自由の父を顯彰・板垣伯銅像再建の運動(昭和21年3月13日)

【自由の父を顯彰・板垣伯銅像再建の運動】
「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだ自由民權運動の父、封建的な藩閥専制の苦節に屈しなかつた郷土の大先輩板垣退助伯の自由平等の精神は軍國主義一色の世では一時忘れられてゐたが、敗戰後の平和的な民主日本建設にあたつて再認識されるに至り、これを顯彰して自由な世界建設の道しるべとするため財團法人板垣會、賛助團板垣會が中心となつて尾崎愕堂翁を顧問に推し、大野高知市長を代表者として社會教育の殿堂だつた板垣會館の再建、高知、日光、岐阜、東京芝公園、國會議事堂の五ヶ所にあつて戦争で應召した銅像の再建(※國會議事堂の板垣退助像は金属供出していない)、傳記、文獻の編纂などの運動を起すことになつた。事業計畫は四ヶ年で、豫算は大體三百萬圓となつてゐるが、すでに縣會議員、市會議員、町村長、會長、両院元議員有志や縣下青年團有志など関係方面の賛同を得てをり、來る四月六日の歴史的な板垣伯岐阜遭難六十二周年記念日を期して積極的な運動を展開する。

(『高知新聞』昭和21年(1946)3月13日附朝刊(2面)より)


●『高知新聞』の紙面では勇ましい言葉が躍っているが、1月の土佐高女での話し合いの結果、板垣會はGHQの意向を含んだ板垣像を提唱せざるを得なくなった。(これは軍人色を抹消した板垣像で現在の公共放送における板垣像へも影を落している)この方針転換(変節)によって板垣精神は死んだと思われる方々も多いと思う。

これこそが、板垣退助という人物が名は知られていても何をやった人物かわからなくなってしまった元凶であり、あるいは何のためにそれを行ったか見えずらくなってしまった要因でもある。

板垣自身が滔々と述べていることすら流布することを封殺され、やがて「板垣死すとも…」で知られる自由民権運動の主導者の板垣は…。などといった省略され定番化された板垣像を生むことになった。

戦前に板垣會が編纂し出版した『憲政と土佐』や、つい昨年に書かれた『板垣伯銅像供出録』とは180度異なることを言わねばならぬ時代となってしまったからである。しかし、占領統治下の日本において、役員の多くが公職追放に遭う中で、板垣會の存続をはかり、板垣の銅像再建を行うためには苦渋の決断であった。

この時、紙面では「藩閥専制の苦節…」云々とあるが、実際にその時、板垣會が直面した問題は「進駐軍による検閲」に屈しながら、会の運営をせざるを得ない状況であったことを感じながら上記紙面を眼光紙背に読んでもらいたい。


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投稿日:1946/03/13

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