半左衛門倫氏に嫁いだが十九歳で歿した。墓は宿毛の東福寺にある。
さて乾家は藩主の血をひき、広大な知行を持ち過ぎた。家老職は信和の長男・和好が継ぎ五千五百石を食んだが、和好には一人娘「兼(かね)」しかおらず、兼(かね)は桐間兵庫義卓に嫁いで、乾家には後嗣がいなかった。結局、和好の跡を弟の時和が継いだが、乾一門の権勢を警戒され、跡式五千五百石の内、千石のみ相続が許された。家老職は召し上げとなり、乾家の家格は中老職、さらにその子・和祥の襲封の時には馬廻役・五百石に減(げん)ぜられた。この山内将監信勝の「乾家」は、本姓は美濃の土岐氏で、清和源氏頼光流である。この乾家と勘違いされることがあるが、板垣退助の生家の乾氏は、同じ清和源氏ながら頼信流で、元を辿れば甲斐武田氏の支流・板垣氏である。この両乾家は前述のように、元来別流であったが、別図のように江戸時代の婚姻関係を通じて姻族となり、子孫は両系の血をひくことになった。板垣退助もまたこの「寿性院」と「佐与姫」の血をひく人物で、退助は土佐藩主・忠義公の血も「土佐のシンデレラ」と呼ばれた女性の血も受け継いで、幕末の土佐藩を勤皇に導いた。また近代日本の骨格を模索し国会を創った。かくの如き人物を生みだした土佐藩の度量の深さ、人材の豊富さの遠因は、世の浮沈の中で必ずしも身分の枠に捉われない自由な風土と柔軟さを醸熟したことにあったのではないかと感じるところである。
三之丸様は、寛文元辛丑年三月初六日(一六六一年四月五日)逝去。法名は「壽性院殿月清玉心大姉」。墓は歴代藩主の眠る筆山を憚(はばか)り、その筆山を対岸から眺望できる小高い山に埋葬された。これが今の高知市三ノ丸である。さらに娘の佐与姫(正蓮院)は、自らの死後、乾家の菩提寺・永源寺に埋葬される骨の一部を分骨し「先妣(なきはは)、寿性院の墓の脇に埋めるよう」にと遺言したことが『土岐流乾系図』に記されている。私は三ノ丸から先に見える筆山(ひつざん)の景色を双眸にやきつけ、静かに山を降りた。
高知県高知市三ノ丸にある寿性院の墓に参りて詠める歌
筆山(ひつざん)を 遙かに拝(をが)む 奥都城に
参りて辿る 己がみち筋 髙岡功太郎
(※以上『土佐藩ゆかりの会』第11号より)