(『高知新聞』昭和23年(1948)4月3日附朝刊(2面)より)
記念日主催の板垣會は本縣の後進が彼を慕うて作つたものであることから言ふまでもないことだらうが、自由、平等、博愛の精神を日本につたえ、ことにこれを政治的、政党的方面にとり入れた板垣伯は、何といつても日本の先覺者であつたといつてよい。
戰争中、B29が高知市の上空でバラまいた傳単(ビラ)にも、平和主義の第一人者として福澤諭吉らとともに、彼の名がとりあげられていた。
板垣伯の欧州旅行にはいろいろな目的があつた。伯はフランスでクレマンソーや、文豪ヴィクトル・ユーゴーなどと會談し、互に思想上、政治上の意見をたゝかわし、彼らをして「東洋にこの思想人あり」とうなづかしめた。
伯の主な著書は全集に収められているが、『一代華族論』の如きは千古の卓見がほのみえる。一節に曰く「わが國は平和主義による外、とる道が無い。もし強いてこれ以外の道を行かんとすれば、非常に危険で多大な犠牲を拂わねばならぬ。こんなことはわが國民の到底たえぬところである。もし好んでこれをなすなら、遂に滅亡のみ」と。板垣伯は半世紀前に、わが國の運命を予見してゐるではないか。
(『高知新聞』昭和23年(1948)4月3日附朝刊(1面)より)